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2015年12月15日火曜日

早川徳次(シャープ創業者)

当時、亀戸のほうに第三工場にするつもりで五軒の長屋を買ってあり、四軒は空屋にしてあった。そこが無事なのがわかって、私たちは移った。日が経つにつれて離散していた従業員たちが続々やってきて、いちじは七十人ほどの大家族になってしまった。朝鮮人の従業員の一人の李さんも訪ねてきた。そこへ例の朝鮮人に関する流言飛語である。町内の連中がきて、
「朝鮮人はいますか。いたら殺してしまう」
という。私は「いません」といってウソをついた。何も悪いことをしていない人をつき出すわけにはいかない。しかし、かくまっているとただではおかないという風評が伝わってきて家族の者たちが動揺し出した。私は固く口止めをして、李さんを押し入れの中にかくまい、三度の食事を自分で運んだ。
(中略)
町で実際に朝鮮人が殺されるところを目撃したこともあった。歩きながら殺されていった。いきなり後ろから頭を割られ、それでも歩いていて、ついに倒れると背中やお腹を金属の棒で突いているのである。こっちに力がないから止めることができず、もし止めようとすればこちらが殺られてしまっていただろう。
(早川徳次「妻も子も事業も奪われて」『潮』197410月号)


解説◎
家電メーカー「シャープ」の創業者である早川徳次[1893‐1980]の証言である。早川は当時30歳。いわゆるシャープペンシルを開発し、墨田区に工場をもって事業を展開していたが、関東大震災で全焼した。震災で二人の子どもを失い、2年後には妻も病で亡くなった。早川は震災後、大阪に移り、新事業に乗り出して家電メーカーとしてのシャープを発展させていった。ちなみに早川がかくまった「李さん」はその後、朝鮮に帰って弁護士になったそうである。「昭和十五年、私の満州の店で、劇的な再会をしたことがある」と早川は書いている。

2015年12月11日金曜日

稲垣浩(映画監督)


隅田川の橋の上で、朝鮮人がぼくの目の前で殺されているのを、はっきりと覚えています
稲垣浩[1905 - 1980年]・映画監督)

(「週刊読売」197596日号「50人証言 関東大震災」より)


解説◎
週刊読売の記事「50人証言 関東大震災」(197596日号)は、震災52周年記念企画として、有名無名50人の当時の経験を収録している。そのなかで朝鮮人迫害の証言を映画監督の稲垣浩がしている。

2015年12月10日木曜日

徳富蘆花(小説家)


九月一日の地震に、千歳村は幸に大した損害はありませんでした。(中略)

欧羅巴(ヨーロッパ)に火と血を降らせたのは人間わざでしたが、日本の受けた鞭(むち)は大地震です。日本は人間の手で打たれず、自然の手でたたかれました。「誰か父の懲らしめざる子あらんや」と云う筆法から云えば、災禍の受け様にも日本は天の愛子であります。
ところでこの愛子の若いことがまた夥(おびただ)しい。強そうな事を言うて居て、まさかの時は腰がぬけます。真闇(まっくら)に逆上します。鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と壮丁の呼ぶ声も胸を轟(とどろ)かします。隣字(となりあざ)の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事羞(はず)かしい事です。
(徳富蘆花『みみずのたはこと(下)』岩波文庫)

解説◎
徳富蘆花は明治から大正にかけて活躍した小説家[18681927年]。19231230日に書いたもの。蘆花は当時、現在の芦花公園(東京都世田谷区粕谷)のあたりに住んでいた。千歳村、烏山とは、現在の千歳烏山のこと。

ヨーロッパに火と血を~とは、5年前に終わった第一次世界大戦を指している。日本はこの戦争でとくに被害も受けなかったが、その代わりに19239月に関東大震災に襲われたという話である。そして蘆花が見聞した、烏山で朝鮮人3人が殺された事件とは、下記のリンク先に記述されている「烏山事件」のこと。殺された人数については、実際には1名と思われるが、3人が亡くなったという報道もあり、はっきりしたことは分からない。

参考リンク◎
ブログ「9月、東京の路上で」



2014年10月21日火曜日

ポール・クローデル(フランス駐日大使、詩人)


災害後の何日かのあいだ、日本国民をとらえた奇妙なパニックのことを指摘しなければなりません。
いたるところで耳にしたことですが、朝鮮人が火災をあおり、殺人や略奪をしているというのです。
こうして人々は不幸な朝鮮人たちを追跡しはじめ、見つけしだい、犬のように殺しています。
私は目の前で一人が殺されるのを見、別のもう一人が警官に虐待されているのを目にしました。
宇都宮では16人が殺されました。
日本政府はこの暴力をやめさせました。
しかしながら、コミュニケのなかで、明らかに朝鮮人が革命家や無政府主義者と同調して起こした犯罪の事例があると、へたな説明をしています。
(ポール・クローデル『孤独な帝国 日本の1920年代』草思社)

注)読みやすさを考慮して、句点ごとに改行しています。


解説◎

ポール・クローデル[1868 -1955年]は外交官であると同時に詩人、戯曲家。彫刻家のカミーユ・クローデルの弟。関東大震災の際は自ら被災した。上の引用は、震災直後の書簡の内容。


2014年10月17日金曜日

橋爪恵 | (下)提灯の反射を燐光と早合点


読売新聞1923113よみうり婦人欄

汲んでも汲み尽せぬ 井戸に入れる毒 常識で判断し得る事

橋爪恵 | (下)提灯の反射を燐光と早合点
面白かつたのは、私の町の自警余談である。私は或る人に頼まれて、どこそこの井戸水は素敵に光つてゐるが、あれは確に毒薬が入つてゐるから見てくれといふのであつた。馬鹿々々しいとは思つたが兎に角言はれるままに或井戸へ行つた。井戸水が光つてゐるのならこいつは恐らく黄燐か猫いらずがあるんだなと思つた。私はその水を試験管にとつて検査したが黄燐でもなければ猫いらずでも無かつた。その人は自分の提灯の反射を見て水が光つたと思つたらしい。
も一つは妙齢の婦人がポンプ井戸を汲んでゐたところを自警の男が怪しいとにらんで女流主義者が井戸に毒薬を投げ込んだと伝へられたのであつた。また私は近所の人に引出されてしまつた。よく見るとなるほどポンプ井戸の柄には白いものが附いてゐた。匂いをかいだら、ぷうんと良い薫りがした。そこで私は白粉(おしろい)だなと思つて、水を汲んで自警団に引つ張られた泣きはらした婦人に「この際白粉は廃めたらどうです」といつてやつた。それは果たして白粉なのだつた。白粉で化粧して井戸水を汲みに来た女も女だが毒薬をぶち込んだ女流主義者なんて思ひつめた自警の人達(その人達は常に教養があるといつてゐた)にもあきれざるを得ない。
あのどさくさ紛れに、かてて加へて薬品の払底した頃、どうして毒劇薬を買占めることが出来よう。況して石炭酸とか硫酸重クローム酸昇水などを汲めども尽きぬ井戸水に投げ込んだからとて効くかどうか常識によつて判断されることである。厳めしいダイナマイトの投入はどうだか一向知らないが井戸に毒薬を入れたらしい犯人としてこれを直に主義者と見てとつた上に善良な人々を絞殺(しめころ)したり斬り殺したのは何たる文化の逆行、何たる反道徳、何たる非立憲の行為、何たる無政府主義、何たる血に飢ゑたもの共であるのか。サンフランシスコやロンドンの災害には断じてこの種の非科学的妄動は一も無かつた筈(はず)だ。
(山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房2004年に収録)


解説◎
橋爪恵は、橋爪檳榔子の名前でも知られる医療評論家。略歴

要するに、井戸水の量を考えれば、そこで希釈されてもなお、人を死に致らせるには大量の毒薬が必要になる、もちろん、わずかな量でも人を死に致らせる毒薬もあるにはあるが、高価で希少なそうした劇薬を、朝鮮人や社会主義者が買い占めることができるかどうか、常識で考えてみるべきだ、というのが橋爪の主張であろう。

橋爪恵 |(上)そんな毒薬は手に入らぬ

読売新聞1923112日|よみうり婦人欄
汲んでも汲み尽せぬ 井戸に入れる毒 流言蜚語の優等賞

橋爪恵(上)そんな毒薬は手に入らぬ

今度の災害で、先ず何よりも多くの人々の脳裡にきざみ込まれたのは、化学品の恐るべく、あなどるべかさるの一事であった。多数の焼死者の多くは、一酸化炭素とか窒素化合物を余儀なく吸ふことによつて果敢ない最期を遂げたのもその一つ。半焼けの建築物とか将来危険な家屋が黄色火薬の偉力で壮快に爆破されたのも化学薬の偉大な力であつた。
鮮人や主義者のダイナマイトの流言浮説も薬品のもつ化学作用の脅威からであつた。更に医薬品の不足で人心の安定を欠いたことによつて如何に化学力の熾烈さが明かにされたであらう。焼死したもの水死したものの数が罹災地だけで十万と呼ばれてゐるが、正と死の間一髪を取扱ふ重要な薬品の不足は更にそれ以上の罹災患者たちの貴い生命を奪ひ去つたといはれる見殺しのざまだ。
更に奇怪極まる化学力の脅威は、鮮人や主義者が、未曾有な天変地異を利用して、井戸の水に毒薬を投げ込んだといふ言葉であつた。蜚語も茲(ここ)まで来ると滑稽を飛び越えて何とも言ひやうもあるまい。
何処の誰が言ひふらした言葉であるか知らぬが、馬鹿気た巧妙さだと思つてゐる。浮説も茲まで来ると優等賞であり、この浮説に左右されて異常な虐殺を敢へてした我日本人は何といふ劣等生なのだ。
なるほど日本薬局方に収載されてゐる毒薬は二十種ほど。そして劇薬は八十種ぐらゐはある。
汲めども汲めども尽き果てぬ井戸水にこれらの毒劇薬を投げ込むことによつて、果たしてどれだけの実効があるのか。
毒薬のうちで一番凄い極量を示してゐるのは、カンタリヂンとアコニチンとそしてブローム水素酸スコポラミン。これらは何れもその〇・〇〇〇五瓦(グラム)が極量とされてゐる。
然しいくら抜目のない鮮人や主義者のひどい奴だからといつて生一本な毒薬の壷を手に占むることも出来なければそれを供給する人間も無い筈(はず)だ。

(山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房2004年に収録)
注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。



解説◎
橋爪恵は、橋爪檳榔子の名前でも知られる医療評論家。略歴

要するに、井戸水の量を考えれば、そこで希釈されてもなお、人を死に致らせるには大量の毒薬が必要になる、もちろん、わずかな量でも人を死に致らせる毒薬もあるにはあるが、高価で希少なそうした劇薬を、朝鮮人や社会主義者が買い占めることができるかどうか、常識で考えてみるべきだ、というのが橋爪の主張であろう。

2014年10月6日月曜日

志賀直哉(作家)


軽井沢、日の暮れ。駅では乗客に氷の接待をしていた。東京では朝鮮人が暴れ廻っているというような噂を聞く。が自分は信じなかった。
松井田で、警官二三人に弥次馬十人余りで一人の朝鮮人を追いかけるのを見た。
「殺した」すぐ引き返して来た一人が車窓の下でこんなにいったが、あまりに簡単過ぎた。今もそれは半信半疑だ。
高崎では一体の空気がひどく険しく、朝鮮人を七八人連れて行くのを見る。
・・・・・・・・・・・・・・・
そして大手町で積まれた電車のレールに腰かけ休んでいる時だった。ちょうど自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者が落ち合い、二人は友達らしく立ち話を始めた。
「―叔父の家で、俺が必死の働きをして焼かなかったのがある―」刺子の若者が得意気にいった。「―鮮人が裏へ廻ったてんで、すぐ日本刀を持って追いかけると、それが鮮人でねえんだ」刺子の若者は自分に気を兼ねちょっとこっちを見、言葉を切ったが、すぐ続けた。「しかしこういう時でもなけりゃあ、人間は殺せねえと思ったから、とうとうやっちゃったよ」二人は笑っている。ひどい奴だとは思ったが、平時(ふだん)そう思うよりは自分も気楽な気持ちでいた。
・・・・・・・・・・・・・・・
鮮人騒ぎの噂なかなか烈しく、この騒ぎ関西にも伝染されては困ると思った。なるべく早く帰洛(きらく)することにする。一般市民が朝鮮人の噂を恐れながら、一方同情もしていること、戒厳司令部や警察の掲示が朝鮮人に対して不穏な行いをするなという風に出ていることなどを知らせ、幾分でも起るべき不快(いや)なことを未然に避けることができれば幸いだと考えた。そういうことを柳(宗悦)にも書いてもらうため、Kさんに柳のところにいってもらう。
「震災見舞」(『日本の文学22 志賀直哉(二)』中央公論社、1967年)



解説◎
「震災見舞」から箇所を抜粋。当時京都に住んでいた志賀直哉1883 ー  1971年]が、東京の父親を案じて、数日をかけて震災直後の東京を訪れたときの実見録。

2014年10月1日水曜日

寺田寅彦(物理学者、随筆家)


九月二日 曇
(略)
帰宅してみたら焼け出された浅草の親戚のものが十三人避難して来ていた。いずれも何一つ持出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て○○人の放火者が徘徊するから注意しろと云ったそうだ。井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえて来る。こんな場末の町へまでも荒して歩くためには一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾が入(い)るであろうか、そういう目の子勘定だけからでも自分にはその話は信ぜられなかった。

(寺田寅彦「震災日記より」青空文庫)

解説◎
寺田寅彦[1878 - 1935年]は物理学者だが、夏目漱石に師事して多くの随筆を書き残した名文家としても知られる。「震災日記より」の全文はこちらで読むことができる→

2014年9月30日火曜日

伏見康治(物理学者・当時14歳)


「九月三日か四日だったか、そろそろ暮れるという時刻に、『朝鮮人が攻めてくる』という噂が、本当に物理的な風でもあるかのような勢いで通過していった。 
ついで、自衛団のよびかけがあって、二本榎の連中は伊皿子の近くの高松宮の庭園に逃げ込めという布令が伝わってきた。 
父は、なげしに置いてあった先祖伝来の槍や刀をおろして、塵を払って武装したりした。 
僕は姉妹と母を連れて自転車を押しながら高松宮家へ逃げ込んだ。
『足が地につかない』という言葉があるが、母はこの時本当に足が地につかない様子であった。 
そのうちに『十二歳以上の者は防衛隊を組織しろ』という声がかかってきて、姉が、貴方はまだ十二になっていないのだから出なくてもいいのよ、などと引きとめる。 
僕は悲痛な顔をして防衛隊に加わろうとした。丁度その時に、朝鮮人暴動はデマだという声が伝わってきて、一件落着。 
しかしそれは高輪近辺だけの話で、品川あたりでは流血の事件があったという。
(伏見康治『生い立ちの記』伏見康治先生の白寿を祝う会、2007年)
注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています。


解説◎
伏見康治[1909 – 2008年]は物理学者で、名古屋大学名誉教授。「原子力三原則(自主・民主・公開)」を茅誠司(東大総長)とともに提唱した。2008年没。震災当時は現在の港区高輪に住んでいた。

2014年9月29日月曜日

田中貢太郎(作家)

自警団の暴行、朝鮮人虐殺その他

九月一日夜から数日間の帝都及びその附近に於ては、未曾有の大震災とそれに伴つて伝わつた出鱈目な流言蜚語のために、すつかり度を失つた民衆によつて、まことに恥づべきところの不祥なる出来事、戦慄すべき惨虐事が到るところに現出された。
即ち鮮人暴動の流言に血迷つた自警団の鮮人及び鮮人と誤つた内地人に対する虐殺事件である。この恐るべき事件は、五十日に亘(わた)つて新聞雑誌の報道を差止められてゐたが、十月二十一日その一部分は解禁されたので、全国新聞は一斉に筆を揃へて書き立て、更らにわれらの心を暗くさせた。
田中貢太郎/高山辰三『日本大震災史』(教文社、1924年1月刊)


解説◎
「自警団の暴行と朝鮮人虐殺」。震災の 4ヵ月後には、これが世の中の一般的な認識となっていたのである。田中貢太郎[1880-1941年]は実録ものや怪談で知られる作家。

2014年9月23日火曜日

追々考へてみると、朝鮮人の暴徒は全くうそにて……

192392

(梨本)宮様、表よりかけてならせられ、朝鮮人の暴徒おしよせ来り今三軒茶屋のあたりに三百人も居る、それが火をつけてくるとの事。
これは大へんと家に入、色々大切なる品々とりあつめ鞄(かばん)に入れ、衣服をきかへ、立のきの用意し、庭のテント内に集り、家中の人々、皆々庭に出、火をけし、恟々たる有様。日はくれる。心細き事かぎりなし。
遠くにて爆弾の音などする。
十時ごろ、よびこの音して町の方そうぞうしく、何かと思へば、今こっちへ朝鮮人にげこんだ、いやあっちと外は外にて人ごえ多く、兵は猟銃をつけ、実弾をこめてはしる。其内にピストルをうつ音、小銃の音、実に戦場の如し。
やがて又静かになる。今、宮益にて百数名、六本木にて何名とっつかまったとの事。夜通しおちつかず。一同テント内にて、夢うつつの如くしてくらす。

同年93

追々考へてみると、朝鮮人の暴徒は全くうそにて、神奈川県にて罪人をはなしたる故、それらの人々色々流言を以て人をさわがせ、朝鮮人も多少居ったにはちがひないが、皆悪るい心はなく思ひちがひのためひどい目に会ったものもあり、後それらの事わかり、悪くない朝鮮人はよく集め、ならし野(習志野)に送り保護する事となれり。
(小田部雄次『梨本宮伊都子妃の日記』小学館、91年)

注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています。

解説◎
梨本宮伊都子1882年に鍋島直大侯爵(旧佐賀藩主)の娘として生まれ、1900年に梨本宮守正と結婚した。朝鮮王族の李垠と結婚した娘の方子のほうが有名だろう。上に引用したのは、伊都子の震災の翌日、翌々日の日記の一部。梨本宮邸は渋谷の宮益坂にあった。

伊都子は、1899年から1976年までの80年間の日記を書き残した。小田部『梨本宮伊都子妃の日記』は、その内容を紹介し、時代背景とともに解説している。

2014年9月10日水曜日

宮武外骨 │ 日鮮不融和の結果

宮武外骨
今度の震災当時、最も痛恨事とすべきは鮮人に対する虐遇行為であった。
その誤解の出所は不明としても、不逞漢外の鮮人を殺傷したのは、一般国民に種族根性の失せない人道上の大問題である。
要は官僚が朝鮮統治政策を誤っている余弊であるにしても、我国民にも少し落ちついた人道思想があったならば、かほどまでには到らなかったであろう。
根も葉もない鮮人襲来の脅しに愕いて、自警団が執りし対策は実に極端であった。誰何して答えない者を鮮人と認め、へんな姓名であると鮮人と認め、姓名は普通でも地方訛りがあると鮮人と認め、訛りがなくても骨相が変っていると鮮人と認め、骨相は普通でも髪が長いから鮮人だろうと責め、はなはだしいのは手にビール瓶か箱をもっていると毒薬か爆弾を携帯する朝鮮人だろうとして糾問精査するなど、一時は全く気狂沙汰であった。
北海道から来た人の話によると、東京から同地へ逃げた避難者は警察署の証明を貰いそれを背に張って歩かねば危険であったという。
注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。 

(宮武外骨『震災画報』「日鮮不融和の結果」ちくま学芸文庫、2013年)



解説◎宮武外骨は1867年生まれのジャーナリスト。『滑稽新聞』『スコブル』など、反骨とユーモアにあふれた独特の雑誌を生み出し続け、今に至るも表現にかかわる人には多大な影響を与え続けている。『震災画報』は震災の3週間後から翌年1月まで、6冊が発行された。

2014年9月5日金曜日

黒澤明【映画監督】の証言


黒澤明【映画監督。当時中学2年生】

“ 私はあきれ返った。
何をかくそう、その変な記号というのは、
私が書いた落書だったからである”


その夜(1日夜)人々を脅かしたものは、砲兵工廠の物音である。(略)時々、砲弾に引火したのか、凄まじい轟音を発して、火の柱を吹き上げた。その音に人々は脅えたのである。私の家の町内の人々の中には、そのおとは伊豆方面の火山の爆発で、それが連続的に火山活動を起しつつ、東京方面に近付いているのだ、とまことしやかに説く人もあった。(略) 焼け出された親戚を捜しに上野へ行った時、父が、ただ長い髭を生やしているからというだけで、朝鮮人だろうと棒を持った人達に取り囲まれた。/私はドキドキして一緒だった兄を見た。/兄はニヤニヤしている。/その時、/「馬鹿者ッ!」/と、父が大喝一声した。/そして、取り巻いた連中は、コソコソ散っていった。 町内の家から一人ずつ、夜番が出ることになったが、兄は鼻の先で笑って、出ようとしない。/仕方がないから、私が木刀を持って出ていったら、やっと猫が通れるほどの下水の鉄管の傍へ連れていかれて、立たされた。/ここから朝鮮人が忍びこむかも知れない、と云うのである。 もっと馬鹿馬鹿しい話がある。町内の、ある家の井戸水を飲んではいけないと云うのだ。/何故なら、その井戸の外の塀に、白墨で書いた変な記号があるが、あれは朝鮮人が井戸へ毒を入れた目印だと云うのである。/私はあきれ返った。/何をかくそう、その変な記号というのは、私が書いた落書だったからである。 私はこういう大人達を見て、人間というものについて、首をひねらないわけにはいかなかった。

(黒澤明『蝦蟇の油―自伝のようなもの―』岩波現代文庫、2001年。初刊は1984年)

清川虹子【女優】の証言

清川虹子【女優。当時12歳。震災時は上野音楽学校へ避難】

“ 男たちは、手に手に棒切れをつかんで、
その朝鮮の男を叩き殺したのです。
わたしはわけがわからないうえ
恐怖でふるえながら、
それを見ていました”

朝鮮の人が井戸に毒を投げ入れたから、水は一切飲んではいけないと言われたのは、この日(9月3日)です。/
朝鮮人が襲撃してくる、警戒のために男たちは全員出てくれ、どこからともなく言ってきて、父も狩り出されました。いわゆる「自警団」です。 だれが考えたのかわかりませんが、日本人は赤い布、朝鮮人は青い布を腕に巻くことになり、父は赤い布を巻いて出て行きました。
すると1時間ほどして、日本人は青で、朝鮮人は赤だったとわかって、父がまちがって殺されてしまうと思い、私は泣き出してしまいました。
あとで、すべてはデマだとわかりましたが、そのどさくさでは確かめようもなくて、こうして朝鮮人狩りが始まっていったのです。
朝鮮人を1人つかまえたといって音楽学校のそばにあった交番のあたりで、男たちは、手に手に棒切れをつかんで、その朝鮮の男を叩き殺したのです。
わたしはわけがわからないうえ恐怖でふるえながら、それを見ていました。
小柄なその朝鮮人はすぐにぐったりしました。 大震災のあとに起きたこうした事件のかずかずは、これに遭遇した人のいろんな本に、それぞれの体験として書かれていますが、それは火や激震そのものよりもずっと恐ろしく、ぞっとする人間のドラマだったと思うのです。

注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。

(清川虹子『恋して泣いて芝居して』主婦の友社、1983年)


蘇峰生(徳富蘇峰)「流言飛語」

蘇峰生(徳富蘇峰
流言飛語は、専制政治の遺物。支那、朝鮮に従来有り触れたる事也。蝙蝠(こうもり)は暗黒界に縦横す。吾人は青天白日に、蝙蝠の飛翔するを見ず。
公明正大なる政治の下には所謂(いわゆ)る処士横議はあり、所謂る街頭の輿論はあり。然(しか)も決して流言飛語を逞ふせんとするも、四囲の情態が、之を相手とする者なければ也。
今次の震災火災に際して、それと匹す可き一災は、流言飛語災であつた。天災は如何ともす可らず。然も流言飛語は、決して天災と云ふ可らず。吾人は如上の二災に、更らに後の一災を加へ来りたるを、我が帝国の為めに遺憾とす。
吾人は震災火災の最中に出て来りたる山本内閣に向て、直接に流言飛語の責任を問はんとする者でない。併し斯(かか)る流言飛語―即ち朝鮮人大陰謀―の社会の人心をかく乱したる結果の激甚なるを見れば残念ながら我が政治の公明正大と云ふ点に於て、未だ不完全であるを立証したるものとして、また赤面せざらんとするも能はず。
既往は咎めても詮なし。せめて今後は我が政治の一切を硝子板の中に措く如く、明々白々たらしめよ。陰謀や、秘策にて、仕事をするは、旧式の政治たるを知らずや。

(「国民新聞」1923年9月29日付、『朝鮮人虐殺関連史料』緑蔭書房、2004年)