いまも昭和モダンの面影を残す奥野ビル、旧「銀座アパートメント」。レトロ感あふれるこの建築は、画廊や骨董店が二十軒以上も入る賃貸ビルとして知られ、訪れるアートファンも多い。
昭和初期、ここには時代の最先端をゆく文化人や芸能人がシェアハウスのようにして暮らし、銀座モダンライフを謳歌していた。戦後は、住まいと仕事場を兼ねたSOHOへ、さらにオフィスビルへと変身していく。
その昭和のアパートメントハウスでの集住の暮らし、またその変遷過程はどのようなものだったのだろう。その背景をひもとこうと、奥野ビルにかかわる人たちを訪ねてみた。
昭和7年竣工当時、銀座でも先進の構造・設備のモダンな高級賃貸アパートメントだったと語るのは、奥野ビル3代目の奥野亜男さん。おそらく日本で初めてのエレベーター付き集合住宅だろう。しかも石炭による全館スチーム暖房、地下に共同浴場、各室は電話回線付き。また、関東大震災復興時の建設だから構造は頑強で、東日本大震災のときもテナントの画廊の絵は一枚も落ちなかったという。
設計図もきちんと残されていた。手描きの繊細なドローイングが美しい。立面図は、アール・デコ風の昭和モダンの香りに満ち、構造図もしっかりと描かれている。なんと、米松杭(※)とコンクリート杭を計219本も地中に打ち込み、その上にRC造6階建ての建物は乗っている。確かに頑丈そうだ。
当時の都市生活は銭湯通いが一般的だったから、共同のお風呂やトイレ、屋上に洗濯室をももつこの昭和のアパートメントハウスは、まさに先進のシェアハウスだったといっていい。
戦後間もなくここに10年程暮らしていたデザイナーの菊池美尚さんは、次のように当時の暮らしを振り返る。
銀座を拠点に戦後のファッション界をリードしていたジョージ・岡さんが、このアパートメントの2室をアトリエに、1室を応接室に借りていた。若き日の菊池さんご夫妻は、そこで働き、その応接室に暮らしていたのだという。
当時、映画の衣装デザインもしていて京マチ子ら有名女優も多く出入りし、また美智子皇后のデザイナーとして知られる植田いつ子さんは岡さんの愛弟子で、ここで一緒に仕事をしていた。
菊池さんは、いま風にいえばご夫婦でSOHO暮らしをしていたのである。華やかなお客さんたちとの仕事や銀座のレストランでの食事、そのクリエイティブでオン・オフのないSOHO暮らしはとても楽しかったようだ。
戦後日本の経済復興とともにオフィス需要は増え、銀座アパートメントは住まいから労働の場へと変身していく。その過渡期にあったのがSOHOの暮らしだった。経済効率から建て替えが日常の銀座ビル群のなかで、この建築の骨太なデザインパワーはこれからも時代の流れに負けることはないだろう。
※米松杭:地中では腐りにくい木の性質を利用し、地中で建物を支える米松製の丸太の杭