■タレントに理性は必要か | たかみゆきひさオフィシャルブログ「shadowcube」Powered by Ameba

■タレントに理性は必要か

今回はタレントの大命題

タレントに理性は必要か!?


常識的に考えれば、理性無いのはダメだろー! 必要に決まってんじゃん!
ってなると思うけど、たまには改めて理性の必要性についてきちんと考えておいてもいいんじゃないかと思う。

ってことで、
果たしてタレントに理性は必要か?


その前に、理性があることと
無いことってつまりどういうこと?

理性があるっていうのは感情や欲求に流されず、「ここはこうしちゃいけない」とか「今はワガママを言ってはいけない」とか節度を持って自我を押しとどめる行為。

逆に理性が無いっていうのは、本能的であり、感情的であり、どちらかというと節度はなく、ある意味ワガママだ。

例えば歌手ということで考えた時、
発声など技術を正しく活用する事、仕事をきちんと遂行する事などは理性の必要な部分。
しかし、表現力などアーティスト性の部分は理性を切り離す方向にある部分だ。

アーティスト性、すなわち、その人固有の「コア」の部分って通常は理性によって押し込められている。
普通の人は泣き叫びたい時に泣き叫んで感情を解放したくても、理性が働いて街中で泣き叫んだりはしませんよね。

アーティスト性が高い人程感受性が強く、その分他の人に無い表現をすることができる。

「コア」をさらけ出して、その「コア」が大衆の心に刺さる場合はアーティストとして成功するが、そうでもない人は凡人で終わる。

つまり、技術者であることとアーティストであることって、実は相反している要素なんです。
では、これらをタレントとしてどう持つか。

声優という職業の場合、技術者的な要素、職人的要素が多分に要求される。
しかし、よりよい演技をして人の心を打つという要素はアーティスト性に近い。

ということは声優という職業は、よりよい役者となるためには、この相反するふたつを上手く兼ね備えないといけないというわけです。

俳優にとって役が降りてきてるような究極の状態って、トランス状態に近いんだと思う。
それが真に役になりきっているっていうことに近いのかなって。
そんなトランス状態に於いてもどこかで理性がきちんと働いてる…

役者が演技をしている究極の状態ってそういう感じなんじゃないかな。

もちろん、製作側がそこまで求めているかどうかっていうのはありますが。


いずれにしても、アーティスト性を殺すのが理性だったりするから、真面目な人程個性が出ず、我が儘な人程個性が突出したりする訳です。


以前「表現者であること」というブログ

タレントは本質的には“表現者”である
脳ミソでイメージしたことをアウトプットする仕事

ということを書いた。
これは実はタレントでなくても絵描きや彫刻家、小説家などにも言えることであるとも書いた。

脳ミソでイメージしたことを100%に近い状態でアウトプットするっていうのはつまり、理性に邪魔されない状態です。

だからアーティストとしてぶっ飛んでる人であればある程、変人扱いされる訳です。



タレントはみんな表現者


理性があることと理性がないこと



さぁ、どちらがよいのでしょうか





頭を使うのであれば、
たまにはこういうことを考えてみるのもいいかもしれません。