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実際に起きた毒殺未遂事件をモチーフに描いた問題作『タリウム少女の毒殺日記』

2013.06.17 by

この記事は1年以上前に掲載されたものです。


2005年にタリウムによる母親毒殺未遂事件を起こして世間を騒がせた、“タリウム少女”をモチーフとした映画『タリウム少女の毒殺日記』が7月6日より公開。16日、早稲田大学にて上映会イベントが行われ、土屋豊監督と科学論・生命論が専門家の工学院大学教授である林真理氏が対談を行なった。

本作は、実の母親に毒物のタリウムを飲ませて殺そうとした実際の事件をベースにした物語。母親を毒殺しようと思ったというショッキングさはもちろん、少女が蟻やハムスターを観察する様に母親の様子を観察していた事が明らかとなり、世間に衝撃を与えた。

今回行われた対談では、映画をバイオメディア・アートの観点から紐解き、メディアリテラシーから生命倫理にまで触れる、濃い内容に。映画の内容にも触れた貴重な内容となっている。


林:もともとこの時代で科学的な概念が変わっていくのに興味があったので、Ips細胞や遺伝子組み換えが対象として取り上げられている本作に興味があった。本作で少女は人間と動物を同じモノと見ているが、人間と動物は違い、人間にはダメで動物にはOKというのはおかしい。人間は特別に自由、人権をもっているからというのは、私たちが作り上げた環境。生物と人間の境界線を示されたから、自分の意志でコントロールする。

土屋:タリウム少女は、その(生物と人間の)境界線を提示している。

林:そうやって提示するのであれば、彼女自身が自分をコントロールするのは矛盾するのでは?

土屋:少女自身も、自分で自分をコントロールすることの、そのもの自体のあやふやさはある。だがあやふやでは終わりたくなかった、やりきろうという覚悟があった。
 
林:プログラムの対義語は、途中で物語から神様に変わる。日本でいう日常用語的な神様という意味で使われているからしっくりくるが、これが海外だったら大変かなと。非常に日本的な、子供になにか説明するときのような意味合いで使っていたのが印象的。

土屋:ロッテルダム映画祭の観客から、「(自国では)身体改造やDNAを変える事という考え方が認知されていない。日本では認知されているんですね」と言われた。また、宗教的な観点からの生理的な違和感や、ちゃんと考えた上での観念的な違和感はあったと思う。そんな抵抗は感じた。

林:身体改造アーティストの方は与えられた身体のプログラムを改変していこうという主体的な自己として捉えられた。 でも体って自分の思った通りにはならないと思う。思った通りにならないから、面白い。

土屋:違う意味にデザインするために、試行錯誤を繰り返す。そしていろんな難易度を超えていく。簡単にいかないところが挑戦なのかなと。

林:つまりそこには制御したい欲望があるのでしょうか。でも生命は制御してしまうと生命じゃない対象になってしまう。それができないところに生命としての意味や重要さがあると見なせると思う。

土屋:タリウム少女はモノとしてみたくてしょうがない。人間たちはそう見られているじゃないかと思っているし、彼女自身、人間はモノだと思っている。科学的なところでもそうだが、高度の資本主義社会の中で、ひとつのデータ、消費者としての正しい行動を求められ、コントロールされているプログラムとしての私、モノとしての私を自分でとらえ返している。そこには私はそのモノを自分でコントロールするよ、自分の意志で使っていくよという、モノとしての応酬がある。

【観客より質問】本作では、神様とプログラムを対照的な存在として表していますがその理由は?

土屋:プログラムは、改変できるもの、コントロールできるもの。神様は、改変やコントロールが不可の得体の知れないもの。自分で手にして、改造することができないものを信じる事が出来ない少女にとって、数字で表せるものこそ真実。

『タリウム少女の毒殺日記』ストーリー

物語なんて ないよ。 プログラムしか ないんだよ。 
科学に異常な関心を示す≪タリウム少女≫は、蟻やハムスター、金魚など、様々な生物を観察・解剖し、その様子を動
画日記としてYouTubeにアップすることが好きな高校生。彼女は動物だけでなく、アンチエイジングに明け暮れる母親ま
でも実験対象とし、その母親に毒薬タリウムを少しずつ投与していく…。「観察するぞ、観察するぞ…」、≪タリウム少女≫は、自らを取り囲む世界を飛び越えるため、新しい実験を始める。

http://www.uplink.co.jp/thallium/

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