ニューヨーク・タイムズが4月27日付で報じた猪瀬直樹・東京都知事の発言が、大きな波紋を広げている。この報道を受けて、インタビュー取材の本題は、東京の話だったと猪瀬氏は日本の新聞の取材に答えている。この都知事の「失言」をめぐって、ジャーナリストの長谷川幸洋氏は、この失言が報じられたことの意味を考察する。
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新聞記者になりたてのころ、地方支局でデスクに教わった取材の教訓の1つに「事件現場では各社の記者がぜんぶ帰ったのを見届けてから、最後に引き揚げろ」というのがある。
だいたい警察は大勢の新聞記者がいるときには動かない。記者がいないのを見計らってから動き出す。だから、各社の記者が帰った後こそが本当の勝負なのだ。それを守って最後までこっそり現場に居残っていると、意外な事実が分かったりしたものだ。
ここから転じて、インタビューでも「本当に大事な質問はメモ帳を閉じてから」というのが優秀な記者の取材技術である。相手が「これで終わり」と気を緩めたときこそが勝負なのだ。
4月27日付ニューヨーク・タイムズは五輪招致をめぐって、猪瀬直樹・東京都知事の発言を報じた。猪瀬は「イスラム諸国は共有しているのはアラーだけで、互いにけんかばかりしている」「トルコも長生きしたいなら日本のような文化を作るべきだ」などと、イスタンブールに対するあけすけな批評を口にした、という。
猪瀬はこう釈明している。
「インタビューが終わりかけて、招致バッジをお配りしまして、それから最後立ち上がるところで、ちょっと感想を述べた。98%くらいは東京の話だった」(産経新聞、4月30日付ネット配信)
猪瀬側からみると、まさに「メモ帳を閉じた後」のタイミングだったようだ。だが、インタビューしたタイムズ記者の1人がツイッターであきらかにしたところによれば、立ち話のような雑談中の発言ではなく、記者はまだ椅子に座っていて、知事が連れてきた通訳の言葉も続いていたという。
猪瀬だって、大変な業績がある作家・ジャーナリスト出身である。記者の手口は百も承知だったはずだ。米国出張中という旅先でもあり、多少は口が軽くなっていたのかもしれない。それで喋ってしまったのだから、これは質問した記者の勝ちだ。
この一件であらためて思う。もしも取材したのが日本の新聞、場所も米国のホテルでなく都庁舎だったらどうだったろうか。同じような発言が同じタイミングで飛び出したとしても、これほどあけすけに報じられたかどうか。
都知事と記者クラブの担当記者という関係は、一種の閉ざされたインナーサークルである。五輪招致活動に打撃を与えるような知事の発言を遠慮会釈なくズバズバ書けば、ひと騒ぎが起きるのは避けられない。クラブの馴れ合いムードにどっぷり染まった記者だと、書いていいものかどうか、逡巡するかもしれない。
ニューヨーク・タイムズには記者クラブなど関係ない。五輪招致に名乗りを上げている国の新聞でもない。騒ぎが起きようが起きまいが、最後の一言に報じる価値がある発言があれば報じる。そんな「割り切り」を感じる。
私はタイムズを「新聞の鑑」などと持ち上げるつもりはない。米国にも似たような取材記者と政府高官のインナーサークルはあると聞くし、オフレコだってあるだろう。
ただ、五輪に限れば「私たちが相手にするのは、こういう社会だ」という点は強調しておきたい。お祭りムードに流されがちだが、世界はもっと冷静に見ている。東京はどれくらい真剣に五輪の意義を考えているのか、浮かれている部分はないのか。ニューヨーク・タイムズ記事は東京と世界の温度差も象徴している。(文中敬称略)
※週刊ポスト2013年5月24日号