Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

PIKADON-BERLIN

A special performance Live painting/Live Video/Photograph installation/Melding sound, image and culture.
PIKADON-BERLIN2007
Pre-event & Exhibition June 2007
Main-event & Exhibition September-October 2007
SONY Center, Berlin
Presents by
*SEITARO KURODA Artist
*toshinorikondo Composer/Musician
*ARAKI NOBUYOSHI Photographer
*TADAO ANDO Architect
*TAKU NISHIMAE Producer
*NATALIJA RIBOVIC *Kokoro Muscle* Visual Media Artist
*TORU FUJITA *OAK-to-all-relations Culture art platform*

http://www.pikadon-berlin.com/

「対話 菅木志雄+藁科英也」(1997)より

藁科 空間とのかかわりで?
菅  そう。全然違うよね。だから空間からいくのか、完全に質量的な物体からいくのか……あるいはモチーフとして、モチベーションとして。ムーアは形態主義者で人間をモデルにする、モデル主義者よね。ブランクーシはやっぱり空間、見えないものをカタチにしていくというものがある。だからもうそこが厳密に違うわけでね。誰が考えてもとにかく違う、と思うでしょう。それでどちらが良い悪いじゃなくて、「何を引きずっているか?」という問題なんだ。形態的なものを主流にしているムーアにしたならば、やっぱりこれは従来の彫刻の形態観みたいなものを引きずっていて、そこから決して逃げようとしていないんですよね。
藁科 ムーアの彫刻の場合は空間を取り込むように作っていてもどうしても周りの空間は従になりますね。

藁科 <周囲縁景>(1992, cat. no. 177)などの壁に依拠した作品がありますね。その作品の場合、表面にパテで産めたところが点々と視線を誘く、あるいは別のパーツが手前に出ているということもその平面の中で起こり得るアナロジーをいかに観ている側の空間を結びつけるか、という……(※原文ママ
菅  そうでしょうね。たまたま規定はされている。規定はされればされるほど内側のパテの部分が凝縮するんですね。広ければ広いほど散漫になる。だからそのあたりの平面のとり方は、その時にどういうふうにその空間に立ち入っているか、ということを考えれば自然に、規制されている状態が分かってくる。
藁科 それはあくまで「絵画」ではない。
菅  絵画じゃないんです。空間なんですよね。空間がたまたま平面化、表面化していると思うな。
藁科 それを違った意味で平面を認識してしまうと、最初の話題にあったムーアのように主体である作品と従たる周囲の空間という関係となんら変わりはなくなってくるわけですね。

藁科 それは、作品を見に行くための移動、菅さんの言い方で言えば空間と時間が変わるアナロジー、その変わり方のために一点の作品を見る時にはかなり違ったものになるでしょうね。
菅  違ってくるだろうね。やっぱり違ってくることを期待していますよ、どこかで。いつの時間帯でも同じように見えるということはおよそ考えてない。違うことを想定した作り方、システムを考えないともたないところがあるんじゃないか。多数の記号性をそこにぶち込めるという意味で言えば、どんどん変わっていって変わったとたんに記号性がどんどん増えていくなり変わっていかないと作られたものの「厚み」みたいなものはなかなか出しにくい、ということじゃないかな。あるいは時間の経過。昨日見たのと今日見たのでは違う意味性がそこにパァーッと見えるようにいろんなものが含まれていれば、見る側にとってはそれだけ楽しみが増えるはずですよ。見て、「あ、そうか。ここもある、あそこもある」というふうにして、ものの多様性、空間の多様性というものを逆に認識できるとぼくは思うね。
 そうでなけりゃ、ちょっとおもしろくない。
藁科 今ではインターネットなどが発達して日本に居ながらにしてルーヴルの所蔵品が検索できる。これはもうアナロジーではないわけですね。

回顧展図録『菅木志雄 Suga Kishio』所収
http://www.ccma-net.jp/publication_catalog/1998/1998_02.html


◇ 再々録 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060820#p3
「ニンゲンのまわりにあらゆるものがありながらいかなる<カタチ>も存在しない。
<カタチ>がなければ、なにもみることがない。ニンゲンが欲するとき、<はじめ
て><カタチ>がみえ、認識される。<カタチ>はニンゲンの意識の流れにあり、
必要に応じて、<カタチ>となり、外の世界でみえる。」(菅木志雄)


◇ 菅木志雄「集散-囲束」|ウーファー・アート・ドキュメンタリー
http://www.ufer.co.jp/works/suga/index.html