日米プロ野球球団のスカウト陣が、いま最も注目する逸材。それは昨夏の甲子園で一躍大フィーバーの松井裕樹(桐光学園)、そして彼が織りなす“奪三振ショー”である。
甲子園では大会記録の1試合22奪三振(今治西戦)を記録して、4試合36イニングの奪三振率(1試合完投したと仮定した場合の平均奪三振数)は驚異の17.00。5月19日に行われた関東大会1回戦でも、18三振(12回3失点、168球)を奪った。
「高校入学当初、松井がストレートばかり投げているから理由を聞いたら、『レギュラーのキャッチャーがカーブをとれないから』とこぼしていました。それでストレートが磨かれて、余計に変化球が生きるようになったんです」
そう語るのは、中学時代の松井の恩師である青葉緑東シニア監督の中丸敬治氏だ。「指先が器用な子で、変化球は何でも覚えが早かった。中学時代も大切な場面では半分以上変化球を投げていましたよ。当時の決め球はカーブ。スライダーは高校入学後に覚えたみたいです」と中丸氏はいう。
青葉緑東シニアは、高井雄平(ヤクルト)らを輩出した名門チームである。シニア時代の松井は、入団当初からズバ抜けた能力を発揮していたわけではなかった。 中学入学時の松井は、投手として同級生の中で3番手だった。
「(自分より実力が上の選手に)何とか追いつき、追い抜きたいと必死でしたね。2年の後半からエースになり、3年で完全に抜いた」
3年夏にはシニアの全国大会で優勝し、一躍全国強豪高校の関係者らに名が知れ渡るようになった。
監督ですら「ここまでの選手になると思わなかった」と驚いたという松井の飛躍──その原動力は何だったのか。
「とにかく野球が大好きな子だったんですよ。野球が上手になりたくてしょうがない子でねぇ。教えてもらったことはノートに書き綴って、何度も読み返している。お母さんからの話では、年頃の子が熱中するテレビゲームには見向きもしなかったそう。家庭でテレビを観ているときでも、米櫃の中に手を突っ込んで、米をグッと握ることで握力を鍛えていたらしい」
中丸氏によれば、松井はシニア時代に綴った野球ノートを今でも読み返しているという。中学時代にできなかったことでも、体力が伴った高校生ならばできるようになることもある。
「フォークやチェンジアップは中学生には必要ないといわれながらも、コーチに教えを請うていた。当時は遊び半分で投げていただけですが、中学時代に投げ方が身についていたからこそ、フォークもチェンジアップも今になって投げられるようになったのでしょう」
※週刊ポスト2013年6月7日号