2012年3月に行われたW杯アジア3次予選のウズベキスタン戦で、日本はホームでありながら0-1で敗れてしまった。その試合は、遠藤が徹底マークされた為に、センターバックの今野と吉田から前線へパスを供給する形にさせられてしまい、遠藤が起点となるいつもの連係が機能しなかった。試合後、ウズベキスタンの監督は「日本は我々のやりたい事をさせてくれた。日本は我々にとって難しいプレーをしなかった。」と、日本の中心選手を押さえた事を誇っているかのようなコメントを述べていた。

あれから1年経ったが、先日行われたラトビア戦を見ると、遠藤が入ったとき、入らないとき、の問題に関しては何も変わっていないようだ。彼に頼り過ぎる、あるいは彼のバックアッパーの件はいまだに解決していない。

メンバーの固定化や、せっかく呼んだ選手を親善試合なのに使わない事に関して、ザッケローニ監督を批判している人は結構多い。僕もその1人だ。彼は今回それに配慮したかのように、控えの選手を積極的に使っていた。3−0の得点差になったこともあるのだろう。

しかし、コンディションの不揃いがあるとはいえ、最近尻上がりに良くなっていく日本代表を見ているとザックジャパンはすこぶる順調に見える。ラトビア戦に関しては攻撃もまずまず楽しめた。相手が相手だったとはいえ、この時期に代表の面白い試合が見られるとは思っていなかった。ザッケローニ監督の選手への指示は非常に細かいというが、少ない機会とはいえこれだけほぼ同じメンバーで試合を繰り返していれば、連携が良くなるのも当たり前なのかもしれない。もともと選手のレベルは高いわけだし。

確か、岡田ジャパンの時も基本的にセンターバックは中澤と闘莉王の2人で、他のメンバーもほぼ固定という形だった様に思う。「新しいバックアップのメンバーを親善試合などで試さなくてよいのだろうか?」と思った事が何度もあったし、采配を含めてその事を批判する人も多かった。コンセプトの浸透という理由で、親善試合まで固定メンバーで戦っていた状況は今とよく似ている。

ジーコジャパンの時はさらにそれが顕著であった。あの時は中田英寿や中村俊輔のように、例えどんなにコンディションが悪くても必ず使うという絶対的な選手を中心にメンバーを固めていたので、レギュラーと控えの選手の間でレベル格差やモチベーションの軋轢が生じてしまった。岡田ジャパンの場合、控え選手を含めたチームワークという点では、ジーコジャパンの時の様な決定的な断層はできなかったが、これは闘莉王や中澤などのまとめ役がいた事や、岡田さんの人柄などが功を奏したのかもしれない。

しかし、よく思い返してみるとトルシエが監督の時は真逆だった。「何故、W杯1年前になるのにメンバーをいまだ固定しないのか?」など、今とは全く逆の批判が多かったように思う。

トルシエ監督はポジション毎に役割と約束事を徹底さると同時に、フラット3という妙なコンセプトを打ち出した。そして、それらを明確にする事によって誰が入ってもレベルが変らないチームを目指した。それが出来ない選手やユーティリティ性の乏しい選手は即外された。当時僕はその事に、情を好む日本人には無い外人特有の割り切り、徹底した能力主義を垣間見た気がしたものだ。

もっとも、トルシエジャパンの時は予選免除があった為、チームを強化するには国内でのメンバー争いを激しくするしかなかったという事情もあったろう。国外で活躍する選手も中田英寿しかいなかった。彼のやり方、すなわち色々な選手を呼びチーム戦術を理解させ、ぎりぎりまで競わせることは、国内にいた選手にとってはモチベーションが上がっただろうし、それによりJリーグも活性化するというメリットもあった。実際、彼はJリーグを良く視察し、オリンピック代表やU20でも結果を残した。A代表においても、例えば中田英寿がいなくても代わりの選手でしっかり機能しており、他のポジションでも層が厚かった。

一方で監督としての経験不足や性格によるデメリットも多かった。彼は色々な選手を外しては呼びを最後まで繰り返したが、それはともすれば彼の気分によって変えているようにも見えた。そして同様な感じは、選手交代や布陣などにもしばしば見られ、その悪い面が本大会に出てしまった。決勝トーナメントのトルコ戦で、グループリーグで結果を出した2トップ下に中田英寿をおいた布陣を変えて、西澤と少し下がり目に三都主という、今までやった事もない奇策を唐突に採用し、トルコに先制されてそのまま終わってしまった。彼なりの論理はあったのだろうが、見ている方は選手交代も含めて単なる思い付きで采配しているようにしか見えなかった。勿論、トルコは格上だったしW杯ベスト16という成績は当時としては申し分なかったが、韓国がヒディング監督の見事な采配でベスト4にまで進んだのを傍で見て、余計に悔しい思いが残ったものだ。まあ余談ではあるが。

こうしてみると、僕らはメンバーを固定すれば固定したで批判し、頻繁に変えれば変えたで批判する。結局、日本代表は我が身などと思っていても、結果的には他人事の様な批判を繰り返しているだけだと気が付き、思わず苦笑いだ。どこかのしょうもない野党と一緒だな。まあファンというのは常に厄介でわがままなものなのだ、などと半ば強引に正当化を試みる。

代表の試合というのは普段サッカーをあまり見ていない代表のファンや一般の人も数多く見るので、選手の名前に馴染みがある方が集客力あり、一般人を重視するマスコミにとってもメリットがある、という事は言えるだろう。例えば古い話をすると、ドーハの悲劇となったオフトジャパンの時は、勿論今ほど人材豊富ではなかった時代だが、三浦カズ、ラモス、福田、高木、柱谷、堀池、井原、都並、松永、北沢や中山など、僕もサッカーを見始めた頃であったが、いいのか悪いのか、いつもメンバーが同じだったのでスラスラと名前を言えたものだ。こういう馴染み易さも、途上国の日本においてはサッカーの底辺拡大にかなり貢献していると思う。

オランダサッカーの様に、国全体で貫かれたコンセプトを育成の時からやっている強豪国ならいざ知らず、日本の様に発展途上で、しかも少ない機会で強化するにはある程度の固定化は必要なのかもしれない、と思う反面、しかしそれでは新たな選手の発掘を怠り、国内リーグが枯渇するという問題になりかねない、とも思ってしまう。第一、日本サッカー界に代表の財産が残り難い。

結局、代表の選手起用はその監督の考え方ひとつ、という事になるのだろうか。オシム監督の時は、国内組を中心に試合ごとにメンバーを変えていたが、彼はもともと、代表チームは試合ごとにコロコロとメンバーを変えるものではない、と考えていた様で、アジアカップ2007頃からは主力メンバーをほぼ固定した。メッセージ性の強い監督だったこともあるが、今にして思えば彼の時が一番、見ている方も納得できる形でW杯に向かっての代表が出来つつあった様に思う。要するに分かり易かった。

本来、選手の選び方にもその国のサッカー事情に合わせた「コンセプト」と「バランス」を考えるのが代表監督の大きな仕事の一つである事は間違いない。そしてその事は、ハッキリとわかり易くアナウンスすべき事だとも思うのだ。

ブラジルワールドカップまであと1年4ヶ月となった。ついこの間、ザッケローニが代表監督に就任したと思っていたのに、月日の経つのは早いものである。今までのザックジャパンを見ていると、宮市や宇佐美などが突然所属リーグの得点王になるとか、バロンドールを取るとかがなければ、劇的に今の固定メンバーが代わる事はないと思う。残り時間が少ない今となっては、その方が良いのかもしれない。本田や遠藤など、ザックジャパンの生命線である中心選手が本大会まで怪我をしない事を祈るばかりである。
【文:珍蔵】