Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

せめて……少しでも……いれば、そう簡単に結論づけて語れないのでは?

・……ベネディクト・アンダーソンの言説を……知って……
・……フェルディナン・ド・ソシュールの理論を……かじって……
・……ゲイリー・ウィノグランドの写真を……見て……
・……アラン・ロブ=グリエの小説を……読んで……
・……キング・クリムゾンのライブ盤を……聴いて……

結局見逃しました

束芋 個展「ヨロヨロン」@原美術館
http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html
◇ 岡村桂三郎展 Keizaburo Okamura exhibition@高橋コレクション
http://www.takahashi-collection.com/
http://www.takahashi-collection.com/now/index.html


残念。
幸いにして、日本×画展(にほんガテン!)@横浜美術館は9月20日まで。
こちらは見逃さないようにしないと。。。
http://www.yaf.or.jp/yma/exhibition/2006/special/02_gaten/index.html

岡村桂三郎の日本画

http://www.kgs-tokyo.jp/interview/2006/060220b/060220b.htm
http://www.art-yuran.jp/2004/02/post_11.html
http://www.gaden.jp/info/2003a/030221/0221.htm


絵画のもつ「ブツ」としての強さに、写真はとうていかないません。
だから写真というメディウムを使うからには、
その弱さをひきうけていく覚悟が必要とされるでしょう。
しかし、その弱さにこそ逆説的な写真の強さ(可能性)があるのだと思います。

2005年11月の文書(mixi)より

写真は基本的に他のジャンルに比べて
非常に貧しく弱いものだと思っています。
しかし、その貧しさゆえに
かえって逆説的な豊かさを持っていることが、
写真の強みだと思います。

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とくに「無意味」な写真を撮っているわけではありません。
むしろ、すべてのモノに意味があるのではないかと思っています。


意味/無意味、普遍/特殊ということを
あまり意識の前景にもってくると、
そこに位階的な秩序を構築しがちです。
僕は、そうしたものからなるべく遠ざかりたいと思っています。
事物が単一の意味に還元できないということを考えることこそ、
重要なのではないでしょうか。


また、意味という言葉は非常にデリケートな言葉です。
日常において忘れられがちですが、
ある意味は別の意味の集合によって産出・生成されています。
意味を構成する意味すら別の意味によって構成されています。
しかも、それら諸々の意味は、個々人によって異なる差違の体系
(あるいは体系化される前の未然の状態)であるという。


金村修が写真をパラシュートにたとえましたが、
写真に写っている映像だけでなく、その意味=理解も
「どこに落ちるかわからない」ものだと思います。

テラン・ヴァーグと写真

イグナシ・デ・ソラ・モラレスの著作を実際に読んだわけではないし、
不勉強なだけかもしれませんが、ほかならぬ制作主体自身が、
テラン・ヴァーグ(terrain vague)などという言葉に
依りかかってしまうことには、非常に抵抗感があります。


もちろん依存してしまえば、やすやすと
コンビニエントな成熟(あるいは完成)を
手に入れられるのかもしれません。
しかし、それは単なる放棄であり、
手軽な思考のデッドエンドではないでしょうか。

再録1(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060329)

“私たちが言葉を読むのには程度の差があります。テクストに大きな価
値をみとめない場合、私たちはいくつかの段落を飛ばすことがよくある。
展開がじつに凡庸なので、先がどうなるかわかってしまうことがある。
私たちはページ上で自分の道筋を選択しています。指標から指標へと駆
け抜けていきます。精読しようとするときでさえ、私たちの注意力には
さまざまな揺らぎがあり、そのため、たとえばこれまですでに二十回も
読んだことのあるテクストについて講義を準備しているときに、新しい
ことを発見したりする。しっかり読んであったのに忘れてしまったもの
もある。しかしまた、それまではまったく注意を払わなかったものもあ
るのです。そして、これまで注意していなかったものの重要性を改めて
私たちに示してくれるものこそ、私たち自身の批判的な思考、私たちの
読書、私たちのエクリチュールの進展にほかならないのです。 ”
ミシェル・ビュトール『即興演奏』 第十二章・五二「読解可能性」より
http://www.bk1.co.jp/product/2369425

再録2(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060328)

“ただし、ここで集中的に論ずるのは後者のポップに限定される。ただ
たんに消費生活の「反映」でしかないようなポップ・アートならば、あ
らためて俎上に載せる必要は感じないからだ。もしそれらについてなに
か語るのならば、それら和製ポップのイメージが、いかに「おいしい生
活」を再生産するためのイデオロギーとして機能したかを、社会学的に
広告批評」すれば事足りるだろう。戦後の日本の美術の貧困を正面か
ら扱おうとするわたしの「暗い動機」の対象などに当てられた日には、
とんだ迷惑にちがいない。 ”
椹木野衣『日本・現代・美術』より
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4104214019/503-3119909-8069568