銀座は華やかで奥深い魅力に満ちた街である。このショッピング街の原型がつくられたのは、関東大震災後から昭和の初めにかけてのこと。
震災直後の大正末期に松屋、松坂屋、昭和に入るとすぐ三越、服部時計店(現和光)、ビヤホールライオンと、いま銀座の顔となっている建築の多くが、そのころに竣工している。
震災復興を契機に銀座は、災害に強く、最新デザインの建築群が立ち並ぶモダン都市へと大変身したのである。
三越や服部時計店がオープンしたころ、RC造耐震不燃の画期的な集合住宅が銀座の裏通りに誕生している。
竣工当時の名は「銀座アパートメント」、そこには詩人の西条八十ら文化人、映画関係者、また歌手やダンサーたち芸能人が多く住み、昭和モダンライフを謳歌していたという。いま風にいえば、都心の高級賃貸デザイナーズマンションだろう。震災復興RC造住宅で知られる「同潤会アパート」の建設部長だった川元良一の設計である。
戦後「奥野ビル」と名を変えて賃貸オフィスビルに様変わりする。でも、外観や建築の骨格は変わっていない。いまや昭和初期アパートメントの特徴を色濃く残す貴重な建築となっている。
レトロ感覚あふれるスクラッチタイルの奥野ビル外観は、銀座一丁目の裏通りに不思議な風格を与えている。
この建築に、竣工当時から百歳で亡くなる2008年まで住み続けたひとりの美容師がいた。秋田県出身の彼女は、メイ牛山に美容を学んだ後、昭和の終わり頃まで約半世紀もの間、ここで住みながら美容院を開業していた。銀座で働く多くの女性がここを訪れ、たくさんの物語が生まれたことだろう。
彼女の住まい兼仕事場を可能にした銀座アパートの構成を見てみよう。
1階に玄関ロビー、住居部分は2~6階で、各階に小さな流し台と押入れ付きの平均6畳のワンルームが12室、そのうち2室が畳敷きの和室だった。
各階に共同便所、地階に共同浴場、屋上階には談話室と洗濯室。それに、手動式エレベーターに全館スチーム暖房だ。確かに、充実した共用施設を搭載した斬新なアパートメントである。
4人家族が3室借りてここに住んでいたケースもあったという。父と息子が洋室を1室ずつ、母と娘で和室を1室、その和室が茶の間になり、夜は夫婦と娘が就寝していたらしい。その暮らしをサポートしていたのが、多彩な共用施設群だった。その住み方は、最近のシェアハウスとよく似ている。
奥野ビルを実際に訪れると、その居室と共用施設の関係や小振りな空間スケールなど、昔の木造長屋を彷彿とさせる。昭和初期アパートメントは、長屋がモダンなRC造積層住居へと進化したかたちと考えていいかもしれない。
いま、美容師が暮らした306号室は、時を止めたかのように保存され、美容院のころの丸い壁鏡が誰もいない部屋の昭和の面影を映し続けている。