Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年03月17日 - Twilog

昨晩の吉田和貴[Welcome To The Jungle]関連(自分のパート)。【THE3名様 - Wikipediahttp://j.mp/YzprnU 【フルクサス - Wikipediahttp://j.mp/YzpOik

吉田和貴[Welcome To The Jungle]関連(自分のパート)。【アラン・カプロー】http://j.mp/YzqaW1 チューリヒ・ダダ→【キャバレー・ヴォルテール | 現代美術用語辞典ver.2.0 β版】http://j.mp/Yzq6pl

吉田和貴[Welcome To The Jungle]関連(自分のパート)。【赤瀬川原平「宇宙の缶詰」】http://j.mp/130jx7M 【四次元ポケット】http://j.mp/130jBV1 http://j.mp/130jFEj

展開できなかったこと。【スタンチク - Wikipediahttp://j.mp/130jIjA 【自由ラジオ フェリックス・ガタリ - Google 検索】http://j.mp/130k0a2 ※http://j.mp/130k2P9

アフタートークのアフタートークでは、「より幸福な明日に賭けるより、現在の隣人たちとのありうべき関係性を発明することの方が、より急務であるように思われる」(ニコラ・ブリオー)が、日本的風土とベタに結びついた場合の微妙さについて話しました。僕はそこにはあまり可能性があるとは思いません

http://twilog.org/n291/date-130317/allasc

再々録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20081222#p14)

稲葉振一郎さんの『モダンのクールダウン(片隅の啓蒙)』を再読

 ニーチェは弱者大衆の強者に対するルサンチマンを痛烈に批判しますが、すぐさまその刃は自称「強者」たちに跳ね返ってくるのです。自ら「超人」と称し、弱者大衆を「畜群」呼ばわりしなければ自己確認できない「強者」のいったいどこが「超人」なんでしょうか? もし現実に「超人」なんてものがいるとすれば、それは「超人」なる思想を必要とはしないでしょう。むしろ「超人」思想を必要とする者は自身一種の弱者なのであり、その意味で「超人」思想もまた一種のルサンチマンなのです。
[第一章 ポストモダンとは何(だったの)か]より

(……)「歴史は繰り返す、ただし一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」とマルクスが引き合いにしたヘーゲルのせりふにありますが、ニーチェモダニストたちが演じた悲劇の二番煎じがポストモダニズムである。意地悪く言えばそうなります。ニーチェオルテガ・イ・ガセットの口まねの近代批判、大衆批判がそれ自体知的ファッションとして大衆化し、大衆が大衆を(自己批判という痛烈な自覚なしに)批判して楽しむというお笑い沙汰、それがポストモダニズムだ、と。実際モダニズム芸術もすっかり商品化されて流通し、当初政治的にラディカルだったモダニストたちも体制化した。そしていわゆる「ポストモダニズム」といえば、商品「化」されるどころか、最初から商品としてこの世に現れるしかなかった。
[第一章 ポストモダンとは何(だったの)か]より

 しかしながら芸術作品を含めた人工物とは、単なるものではなく、まさに人間とその社会を取り巻く人工環境の構成要素です。そのような人工物の、最も典型的なあり方とはすなわち道具であり、道具はそれでもって何かを行なうための手段として、つまり有意味なものとして存在します。表現としての芸術は、何かそれが「表現」するものごとを表象するための手段、その限りでは一種の道具としても理解できます。そのようにして人工物は、わかりやすい意味を担ったものとして存在します。しかしそう考えると、表現を主眼としない芸術は、その「意味」が非常に理解しがたい、という問題を抱えていることがわかります。
 非常に意地悪く言えば、今日の「モダン・アート」のほとんどは、実際には文芸におけるメタフィクションと同様の「メタ芸術」としてのみ受容されています。すなわち、従来の芸術、芸術の歴史・伝統に対する、言語以外の手段をもってする批評、芸術についての芸術として。当然その鑑賞にあたっては、芸術についての歴史的、さらに理論的素養という、参入障壁が成立してしまうわけです。
 非常にはしなく言ってしまえば、「お約束」を破ることができるのは、まさにその「お約束」があったればこそだ、ということでもあります。表現を志向せず、作品それ自体たらしめんとしたモダン・アートは、その物質的な事実性それ自体では公共的たることができず、結局は、伝統的な、ことに現実世界という自然的かつ日常的な公共性にのみ依存しようとした、近代(ブルジョワ的モダン)的なリアリズムの場合よりもはるかに、芸術総体、文化総体の歴史的コンテクストという、既存の人為的公共性への依存度が高くなってしまうのです(……)
[第四章 表現における「公共性」]より

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稲葉振一郎『「公共性」論』(NTT出版
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稲葉振一郎『経済学という教養』
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先日、ちくま文庫の増補版を手に入れました。

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>>>左翼・右翼・保守主義 - インタラクティヴ読書ノート別館の別館
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20061029#p3


>>>稲葉・立岩・塩川トークショー
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070327#p9


>>>『リベラリズムの存在証明』「エピローグ(草稿)」 - インタラクティヴ読書ノート別館の別館
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>>>ブリクモンの勇み足 - インタラクティヴ読書ノート別館の別館
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「地図と磁石」は、Hotwired Japanの終了にともなって記事が消えてしまったようです。