1980年代の「渋カジ」から「チーマー」、1990年代「コギャル」まで、渋谷の街は常に新しい若者文化の発信地となってきたが、2000年代に入ってからある変化が起こっているという。消費社会とヤンキー文化に詳しい速水健朗氏が振り返る。
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2000年頃から、コギャルはギャルと呼ばれるようになり、いくつものギャルサー(ギャルサークル)と呼ばれるグループに分派されていく。
1999~2001年頃、渋谷駅の埼京線のホーム近辺でパラパラの振り付けを練習するギャルたちの姿が、夕方の風物詩としてよく見られるようになった。1996年の埼京線の渋谷乗り入れ以降の風景である。センター街を占拠するギャルサーのメンバーの多くは、都心の高校の出身者ではなく、近郊からの出張者や地方からの上京者に占められるようになっていた。
2001年にファッションや美容を学び、高等学校の卒業資格が取得できるBLEA女子高等部が渋谷に開校した。都心近郊の高校をドロップアウトして、再入学を果たす生徒も多い。むしろそれがギャルたちにとってのステイタス。BLEA女子は、ギャル界の最高学府なのだ。
『Popteen』を筆頭に『JELLY』『Ranzuki』『SCawaii!』などのギャル雑誌が台頭し、これらの読者モデルとして益若つばさや小森純、てんちむらが絶大な人気を誇るようになるが、彼女たちはみな首都圏近郊出身者で、中学時代までは田舎のヤンキーだったと自伝の中で述べている。
こうして歴史を辿ると、渋谷の街は、かつては裕福な都会の若者文化の発祥地だったが、のちに次第に近郊、地方出身者にとっての巡礼のための聖地となるという変遷を遂げていったことがわかる。
●速水健朗/はやみず・けんろう。1973年生まれ。メディア論、都市論など幅広い分野で取材、執筆、編集活動を行なう。主な著書に『ケータイ小説的。──“再ヤンキー化”時代の少女たち』、『都市と消費とディズニーの夢 ショッピングモーライゼーションの時代』。
※週刊ポスト2013年6月28日号