Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

『ユリイカ 2007年7月臨時増刊号 総特集*大友良英』所収の文書より

http://www.seidosha.co.jp/index.php?%C2%E7%CD%A7%CE%C9%B1%D1


◇ 対話「そろそろスーツもありかもしれない 大友良英×カヒミ・カリィ」より大友良英さんの言葉

一面の壁があるとして、その壁の色って必ず誰かが判断して塗るわけですよね。で、それはアート作品ではないかも知れないけど、でも間違いなく人間がある意図をもってそういうものを作ってるわけです。で、ある時には壁の色を塗るだけで作品になる場合もあって、例えばこの家のこの壁は白にしようということで真っ白に塗っていくという行為、あるいは白くすることで新しい世界が見えたり、あるいは気持ちが切り替わることだってあるかもしれない。それはアート作品ではないかもしれないけど、でもなにかの表現と言えるかもしれない。

 音の小さい大きいという問題は発する側だけでなく聴く側との関係の問題でもあるんです。コンサートの時に静かにやればやるほどみんな静かになっていくし、小さい音で歌ったり演奏したりすればするほど、聴きたいと思ったらどんどん聴く人の耳が拡大していく。そこがとても面白いところで、大きい音でやるから全部伝わるということでは全然なくて、小さくする事によって逆に大きなものが伝わるということがある。あるいは逆に大きくすることによって何かを小さくすることもできるし、その辺の音量の話はとても面白いですよね。


>>>対話「その音は、どこから来たか? 大友良英 × ジム・オルーク」より
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070713#p2


◇ エッセイ「信用してる人」(飴屋法水)より

自分と観客の聞いている音が、まったく異なる、であろうにもかかわらず、響きの発生の主体責任のポジションをとり続けている……。


ここには、表現とか作品とか、それを聞くとか見る、という作業のすべてに横たわる問題が、きわめて明確に存在する。


誰もが異なるものを聞いているということ。演奏者と観客も、観客のそれぞれも、決して何も共有などしてはいないということ。


特にそのことを中心に考えたのは、たまさか前日、ギミーヘブンという甘ったれた映画を観て、いささか不快だったからかもしれない。(僕がこういう批判を書くのは珍しいのだが、いきさつゆえ。)


他者と異なる感覚を持ってしまった……感覚を他者と共有できない者、の抱えた残酷な孤独を描く???
すべてが甘い映画だった。


そこには「感覚を共有できない」という設定だけがあり、それでいて、すべてが作者の都合どおりに観客に安易に共有・共感……あまつさえ感動などしてくれるかもしれないという、甘さのみが際立っていた。なんの厳しさも、絶望も無い。


共有できない?ディスコミュニケーション??
あたりまえだ。そんなものは大前提とした上で、ニヒリズムをひけらかすことも無く……ある意味すべてが「誤解」でしかないことを前提にしながら、他者を求めること。


そこでできうるのは不完全な伝達、不完全な共有、不完全な同化でしかない。しかし、不完全だからこそ、支配や依存や洗脳から、かろうじて自分をずらすことができる。主体責任がぎりぎり自分に残り続ける。つまり、自由、というものがそこにはある。


大友良英論「映画には音楽など必要ない」(樋口泰人)より

だからそこでは、たとえば「そこにはバラが映っている」ということが重要ではなく、「そこにはバラのようなものが映っているように見える」ということが重要である。要するに、映画は人に見られることでようやく成立する儚くて淡いものなのだ。そんなことが、あくまでも物質的に語られていると言えるかもしれない。私たちが存在する世界は、実はそんな淡い場所にしか存在していないことを、ゴダールの映画は語り続けているように思う。だからその世界は上映されるものとそれを見る者との相互作用によって常に変容し続ける。


大友良英論「音響的即興を巡る言説」(杉本拓)より

 まず、長い沈黙を導入すると、楽器によって演奏される音がないので、自然と耳は周囲の環境音を捉えるようになる。ここで大友良英は先に述べた「耳が開く」とか「音が溶け出す」というような言葉を用いていた。確かにそんな感じで、このことは面白い現象ではあった(そしてこの頃はそのような言説に強烈な反発は感じなかった)。だが、所詮これは感覚的な面白さである。私達はあらゆることにすぐ慣れてしまう。始めの頃は、長い沈黙だけで、脈は上がり、心臓はドキドキし、やがて音が溶け出していたのかもしれないが、今となっては自分の耳が開いているかどうかさえ分からない始末である。そういう意味では、沈黙はひとつの強度であり、轟音で耳を麻痺させていたのとほとんど同じなのである。同じ事はほとんどの音響的即興についても言える。音楽とは感覚的にだけ捉えられるものなのだろうか? 彼らはあまりにも感覚にすべてをゆだねている。彼らにとって即興とは、耳に心地よかったり陶酔できるような音のテクスチャーを作り出すことであり、沈黙にもそれと同じような態度で接している。

「聴く」ということは複雑な事である。決して(所謂)感覚だけを頼りにしているのではない。モジュレーションもフィード・バックもサイン波も、それらが音の質感だけをたよりにしている限り、完全な行き詰まりに思えてならない。しかも誰もが本来の肌触りや質感を聴いていない。肌触りや質感が設定されているだけである。そもそも、「本来の音」なんて存在しないことに気が付かなければいけないのである。猫やネズミが聴くサイン波と我々が聴くサイン波が同じものであるわけがない。聴覚能力の違いを言っているのではなくて、サイン波を取り巻く文化的状況が私達人間と猫やネズミでは違うと言いたいのだ。同じ人間であっても違う。芸術において、音や物質に対する厳密な定義はあまり意味をなさない(または定義が自由に行えてしまう)。それは作られたものである以上、いかようにも成りえた(える)はずである。可能性を阻害するのは言葉であるが、また言葉によって音に別の可能性を与えることも出来よう。音響的即興が十分に成熟した以上、後者の道を検討しなければならない。

音響的即興はその音の性質上、「音をそのまま聴く」等の言説をそのまま呼び込みやすい。結果、演奏も批評もすべてが「音がただ音であるような」楽園の中でむなしい旋回を繰り広げている。実際に演奏家も多くの批評家もこの楽園に十分満足しているようである。多くの批評家は、音響的即興に肯定的なものも否定的なものも、ジョン・ケージの無音に対するアプローチを引き合いにだし、それとの類似性を指摘してきた。その事は多くの音響的即興家も意識して受入れていたはずである。だが本当はそうではない。ケージの残した多くの可能性の中で、この「音をそのまま聴く」だけが新たな楽園に都合良く取り込まれたに過ぎないのではないか。これはあまりにも安易な道である。音も言葉も、お互いが自分を守るのに最適な関係がここでは築かれている。果たして、ここから新たな問いを発する事ができるだろうか? 一度こびりついた言説はなかなか引き剥がすことができない。音響的即興は今後、それが実際に生の現場で演奏されるにしろ、録音物として残された録音が楽しまれるにしろ、安全なおもちゃとして流通していくであろう。これは新たな文化の誕生として喜ぶべき事であるかもしれない。大いに結構な事である。しかし新たな道を志願するのであれば――それは当然為さなければならない仕事であるが――、楽園からの撤退は必須である。

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>>>「写真とは何か?」などという根源的な問いは、捏造された疑問符である。
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090721#p3


>>>マルセル・デュシャンは関係ない
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080317#p1

『REPRE』No.10がアップされています。

◇ 第4回研究発表集会報告:シンポジウム報告 - 表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉

2009年11月14日(土) 16:15-18:15
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1


シンポジウム:都市と映像が交差するところ


【パネリスト】
長谷正人(早稲田大学
北野圭介(立命館大学
太田浩史東京大学生産研究所)


【司会】
門林岳史(関西大学

http://repre.org/repre/vol10/meeting04/01symposium.html


◇ 第5回大会報告:シンポジウム報告 - 表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉

2010年7月3日(土) 12:30-15:00
青山学院アスタジオ地下多目的ホール


シンポジウム「現代日本文化のグローバルな交渉」


【パネリスト】
内野儀東京大学
住友文彦(キュレーター)
ジャクリーヌ・ベルント(京都精華大学
松井みどり美術評論家


【司会】
加治屋健司(広島市立大学

http://repre.org/repre/vol10/conference05/01symposium.html


◇ トピックス (1) - 表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉

第1回表象文化論学会賞授賞式

2010年7月3日(土)、青学会館にて第1回表象文化論学会賞の授賞式が開催されました。2010年3月18日(木)に開かれた選考委員会にて決定された各賞は、以下の通りです。

http://repre.org/repre/vol10/topics1/index.html
『現代アメリカ写真を読む──デモクラシーの眺望』(青弓社)で学会賞を受賞された日高優さんのコメントあり。
候補は以下の6作品だったようです。

  • 大橋完太郎『群れと変容の哲学──ドニ・ディドロ唯物論的一元論とその展開』
  • 門林岳史『ホワッチャドゥーイン、マーシャル・マクルーハン?──感性論的メディア論』
  • 北野圭介『映像論序説 <デジタル/アナログ>を越えて』
  • 乗松亨平『リアリズムの条件──ロシア近代文学の成立と植民地表象』
  • 日高優『現代アメリカ写真を読む──デモクラシーの眺望』
  • 渡邊守章『越境する伝統』『快楽と欲望──舞台の幻想について』


※過去の日高優さん関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%C6%FC%B9%E2%CD%A5


>>>『表象01』
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080416#p2

増田聡さんのツイッターより

RT bmonkey1966: 大学院生、とくに博士課程後期の学生さんたちは、ウェブ上に経歴、業績一覧はあげておいた方がいいですよ。どんな仕事が舞い込んでくるか分からないから。詳しくは吉田寛さんのブログ・エントリを参照のこと。http://d.hatena.ne.jp/aesthetica/20080722

ほんまにそうだよなあ。口酸っぱくして院生には言ってるのにそれをせず、書き物仕事どころか(本人まったく気づかないところで)専任の口を逃したケースもあった

ウェブに経歴と業績一覧を上げない院生心理の推測(1)修論しか業績がなくてかっこつかない(2)実名で自分の活動をウェブに公開するのがイヤ(3)さもしく業績宣伝するのは就職に逆効果、という古い教えに固執(4)学歴ロンダ知られたくない(5)専門以外に手を出してると思われたくない。他は?

(1)はぜんぜん問題ないつうかそれを刺戟にして論文書くんだよ!(2)は大学で研究者目指すのやめなさいの勘違い(3)はそういう規範がある業界はちょっとまずいよ袋小路(4)はいいじゃねえか向上心の印だぜ(5)はむしろあれこれできる方がいまの大学が求める人材、と回答できましょうか

@contractio 大人は大学では働いてませんのでそれはだめ

@bassism 院生のそのめんどくさいが死を招く

@Lisbon22 経歴にせよ業績一覧にせよ、税金で受けた高等教育の結果ですから、プライベートに囲い込んで情報公開しなくてよし、というのはちょっとなあ、という気が個人的にはするんです。とりわけ(私立も含む)大学で研究することを目指す人なら

院生の業績一覧もそうだけど、大学公式ウェブで教員一覧載せてない(あるいは見にくいとこにある)のも困るよな。科目一覧とかは大々的に載せてたりして教員に関心ない受験生向けなのは分かるが、所詮教員なんて駒扱いの大学なのね、と思ってしまう。大学公式ウェブ担当の方々よろしくお願いします!

それありますよね。学術情報の肥大化で先取権が名目的にしか機能してないことが要因なんでしょうが面白い問題です @moroshigeki:「そんなことをやったら研究テーマを盗まれるじゃない」と言われた。逆だろうと思ったが、情報発信=盗まれるという考えの人は今もいるんじゃないかなー。

@massa27 テーマの盗用ってのは微妙ですよね。よく水面下の話題でそういうことでるけど、実際はそんなに依拠性なかったりする(自分のアイディアの独自性の過大見積り)。依拠したものであっても、効果的・説得的な業績に先にまとめなかった方にも落ち度がないとはいえない

@massa27 あとはリスペクトがあるかないか、あっても十分かどうか、という問題に帰着しそうな気がします。盗用云々というのは疑似問題で実際には「オレに挨拶がない」つー自尊心の問題の場合が(とくに文系のゆるい系では)多いのではないかと

「院生の職ゲット方法」の話を嫌う、又は関心ない大学教員はいる。確かにそういった方々は優秀でボーンツービー研究者。だがぎりぎりで大学で食みを得た無能なオレは苦闘してる同じく無能な(意欲はある)院生が勘違いしてボーンツービー研究者の真似して無惨に潰れて欲しくないんですよね。心底。

http://twitter.com/smasuda


◇ すでにやってる人には余計なお世話ですが… - aesthetica sive critica〜吉田寛 WEBLOG
http://d.hatena.ne.jp/aesthetica/20080722

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◎ 場所:増田
http://homepage3.nifty.com/MASUDA/


◇ ロック中年リハビリ日記・別館
http://d.hatena.ne.jp/smasuda/

第43回例会レビュー - 写真研究会

レヴュー:スナップと日常性―1970年代の「私写真」再考

発表者 甲斐義明氏


荒木経惟の『センチメンタルな旅』(1971年)は、荒木自身が私小説こそ最も写真に近いものだとして発表し、写真評論家の飯沢耕太郎などによって「私写真」とみなされてきた。写真を私小説的であると述べたものでは、1954年の土門拳による、安井仲治の写真についての文章に遡ることができる。私的な言語が存在しないように、媒体である写真が私的であるとはいえないため、発表者は「私小説/私写真」の定義を私的な事柄や場面を取扱い、その時の感情や考えの記述が客体化されず混然とした状態にあるものとした。しかし、例えば私的なオブジェを撮影したソル・ルウィットのコンセプチュアルな作品は、Autobiographyとは何かを分析的に問うているため、プライヴェートな眼差しであるはずの私写真とは区別される。また、1971年の同写真集の中で、荒木は新婚旅行を日常と見なしている。では、私写真は日常写真なのだろうか。ここで発表者は、「私的」であることと「日常的」であることは、異なりながらも重なり合う二つの集合であるとしている。


ところで、1966年にアメリカで出版された展覧会カタログ、ネーサン・ライオンズ編集の“Contemporary Photographers:
Toward a Social Landscape”
は、日本で「コンポラ写真」という言葉を生むきっかけとなった書物である。その影響を取り上げてみると、1967年の草森紳一の書評の中で、同書に出てくる写真は「日常的なさりげなさ」において共通すると紹介されている。また、1968年6月に『カメラ毎日』に発表された大辻清司の文章をみても、「コンポラ」は「日常性」と結びつけて受容されていることが分かる。ここで使用された「コンポラ写真」という言葉において、日常的であることと私的であることの違いは吟味されていない。つまり、当時の日本では、現代写真の関心が日常的な情景を表現することや個人の内側に引きこもる態度と結びつけられたのである。金子隆一氏の補足によれば、大辻によって日本に導入された「コンポラ写真」の概念は1970年代前半に拡張し、社会的な構造をもつまでになった。そのような中、1971年の荒木の『センチメンタルな旅』で「私写真」という概念が出てくるが、荒木の写真は当時コンポラとは見なされていなかったという。

http://shashinken.exblog.jp/14695029/
報告者は土山陽子さん。


◇ 『EOS ArtBooks Catalogue 2009 / Fall』

ストリート・スナップというジャンル / 甲斐義明

http://www.eosartbooks.com/news/catalogue2009b.jpg

本カタログではふたつの柱として、展覧会カタログを巡る新進の研究者によるテキストを巻頭特集に、新しい美術の動向を伝えるカタログの紹介を『cutting-edge』欄に、それぞれ掲載いたしました。

編集:筒井宏樹
テキスト:粟田大輔/石崎尚/上崎千/大森俊克/奥村雄樹/甲斐義明/沢山遼/杉原環樹/筒井宏樹/成相肇/星野太
デザイン:渡邉麻由子

http://www.eosartbooks.com/news/200910.html
参考1。


◇ 『photographers’ gallery press no.7』

特集
写真史を書き換える──写真史家 ジェフリー・バッチェン
ある一枚の写真を諸関係の網目として読み込むことを誘い、写真史の脱構築を図るスリリングなトルボット論「A Philosophical Window」、もっとも膨大で一般的な写真の形式であるスナップ写真を主題に写真史の言説様式そのものへの革新的アプローチを示すバッチェン最新の論考「Snapshots: Art History and the Ethnographic Turn」そして本誌オリジナルのロング・インタビュー(訳・聞き手/甲斐義明)を加えて掲載!

http://pg-web.net/scb/shop/shop.cgi?No=206
参考2。

高橋悠治《小林秀雄「モオツァルト」読書ノート》(1974年)より+α

「ある冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである」。この一行は、以後の日本の音楽批評のパラディグマになった。だれもが音楽との「出会い」を書くことで、音楽論に替えようとする。そのとき、自分をできるだけあわれっぽく売りこむこともわすれない。
 この種の出会いを書くことは、実際にはたいへんむずかしい。何気ないたったひとつの記憶を伝達するために、プルーストは「失われた時」の全体を必要とした。「ある時モーツァルトのメロディーが頭の中で鳴った」などというのは、読者には何のかかわりもない偶然にすぎない。そこに引用された楽譜は、何でもよかったのだ。「自分のこんな病的な感覚に意味があるなどというのではない」。そのとおりだ。

 批評は文学であり、「批評の方法も創作の方法と本質上異なるところはあるまい」と言う。このねたましげな表現にかくれて、小林秀雄は作品に対することをさけ、感動の出会いを演出する。その出会いは、センチメンタルな「言い方」にすぎないし、対象とは何のかかわりもない。冬の大阪で、小林秀雄の脳は手術を受けたようにふるえたかも知れないが、モーツァルトのメロディーは無傷で通りすぎてゆく。出会いは相互のものでなければならない。
 この本は、つまらないゴシップにいやらしい文章で袖を引き、わかりきった通説のもったいぶった説教のあげくに、予想通り、反近代に改造されたモーツァルト像をあらわす。
 作品について書かれた例外的な個所では、そのまわりをぐるぐるまわるだけである。うす暗いへやで古いツボをなでまわしながら、「どうです。この色あい、このつや、何ともいえませんね」などと悦に入る古道具屋には、かつて水をたくわえるためにこのツボをつくった職人の心はわかるまい。
 ゴシップのつみかさねから飛躍して、「誰でも自分の眼を通してしか人生を見やしない」とか、「ヴァイオリンが結局ヴァイオリンしか語らぬように、歌はとどのつまり人間しか語らぬ」などの大発見にいたるそのはなれわざには、眼もくらむおもいがする。やがては、「雪が白い」とか、「太郎は人間である」というような大真理だけを語ったことを感謝しなければならない日もくるだろう。
 日本の音楽批評は、小林秀雄につけてもらった道をいまだに走りつづけている。吉田秀和や遠山一行や船山隆が、まわりくどい文章をもてあそんで何も言わないための「文学」にふけり、音楽の新刊書はヨーロッパ前世紀の死者へのレクィエム以外の何ものでもなく、死臭とカビがページをおおっている。「近代は終わった」とか「現代音楽は転換期にある」などと言う声をきけば、吸血コーモリのようにむらがって、できたての死体の分け前にあずかろうとするが、自分たちが二世紀前の死体の影にすぎないことには、とんと気がつかないらしい。

高橋悠治/1970年代コレクション』(http://www.suigyu.com/yuji/ja-books.html)所収
※初出は『ユリイカ』(1974年10月)


◇ 匿名希望「小林秀雄をひっぱたきたい」 - 読書会ブログ★白水Uブックス研究会(B)LOG

わからない。
何が書いてあるのかさっぱりわからない。
2回も読んだのにわからない。
しかも2回目はメモをとって読んだというのにわからない(2回じゃ足りないのだろうか)。
もちろん日本語としての意味はわかる。
いや、嘘ついた。
じつは日本語としての意味もわからなかった。
わからないから、書いてあることがフレーズ単位でさえも頭に残らない。

確かにモオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。

わからない。
このフレーズは何なのか。
ここで表現されているのは、一体どんな音楽なのか。
これを書いた人間はモオツァルトの音楽ではなく自分に酔っているだけではないか。
たぶんこの人にとって批評の対象は別にモオツァルトでなくてもよかったのだ。
この批評の「モオツァルト」という単語を、すべて「マイルス・デイビス」に変えても、なんとなく読めてしまうことが、それを証明していないか(歴史的な事実は置いといて)。

マイルス・デイビスは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外な処に連れて行かれたが、それぞまさしく目的を貫いたという事であった」

#
「モオツァルト」とは、いったい何なのか。
それは、音楽について書かれた「文学」である。
悪い意味での「文学」である。
少なくとも音楽評論ではない。
これを読んでも、今後の音楽受容には1ミリもプラスにならない。
少なくとも私にとっては。
コードの名前のひとつでも覚えたほうが有益だ。
「モオツァルト」は、実はたいしたことを言っていない。
メッセージは次の3点である。

1)モオツァルトは天才だ。
2)モオツァルトの音楽は比類がない。
3)モオツァルトのことが分かっているのはオレだけだ!

べつに難しくもないことを、大上段に難しく言っているから意味がわからないのだ。
視野が広そうで、実は狭い
(ここではクラシック音楽が盲目的に特権化され、
 ジャズを含む大衆音楽は、ただの背景に追いやられている)。
すべてを見ているようで、なにも見ていない。
ここにあるのはレトリックとペダントリーだけだ。
「音楽」はない。
小林秀雄も自分で言っている。

もはや音楽なぞ鳴ってはいなかった。(P10)

そのとおりだ(高橋悠治風に)。

http://d.hatena.ne.jp/natsugo/18000503


>>>[要再聴] 高橋悠治茂木健一郎:公開トーク『他者の痛みを感じられるか』2005年12月17日(土)
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090422#p2


>>>書店で「著名人の本棚」みたいな企画を見かけることが、
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20100128#p2


>>>高橋悠治小林秀雄「モオツァルト」読書ノート/コレクション1970年代 (タカハシユウジ/コレクション1970ネンダイ) - 関心空間

高橋悠治小林秀雄『モオツァルト』読書ノート」- 知られざる佳曲
http://blog.livedoor.jp/unknownmelodies/archives/50334430.html
佐々木敦さんの「「モオツァルト」・グラモフォン―小林秀雄試論」は、
書き下ろしの続編「小林秀雄の/と「耳」―モオツァルト・グラモフォン2」
とともに、『(H)EAR ポスト・サイレンスの諸相』に収録されています。
http://www.seidosha.co.jp/index.php?%A1%CA%A3%C8%A1%CB%A3%C5%A3%C1%A3%D2

http://www.kanshin.com/keyword/697852


>>>「小説、言葉、現実、神」(文:保坂和志)より

「こうして空間に時間が形となるのか」と感じたとき、その人にとって、より直接的なものは目の前にあるポロックの絵よりもいま出てきたその言葉の方になっているのではないか。
 ……そうは言いつつ、私にとって音楽は絵画や映像よりもずっと直接的であって、好きな音楽を聴いているとき私は言葉を必要としていないのだが。小林秀雄の『モーツァルト』の中に「悲しみの疾走に涙が追いつかない」とかいう有名な言葉があるが、音楽を聴いていてそんな言葉を書き付ける必要があると私は感じたことがない*1。ただ二回だけ、一度はジャズのギル・エヴァンスのオーケストラをCDで聴いているときに「音に花火のような色彩がある」と感じ、もう一度はダニエル・バレンボイムが指揮した「春の祭典」を会場で聴きながら「音が空間全体に配置されている」と感じたことはあったけれど、小林秀雄のような言葉を感じたことはないし、そんな言葉が音楽に必要とも思ったことはないのだが。
 ……だから少なくとも私にとって音楽とは言葉を介在させなければ接近できない対象ではなく、もしモーツァルトブルックナーの響きの中に神の啓示があるのだとしたら、それはきっと本当にふだん言葉で想像するのと全然異次元の体験ということになるのだろうが。
 絵画は空間(平面)であり、配置であり、一挙的であり、それに対して音楽は時間の中での展開だから同じように考えてはいけないのかもしれない。絵画は見るために案外能動性を必要とするが*2、音楽は受動的になれることによって、能動/受動という区別と別の次元が開けるのかもしれない。

佐々木 正人 編 『包まれるヒト 〈環境〉の存在論』所収
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/3/0069540.html
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000031847086&Action_id=121&Sza_id=B0
http://www.amazon.co.jp/dp/4000069543

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070715#p8


2007-07-12 - http://d.hatena.ne.jp/k11/

高橋悠治高橋悠治 | コレクション70年代」音楽の学習のために より

大衆は現代音楽を聞かないからこれを大いに啓蒙しなければいけないというような結論をすぐだしたがるひとがいるが、よくないことである。この場合啓蒙といっているのは相手は何も知らないという前提にたって、わかっていると自分では思っているひとがその意見を相手に押しつけるわけで、どこまでいっても一つの偏見のかわりにもう一つの偏見を押しつけることにすぎない。それではどうすればよいのか?いったんある偏見をうえつけられた人はなかなかそこから出るのがむずかしい。そこに別の偏見を持つ人がきて、自分の意見をわからない相手がまったくの白紙であるときめこむのもおかしい。子どものころから家で聞いている音楽があり、学校へ入るとそれとはちがう音楽を教えこまれる。そこから複雑なかたよりが生じる。ほんとうの教育は、そうしてかたよっているものにまた別なかたよりを与えてよくしてやろうというのではなく、無意識に身についているものについて自分で考えることをうながす方法ではないだろうか?

いろいろなものを聞くうちに、自分のものがわかってくるということは別ないいかたをすれば、自分の求めるものがあるからこそ、いろいろなものがそこで意味を持ってくるということである。音楽の永遠の定義をどこかに求めるよりは、一曲の音楽を自分がどういうふうに聞いているか、この音楽と自分がどういうふうにかかわっているかということから逆に、その音楽の意味を見つけ、またそれに写してみて自分の位置をはっきり知ることがたいせつなのだ。

私の知る即興というとやはり音響的即興のことで
それ以外の即興は全く知らないか全く知らないのと同じくらいで
ここになにを求めていたかというと
いま批判的に言われているようなテクスチャーではなく
奏者の気合いとかやる気とか集中とか才能とか能力とか魅力とか
そういう曖昧なファクターばかりではない解釈が可能で
なおかつ計算(コンピュータ)とは別の原理による運動性だったように思う。
だから佐々木敦(だけではないようだが検索してみると)のいう
即興演奏とアフォーダンスという組み合わせで考えることは面白いと思っている。
あといつも思うことだが
テクスチャーが批判的に問題にされたからといって
テクスチャーがまず目につくようなものはすべて最初のふるいで落とされてしまって
思考の範囲にも入らない(入れない)というようなことがなされていたりするのは
まあごく狭い範囲ではあるかもしれないが一体どうしてなんだろうか。
音楽ジャンルとしての音響的即興に見切りを付けるのは勝手だが
それと同時にひとつの人間的現象としての即興にも見切りをつけてしまうのは
とてももったいないような気がするがどうなんだろうか。
「即興」なんてキーワードはなんでも当てはまるから
それだけ広く考えられるものだと思うのだが。
そう思うと吉村さんはそういう磁場(シーンではなく)の近所にいながらも
流されることなく自分の思考を続けているのがすごいと思う。
というようなことがユリイカ大友良英特集の杉本拓さんの文章を立ち読みして思ったことで
いつもながらこの人の考えていることは面白いと思った。
宇波さんの文章も立ち読みだがその語り口も含めて面白いと思った。
吉村さんの文章はなんだか立ち読みではしんどい気がしてやめた。

http://d.hatena.ne.jp/k11/20070712
小田寛一郎さん(http://www8.ocn.ne.jp/~fhs/)のはてなダイアリーより


※過去の高橋悠治さん関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%B9%E2%B6%B6%CD%AA%BC%A3

*1:参考:高橋悠治小林秀雄『モオツァルト』読書ノート」http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060821#p7

*2:保坂さんは議論をすっきりとさせるために、あえて一般化してこう書いているのでしょうが、平面は「みること」に能動性を要するがゆえに、だからこそ、必ずしも「一挙的」ではない場合があります。つまり、平面にも時間の中での展開がありえるということ。