小説の方法 〜 伊藤整

我々は神の代わりに無を考えることによって安定しているのである。考える力がないのではない。考える必要を感じないでバランスを保っているに過ぎない。無の絶対は神の絶対と同じように強いものである。


P43
小説はあまり現実の諸条件とかかわりが深いために芸術の範囲に留まることが難しいのではないか(広津和郎の疑問)


P57
アルベエル・チボオデは文字と書物を持たぬ公衆の前で朗誦された叙事詩、物語が印刷されて室の中で読まれるようになった時に小説が成立したと言っている。


P59
小説という芸術では演者と鑑賞者が顔を合わせないということである。演者即ち作者は密室で一人でそれを作り演じ、読者は密室で一人でそれを味わう。その条件において初めて、他人に言うのをはばかるような内密のもの、罪深いもの、扇情的なもの、告白などがはけ口を見出して書かれるようになり、また読む方も他人の秘密な独り言を聞き、他人の隠したがる行為や考えを知るという戦慄を味わうようになった。


P60
抒情詩は、音楽を伴い、韻律の枠の中に自己を閉じ込めて、ひそかに内奥の情感を吐き出したのであろう。それはしかし、歌謡として他人の前で歌われる作法であったために、その情感の全姿態をあらわにすることができなかった。事実の経緯、そのあらわな姿は、詩においては必ず隠れて姿を現さないのであった。その部分を音楽が分け持って、抽象的に表現したのであろう。そして結末の詠嘆のみが音楽の雲の中にまぎれて鋭く立ち昇った。それゆえ、詩は音楽と韻律を身に纏い、あいまいな美しさに隠れ、詠嘆のみによって、嘆き、歌垣、愛撫し、訴える自己を表白することができた。


P61
ボオドレエル時代から、あるいはブレイクの時代から、抒情詩は公衆の前で歌われるという約束が空虚であることが反省された。詩は音楽に依拠せず、言葉自体の中に音楽を持とうとするようになった。その時から詩もまた一人の人間が一人の室で読むものとなった。そういうものとしての思念のまた表現の細心さと大胆さ、告白の迫真性と人間の悪と罪の昇華の道が詩の中に開けたのであろう。それは方法としてのサンボリズムを生んだ。


P64
私は小説の核心が作者その人のひそやかな告白であること、それはもと叙事詩という公衆の間で行われた朗誦から出たという風俗描写を手段としながらも、その本体は、秘密の部屋で秘密に書き記された自己の存在の罪と呻きとから発する真実さと美しさへの訴えの囁く声であることを信ずる。


P65
個我の声が切実なものであり、自己にあまりにも即したものであるときに、それは一人の密室で読まれるにしても社会に公表されるものであるから、羞と不都合とから作者を守るために仮想を、虚構を必要とする。


P77
芸術はエゴと環境の調和、照応の美である。文学は、言葉自体が生活の功利的用具であるから、論理を根本秩序としている。文学における芸術はこの論理の秩序の中に人間の完成の純粋な結晶を味わうことだ。論理の秩序をのがれることは、音楽が音の秩序を逃れることのように不可能である。作者が自分の名において自分のエゴをこの秩序に生かそうとするとき、偽装が必要となる。他者を借りなければならぬ。ヨーロッパの作家にとっての造型とは、少なくとも近代以降においては、なかばこの実証的論理性の顕われであり、なかば作者のエゴを他者の仮面の中に封じ込める操作である。


P96〜97
ロシアの文学者と日本文学者の違い
ロシア文学者は知識階級者の社会に席を持っていた
キリスト教によって倫理観を形成していた
・守るべき個我の権威があり、捨て去ることのできない現世があった
・日本の文学者は小さな商業ジャーナリズムに支えられていただけ
・逃亡奴隷の自由生活の実践者
・俗世と対立せず、俗世における自分の席を放棄(P168)
・限定された文壇という環境の条件とのみ格闘(P168)


P144
物語が作者の名を冠するようになって以来、作品は作者の優越せんとするエゴの充足的表白として役立ってきたのである。
(P146・ホオマアの頃は語り手が非存在という建前になっており、語り手のエゴは原則として禁じられている)


P144
音や色や線そのものには功利的な機能が直接にはない。
言葉は功利的な人間関係の表示を役目としている。言葉をその功利性において、人間関係の規定物としての機能において使おうとするのが散文なのだ。
(P184にも同じような記述あり)


P156
詩はそれを外から縛っていた音楽の形なる韻律を、内部に移入することで音楽から独立した。劇は散文に移ったときに、時代の精神と合致しえる実証的な芸術となった。だが、詩を失った劇は韻律による観念の、個我の声の高揚を失った。


P195
生命は常に秩序を越えようとする。人種、民族、死、性、美醜などという肉体それ自体の条件も越えようとする。そして生命は散文芸術の中では、その衝動の具体化のために、美、あるいは善への願望、あるいは悪や悲哀などをその棲家とする。音楽において音を、絵画において色を棲家とするように。生命は抵抗物を見出すときに現われるもののようだ。作為が本質的に芸術に必要なのは、実人生の場で味わうものを、より高く、十分に生命が反響する構成を設ける操作だからである。架空の構成はその反響の純粋表出のために必要だ。現世からの逃亡も、革命的行動もその操作となりえる。現実の悲哀や痛苦、満たされぬ欲望や善などはそれ自体の設定が生命の仮定された無限の充足を表現することで文芸では積極的な働きをする。否定的である限り、それは生命の無限の解放を予定することで、芸術の操作となる。


P196
それ以前の芸術の秩序から言えば不調和なるものが存在するとき、芸術家は何らかの形でそれを心象内で秩序付けなければならぬ。現世的秩序の論理が普通先にそれを消化する。しかしその段階では人間にとって不安定な外のものに過ぎない。そして美の、芸術の秩序はそれが単なる現われではなく、その生命にとっての意味、生命を限りなく味わうひとつのきっかけとなるような形でそれを吸収しようとする。それは新しい感情、新しいメロディ、新しい色の定着を要求する。


P312
小説とは散文芸術を通して、与えられた環境と気質の中でもっともよくエゴを確立する方法と考えられる。


P325
ロシア・フォルマリストと呼ばれる理論家たちは、芸術の存在理由を異化作用に見出した。異化作用とは日常的に見慣れてもはや何の感銘も受けず、現に眼にしていながら、見ている自覚すらも起こらないような対象を、思いがけない視点から描いたり、全く違う文脈の中に置き換えたりして、対象がそれ自体として存在するフォームや、質量感を、あらわに、新たに知覚させることである。惰性化した知覚に衝撃を与え、自分と世界との関係を再認識させることだ、と言ってもいい。


(理解のために読んだほうが良さそうな本)
広津和郎「散文精神について」
チボオデ「小説の美学」