ボブ・ディラン MusiCares Person Of The Year スピーチ全文
ボブ・ディラン”MusiCare Person Of The Year”での40分にも及ぶ伝説のスピーチ訳掲載
グラミー賞を主催する全米レコード芸術科学アカデミーによって、アーティストとしての活動と慈善活動の両方に貢献したミュージシャンに贈られる「MusiCares Person Of The Year」。2015年2月6日LAのコンヴェンション・センターにて行なわれたトリビュート・ コンサートの中で、早くも「伝説のスピーチ」と呼ばれている、ボブ・ディランのスピーチのの日本語訳をいち早く掲載いたします。当初10分の予定だったものが大幅にオーバーして40分にも渡り、デビュー当時の恩人、自分の曲を取り上げてくれたミュージシャンへの謝辞、影響を受けた音楽、自分を揶揄してきた評論家への攻撃、そして自身の音楽についてなど、大変興味深い内容となっております(全てを網羅してはおりませんが、できるだけ訳して掲載致しました。追加事項ありしだいアップデイトしていきます)
この壮大なイベントを開催してもらい、感謝したい人々がいる。ニール・ポートノウ、デイナ・タマーキン、ロブ・ライト、ブライアン・グリーンバウム、ドン・ウォズ。そして、カーター(元)大統領、お越しいただき感謝します。今夜は長い宴だった。あまり長く話したくはないが、いくつか話をしようと思う。
私は自分の曲がこのような栄誉に預かったことを嬉しく思っている。でも、曲がひとりでにこうなった訳じゃない。長い道のりや沢山のことを経てきたんだ。私の曲は、シェイクスピアが少年時代に見て育った「神秘劇」(訳注: 15世紀中世ヨーロッパで発達した宗教劇)のようなものだ。私がやっていることはそこまで遡ることができると思う。当時も今も異端でね。ハードな立場に置かれてきたような音がする。
ここまでに至らせてくれた人々の名前を数人挙げたいと思う。ジョン・ハモンドは挙げるべきだね。コロンビア・レコーズ(米ソニー・ミュージック)の素晴らしいタレント・スカウトだ。彼は私が何者でもなかった頃に私をあのレーベルと契約してくれた。それには多くの信念が必要だったし、嘲りもされただろうけれど、彼は主体性と勇気があった。それには永遠に感謝している。彼が私の前に発掘したのはアレサ・フランクリンだった。その前はカウント・ベイシー、ビリー・ホリデイ、その他にも沢山の、売れていないアーティストと契約していたんだ。
ジョンはトレンドには関心がなかった。私はとても売れそうになかったけれど、彼は私と共にいてくれた。私の才能を信じてくれた、大切なのはそれだけだったんだ。彼には感謝してもしきれないね。ルー・レヴィーが経営するリーズ・ミュージックが私のごく初期の歌を出版しているけれど、あまり長い間そこには所属していなかった。
レヴィーとも古い付き合いだ。彼は私をあの会社と契約してくれて、私の曲を録音してくれた。テープ・レコーダーに吹き込んだんだ。彼は私に対して率直にこう言った。私のやっていることには先例がない。時代に先駆けているのか出遅れているかのどちらかだってね。私が「スターダスト」のような曲を持って行けば、古すぎるといって却下されたものだよ。
彼が言うには、彼自身いまひとつ確信が持てないものの、もし私が時代に先駆けているのであれば、世間が追いつくのに3年から5年はかかるだろうから、心の準備をしておけと。そして実際その通りになった。問題は、世間が実際に追いついたときには、私は既に3年から5年先を行っていたから、事情が複雑になっていたということだった。でも彼は励ましてくれたし、私のことを決め付けることもなかった。それはいつまでも忘れない。
彼の次に音楽出版契約してくれたのが、ウィットマーク・ミュージックのアーティ・モーガルだった。とにかく曲を書き続けろ、そうしたら何かしらモノになるかも知れないからと言われた。彼もまた私を支え、私が次に何を書くかをいつも心待ちにしてくれていた。私はそれまで自分のことをソングライターだなんて思ったことすらなかったのに。そういうスタンスでいてくれたことにも、彼にはいつまでも感謝するよ。
また、頼まれもしないのに、ごく、ごく、ごく初期の私の曲を録音してくれた、昔のアーティストの名前も挙げなければならないね。ピーター、ポール&マリーにお礼を言いたい。彼らのことは結成前から個別に知っていたんだ。私は他人が歌う曲を書く自分なんて考えもしなかったけれど、そういうことになりつつあった。これ以上素晴らしいグループとは実現しなかったと思う。
彼らは私のアルバムの中で埋もれていた昔の録音をヒット曲にしてくれた。私がやったであろう形ではなく、立ち直らせてくれたんだ。以来、何百万人もの人々がその曲を録音してくれたけれど、彼らがいなかったらそんなことは起こらなかっただろう。彼らが始めたことが私のためになったことは確かだ。
ザ・バーズ、ザ・タートルズ、ソニー&シェール。彼らは私の曲をトップ10ヒットにしてくれたけれど、私はポップス・ソングライターではなかった。なりたいと思ったことすらなかった。でもそういうことになったのはよかったよ。彼らのヴァージョンはコマーシャルみたいだったけど、私は特に気に留めなかった。50年経ったら、私の曲がコマーシャルに使われることになったんだから。それも良かったね。そういうことになってよかったし、彼らが取り上げてくれて嬉しかった。
パーヴィス・ステイプルズとステイプル・シンガーズ。彼らはスタックスの前はエピックに所属していて、ずっとお気に入りのグループの一つだったんだ。彼らに会ったのは’62年か’63年だったね。彼らが私の曲をライヴで聴いて、パーヴィスがそこから3、4曲を録音したいと言い出して、ステイプルズ・シンガーズとやった。彼らのようなアーティストに私の曲を録音して欲しかったんだ。
ニーナ・シモン。 彼女とはニューヨークのヴィレッジ・ゲートというナイトクラブですれ違っていたね。彼女を私は尊敬していたんだ。楽屋で彼女に直接歌って聞かせた私の曲をいくつか録音してくれた。素晴らしいアーティストであり、ピアニストであり、シンガーだった。とても強い女性で、歯に衣を着せない人だったね。彼女が私の曲を録音してくれたことで、私の存在意義がすべて証明されたんだ。
ジミ・ヘンドリックスを忘れる訳にはいかない。私がジミの演奏を実際に観たのは、彼がジミー・ジェームズ・アンド・ザ・ブルー・フレームズとかいう名前のバンドにいた頃だった。ジミは歌ってすらいなかった。ただのギタリストだったんだ」とディランは言った。「彼は誰も全く注目していなかったような俺の些細な曲を上部成層圏の隅まで轟かせて、どれも名曲にしてくれた。ジミにも感謝しなければ。彼がここにいてくれたらと思う。
ジョニー・キャッシュもまた、初期に私の曲をいくつか録音してくれた。「彼に出会ったのは’63年辺り、彼が骨と皮ばかりに痩せこけていた頃だった。彼は長く過酷な道を行っていたけれど、私にとってはヒーローだった。彼の曲をたくさん聴いて育ってきたからね。自分の曲よりもよく知っていた。「ビッグ・リヴァー」、「アイ・ウォーク・ザ・ライン」、「ハウ・ハイズ・ザ・ウォーター・ママ」とかね。「イッツ・オールライト・マ(アイム・オンリー・ブリーディング)」は、あの曲が頭の中で鳴り響く中で書いたんだ。今でも”How high is the water, mama?”と口ずさんでいるよ。ジョニーは気性の激しい人だった。私がエレクトリック・ミュージックをやっていることを批判されているのを知った彼は、雑誌に「黙ってアイツを歌わせろ」と、彼らを叱る手紙を投稿したんだ。
ジョニー・キャッシュの生きていたハードコアな南部のドラマの世界では、そんなものは存在しなかった。誰も誰かに何を歌えとか、何を歌うなとか、指図したことなんてなかったんだ。どういう訳かそういうことはしなかった。 ジョニー・キャッシュにはそういう意味で一生感謝する。キャッシュは心の大きな、正義感の強い男性(man in black)だった(訳注:キャッシュの曲”Man In Black”に登場する、正義感の強い男性にかけている)。彼との友情は最期まで大切にするよ。
ああ、それから、 ジョーン・バエズの名前を出さなかったら私の怠慢になってしまうね。彼女は昔も今もフォーク・ミュージックの女王だった。私の曲を気に入ってくれて、コンサートで共演させてくれたんだ。そこでは何千人もの人々が、彼女の美貌と声に魅了されていたね。
「そこのみすぼらしくてむさ苦しい浮浪児をどうするっていうんだ?」と野次が飛んでも、彼女はいつもきっぱりこう言っていた。「お黙りなさい。歌を聴くのよ」何曲か一緒にプレイしたりもしたね。ジョーン・バエズはこの上なくタフな心の持ち主だったよ。しかも自由で独立心旺盛だった。彼女がやりたくないものは誰も彼女にやらせることはできなかった。彼女からは沢山のことを学んだよ。圧倒的に正直な人だったね。そして彼女のような愛情と献身は一生かかっても返しきれない。
これらの曲はどこからともなく生まれてきた訳じゃない。でっち上げた訳でもないんだ。ルー・レヴィーが言っていたのとは逆で、先立つものがあったんだ。伝統的なフォーク、ミュージック、伝統的なロックンロール、伝統的なビッグ・バンドのスウィング・オーケストラ・ミュージックからきている。
私はフォーク・ソングの歌詞を学んで、そこから歌詞の書き方を覚えた。それらを演奏もしたし、誰もやっていなかった頃にそれらをやっていたほかの人々とも出会った。フォーク・ソング以外は何も歌わなかったけど、彼らはすべてのものがすべての人のものだという考えで、すべてのコードを与えてくれたんだ。
3-4年くらいはフォークのスタンダード曲ばかり聴いていたね。フォーク・ソングを歌いながら床に就いていたよ。クラブ、パーティ、バー、喫茶店、野外、フェスティヴァル、どこに行ってもフォーク・ソングを歌っていた。そんな中で出会った、同じ生業のシンガーたちと、お互い曲を学びあったんだ。私は1回聴いただけで、1時間後には歌えるようになっていたね。
「ジョン・ヘンリー」(訳注:伝説上の、アフリカ系アメリカ人の労働者の英雄を歌った曲。ウッディ・ガスリーやブルース・スプリングスティーンが歌っている)という曲を私ほど沢山歌ったことがあるなら…-
‐-‐ "John Henry was a steel-‐driving man / Died with a hammer in his hand / John Henry said a man ain't nothin' but a man / Before I let that steam drill drive me down / I'll die with that hammer in my hand."
(「ジョン・ヘンリー」をそらんじる)
この曲を私ほと沢山歌ったことがあるなら、あなたはきっと"How many roads must a man walk down?" (訳注:「風に吹かれて」の一節)と書いたことがあるだろう。
ビッグ・ビル・ブルーンジーの曲に「キー・トゥ・ザ・ハイウェイ」というのがある。
"I've got a key to the highway / I'm booked and I'm bound to go / Gonna leave here runnin' because walking is most too slow." (同曲をそらんじる)
…あれもよく歌ったね。あれを沢山歌うと、思わずこういう歌詞を書いてしまうものだ。
"Georgia Sam he had a bloody nose
Welfare Department they wouldn’t give him no Clothes
He asked poor Howard where can I go
Howard said there’s only one place
I know Sam said tell me quick man I got to run
Howard just pointed with his gun
And said that way down on Highway 61 "
(「追憶のハイウェイ61」をそらんじる)
「キー・トゥ・ザ・ハイウェイ」を私ほど沢山歌ったことがあるなら、あなたもこういう曲を書いたことだろう。
"Ain't no use sit 'n cry / You'll be an angel by and by / Sail away, ladies, sail away." (訳注:ジョーン・バエズの「セイル・アウェイ・レディース」の一節)。
"I'm sailing away my own true love." (訳注:「スペイン革のブーツ」の一節)。
「スペイン革のブーツ」だね。今さっきシェリル・クロウが歌ってくれた。
"Roll the cotton down, aw, yeah, roll the cotton down / Ten dollars a day is a white man's pay / Roll the cotton down/A dollar a day is the black man's pay / Roll the cotton down." (労働者ソングの「ロール・ザ・コットン・ダウン」をそらんじる)
あの曲を私ほど沢山聴いたことがあるなら、あなたも"I ain't gonna work on Maggie's farm no more”(訳注:「マギーズ・ファーム」の一節)と歌ったことがあるだろう。
ロバート・ジョンソンが“Better come in my kitchen, ‘cause it’s gonna be raining out doors”(訳注:「カム・オン・イン・マイ・キッチン」の一節)と歌うのを私ほど沢山聴いたことがあるなら、のちに「はげしい雨が降る」を書いてしまうだろう。
私は「みんなおいで」的な曲を沢山歌ってきた。山ほどあるからね。数え切れないくらいだ。"Come along boys and listen to my tale / Tell you of my trouble on the old Chisholm Trail." (訳注:1870年代の労働者ソング「オールド・チソム・トレイル」の一節)とか、"Come all ye good people, listen while I tell / the fate of Floyd Collins a lad we all know well / The fate of Floyd Collins, a lad we all know well”(訳注:探検家のフロイド・コリンズのことを歌った曲「デス・オブ・フロイド・コリンズ」の一節)とか。
(引き続き「フロイド・コリンズ」をそらんじる)
"Come all ye fair and tender ladies / Take warning how you court your men / They're like a star on a summer morning / They first appear and then they're gone again." And then there’s this one, "Gather 'round, people / A story I will tell / 'Bout Pretty Boy Floyd, the outlaw / Oklahoma knew him well."
こういった「みんなおいで」的な曲ばかり歌っていると、(と「時代は変る」をそらんじる)
"Come gather 'round people where ever you roam, admit that the waters around you have grown / Accept that soon you'll be drenched to the bone / If your time to you is worth saving / And you better start swimming or you'll sink like a stone / The times they are a-‐ changing."
こういう歌詞も書いてしまうはずだ。何の秘密もない。無意識のうちにやってしまうんだ。それで十分だし、私はそういうのしか歌わなかったからね。私にとって大切なのはそういう曲だけだったんだ。そういう曲だけが私にとって意味が通っていた。
"When you go down to Deep Ellum keep your money in your socks / Women in Deep Ellum put you on the rocks."(トラディショナルな曲「ディープ・エルム・ブルース」の一節)あの曲をしばらく歌っていると、こういうフレーズを思いつくようになる。
"When you're lost in the rain in Juarez and it's Easter time too / And your gravity’s down and negativity don't pull you through / Don’t put on any airs / When you’re down on Rue Morgue Avenue / They got some hungry women there / And they really make a mess outta you."
(「親指トムのブルース」をそらんじる)
これらの曲はみんな繋がっているんだ。騙されちゃいけない。私は違う扉を違うやり方で開いただけなんだ。違うだけで、言っていることは同じだ。私は(自分の曲が)並外れたものだとは思わなかった。
まあ、自分では自然なことだと思っていただけで、私の曲は最初から何故か軋轢を招いてしまっていた。人々を対立させてしまってね、どうしてかは全く分からなかった。怒る者もいれば、とても気に入ってくれた者もいた。どうして賛否両論なのか分からなかった。自分の曲を投入するには不思議な環境だったけれど、それでも私はそうしたんだ。
私がどんな曲を書くかを誰が気にするかは、ほとんど考えたことがなかった。私はただ書いていただけなんだ。人と違うことをやっているという自覚はなかった。ただ(伝統からの)延長線を描いていただけだと思っていたんだ。多少常軌を逸していたかも知れないけれど、単に状況を詳しく書いていただけだった。つかみどころがなかったかも知れないけれど、だから何だ?他にもとらえどころのないやつらはいっぱいいる。やり過ごすだけだ。
(ジェリー・)リーバーと(マイク・)ストーラー(訳注:アメリカの作詞作曲コンビ)が私の曲をどう思うかなんて、特に気にもしなかった。
彼らには気に入ってもらえなかったけれど、ドク・ポーマス(訳注:ロックンロールの作詞家として有名)は気に入ってくれた。彼らが気に入らないのは別に構わない。私も彼らの曲を好きになったことなんてなかったしね。
"Yakety yak, don't talk back." "Charlie Brown is a clown," "Baby I'm a hog for you." (リーバー&ストーラーの歌詞を数曲そらんじる)
…目新しい曲だったけれど、何も深刻なことは言っていなかった。ドクの曲の方が良かった。「ディス・マジック・モーメント」、「ロンリー・アヴェニュー」、「ラスト・ダンスは私に (Save The Last Dance For Me)」…
ああいった曲には心が張り裂けそうになったよ。リーバー&ストーラーよりもドクの曲の承認を受けたいと思ったね。
アーメット・アーティガンは私の曲をあまり気に留めなかったけれど、サム・フィリップス(訳注:エルヴィス・プレスリーを発掘したことで知られる)は気にかけてくれた。アーメットはアトランティック・レコーズを創立した。レイ・チャールズ、ルース・ブラウン、ラヴァーン・ベイカーをはじめ、素晴らしいアルバムを沢山プロデュースした人だ。
(アトランティック・レコーズには)素晴らしいアルバムが沢山あったのは疑いもない。でもサム・フィリップス、彼はエルヴィス(・プレスリー)やジェリー・リー(・ルイス)、カール・パーキンス、ジョニー・キャッシュを録音した人だ。人類の真髄を揺るがした、先鋭的な着眼点の持ち主だ。スタイルにおいても視野においても革命的だった。骨の髄まで先鋭的だった。骨を切られるほどに先鋭的だった。すべての面で反逆的で、朽ちることのない、今も響き続ける曲を作った。そうだな、(リーバー&ストーラーよりは)サム・フィリップスに認められたいものだ。
マール・ハガードは私の曲をあまり気にも留めなかった。そう面と向かって言われたことはないけれど、分かるんだ。バック・オーウェンズは気に留めてくれたね。私の初期の曲をいくつか録音してくれたから。マール・ハガードは…「ママ・トライド」、「ザ・ボトル・レット・ミー・ダウン」、「悲しき逃亡者 (I’m a Lonesome Fugitive)」を歌っていたけれど、ウェイロン・ジェニングスが「ザ・ボトル・レット・ミー・ダウン」を歌うのは想像できないな。
「トゥゲザー・アゲイン」、あれはバック・オーウェンズだね。あれはベーカーズフィールド・サウンド(訳注:カリフォルニア州ベーカーズフィールドで発祥したカントリー・ミュージックの1ジャンル)から出てきたどんな曲よりも素晴らしい。バック・オーウェンズとマール・ハガードならどっちかって言うと、誰かに認められたいと思うなら…答えは自分で決めてくれ。私が言いたいのは、私の曲がどうやら人々を分裂させてしまうようだということだ。音楽コミュニティ内でさえもね。
ああ、そうだ。評論家たちはデビュー当初から私にきつく当たっていたね。私が歌えない、カエルみたいにゲロゲロ鳴いているんだって言っていた。同じことをトム・ウェイツに言わないのは何でだろうね?評論家たちは私の声がイカレているという。私に声なんてものはないってね。同じことをレナード・コーエンに言わないのは何でだろうね?どうして俺は特別扱いなんだろうね?評論家たちは私が1曲も歌い通せない、曲をトークしているって言う。そうかい?ルー・リードに対して同じことを言っているのは聞いたことがない。どうして彼は無罪放免なんだろうね?こんな風に特別な目で見られるなんて、私が何をしたって言うんだ?
主よ、なぜ私が?
声域がないって?ドクター・ジョンについてそう書かれているのを最後に読んだのはいつだっただろうね?ドクター・ジョンについてそんな記事は読んだこともないじゃないか。何で同じことを彼には言わないんだろうね?私の言葉をろれつが回っていない、洗練されていないと非難するけれど、そういう評論家たちがチャーリー・パットン、サン・ハウス、あるいはウルフなんかを一度でも聴いたことがあるのか疑問だね。ろれつが回っていない、洗練されていないといえば。でも彼らについてそういう話は全く出てこない。
「主よ、なぜ私が?」私ならそう言うね。
評論家たちは私がメロディをズタズタにしている、認識不可能な演奏の仕方をするという。そうかね?一言言わせてもらおう。数年前、フロイド・メイウェザーがプエルトリコ人の男と対決するボクシングの試合を観た。プエルトリコの国歌を誰かが歌っていたのが美しかった。心に訴えかけてくるものがあった。
その後、今度はアメリカ国歌の番になった。大人気の、ソウルを歌う女性歌手が歌うことになっていた。彼女は存在する音も存在しない音も歌っていたよ。メロディをズタズタにするという話でいえば、音節1つの単語を15分くらい引き伸ばしたらどうなる?その女性は空中ブランコみたいにヴォーカルの器械体操をやっているかのようだった。私にとっては面白くなかったけれどね。(あの時)評論家たちはどこにいたんだ?歌詞をズタズタにしていた?メロディをズタズタにしていた?宝物のような曲をズタズタにした?いや、責められるのは私だ。でも自分がそんなことをしているとは、どうも私には思えないね。私がそうしていると評論家たちが言っていると思うだけで。
サム・クックは声の美しさを褒められたときこう言ったという。「優しいお言葉をありがとう。でも声というものはその美しさで決められるものではないんだ。真実を歌っていると説得できることこそが大切なんだ」。次回歌を聴くときに考えて欲しい。
時代はいつでも変わるもの。本当だ。次にやってくる予期せぬものへの準備を常にしておかなければならない。ずっと昔、ナッシュヴィルでアルバムを作っていた頃、トム・T・ホール(訳注:カントリー・ミュージックの作曲家)のインタビューを読んだことがある。彼は最近の曲について文句を言っていた。意味が分からないってね。
いいかい、トムは当時、ナッシュヴィルで最も卓越したソングライターのひとりだったんだ。沢山の人が、彼自身も、彼の曲を録音していた。でも彼はジェームズ・テイラーの「カントリー・ロード」という曲にいちゃもんをつけていたんだ。「ジェームズはカントリー・ロード(田舎道)のことなど一言も歌っていない。田舎道で感じることを歌っているだけだ。私には理解できない」ってね。
いいかい、トムが素晴らしいソングライターだったという人もいる。それは私も疑いもしない。彼がそのインタビューを受けていたとき、私はラジオで彼の曲を聴いていたくらいだから。
「アイ・ラヴ」という曲だった。レコーディング・スタジオで聴いていたその曲は、彼が愛するものについての歌だった。人と繋がろうとする、ごく普通の曲だったね。彼も私も同じなんだなと思わせるような曲だった。みんな同じものが大好きで、みんな同じ立場だって。トムはアヒルの赤ちゃんや、ゆっくり走る列車や雨が大好きだ。古いピックアップ・トラックや、田舎の小川が好きだ。夢のない睡眠。グラスに入ったバーボン。カップに入ったコーヒー。つる付きトマト、それからタマネギも。
いいか、聴いてくれ、私はまたソングライターを糾弾する(ディスる)つもりはない。悪い曲だというつもりもないけれど、ちょっと作りこみすぎた曲かも知れないと言っているんだ。それでもその曲はトップ10入りを果たした。トムとその他数人のソングライターで、ナッシュヴィルのシーンは独占されていたんだ。自分の曲をトップ10入りさせたかったら、彼らに頼るしかなかった。
同じ頃、ウィリー・ネルソンが頭角を現して、テキサスに移住した。彼は今もテキサスに住んでいるね。すべてが順風満帆だった。…(クリス・)クリストファーソンが登場するまではね。彼は野良猫のようにナッシュヴィルに現れて、ヘリコプターでジョニー・キャッシュの裏庭に乗りつけたんだ。いわゆる普通のソングライターじゃなかったね。そうして書いたのが「サンデー・モーニング・カミング・ダウン」だった。
“Well, I woke up Sunday morning
With no way to hold my head that didn't hurt.
And the beer I had for breakfast wasn't bad
So I had one more for dessert
Then I fumbled through my closet
Found my cleanest dirty shirt
Then I washed my face and combed my hair
And stumbled down the stairs to meet the day.”
(「サンデー・モーニング・カミング・ダウン」をそらんじる)
ナッシュヴィルのクリス登場前と登場後を見比べるといい。彼がすべてを変えたんだ。あの1曲がトム・T・ホールの世界をメチャメチャにした。そんなことになるとトムは思ってもみなかったんだ。あの曲は彼を精神科送りにしたかも知れないね。彼が私の歌を1曲でも聴いたらとんでもないことになるだろう。
“You walk into the room
With your pencil in your hand
You see somebody naked
You say, “Who is that man?”
You try so hard
But you don’t understand
Just what you're gonna say
When you get home
But you don’t know what it is
Do you, Mister Jones?”
(「やせっぽちのバラッド」をそらんじる)
「サンデー・モーニング・カミング・ダウン」がトムを怒らせて精神科送りにしたとしたら、私の曲なら間違いなく彼の脳みそを吹き飛ばしただろうね、精神科に一直線に。聴いていなかったことを願うよ。
最近スタンダード曲のアルバムを出したんだ。通常はマイケル・ブーブレ、ハリー・コニックJr.がやるような曲をね。ブライアン・ウィルソンやリンダ・ロンシュタットもやったことがあるかも知れない。でも彼らのアルバムのレヴューは、私のそれとは違うんだ。
彼らのレヴューでは誰も何も言わない。私のレヴューの場合はみんな何か言おうとしらみつぶしにネタを探すんだ。ソングライターの名前を全員挙げてね。まあ、それは別に構わない。つまるところみんな素晴らしいソングライターだし、スタンダード曲だからね。届いたレヴューを見たけど、レヴューの半分はソングライターの名前で埋まっている。誰もが知っているかのようにね。バディ・ケイ、サイ・コールマン、キャロリン・リーなど、今は誰も聞いたことがないような名前だけれど。
まあでも、彼らの名前が挙げられて私は嬉しいよ。彼らの名前が記事になったんだから。時間はかかったかも知れないけれど、やっと載ったんだ。どうしてこんなに時間がかかったのかと不思議に思うしかないけれど。唯一残念なのは、彼らの生きている間ではなかったことだね。
トラディショナルなロックンロールはリズムが命だ。ジョニー・キャッシュは「リズムだ。ブルースをやるときはリズムをモノにしろ」と最高の言い方をしていた。リズムのあるプレイをしているロックンロール・バンドは今非常に少ない。それが何だか分からないんだ。ロックンロールはブルースのコンビネーションだ。2つのパートが組み合わさってできた不思議なものなんだ。多くの人は気付いていないけれど、アメリカ音楽であるブルースは、みなさんが思っているようなものじゃない。アラビアのヴァイオリンとシュトラウスのワルツが組み合わさったものなんだ。本当のことだよ。
ロックンロールのもう片割れはヒルビリーしかあり得ない。これは蔑称とされているけれど、そういうことじゃない。デルモア・ブラザース、スタンレー・ブラザース、ロスコー・ホルコム、クラレンス・アシュリー…そういった輩を指す言葉だ。凶暴な酒類密造者。泥道を走る高速車。そういう組み合わせがロックンロールを作るんだ。科学の実験室やスタジオででっち上げられるものじゃない。
この手の音楽をやるには、正しいリズムがなければならない。フェイクすることはできるけど、本当の意味ではできないんだ。
評論家たちは、私が人々の期待を裏切り続けてきたことを非難することでキャリアを築いてきた。本当かって?私がやっているのはそれがすべてだからね。期待を裏切る、私はそう思っているんだ。
「あなたは何を生業としているのですか?」
「ああ、期待を裏切っているのですよ」
仕事の面接で「あなたは何をする人ですか?」と訊かれて「期待を裏切っています」と言ったら、「その職務は既に人員がいますので、また連絡してください。または私たちがいつか連絡しますよ」となるだろうね。期待を裏切る。それが何を意味するかって?「主よ、なぜ私が?私は彼らを裏切ったそうです。その方法を知らないのに」というところだね。
ブラックウッド・ブラザース(訳注:ゴスペル・グループ)は私に、一緒にアルバムを作らないかと誘ってくれている。そうなったら期待を裏切ることになるかも知れないけれど、そうなってはならないんだ。勿論ゴスペルのアルバムにあるだろう。私にとってはごく普通のことにしかならないだろうね。ブラックウッド・ブラザースの「スタンド・バイ・ミー」を歌おうかと考えているんだ。ポップ・ソングの「スタンド・バイ・ミー」じゃないよ。本物の「スタンド・バイ・ミー」だ。
When the storm of life is raging / Stand by me / When the storm of life is raging / Stand by me / When the world is tossing me / Like a ship upon the sea / Thou who rulest wind and water / Stand by me
In the midst of tribulation / Stand by me / In the midst of tribulation / Stand by me / When the hosts of hell assail / And my strength begins to fail / Thou whomever lost a battle / Stand by me
In the midst of faults and failures / Stand by me / In the midst of faults and failures / Stand by me / When I do the best I can / And my friends don't understand/ Thou who knowest all about me / Stand by me
(ブラックウッド・ブラザースの「スタンド・バイ・ミー」をそらんじる)
こういう曲だ。私はポップ・ソングの方より好きだね。このタイトルの曲を1つ録音するとしたら、この曲になる。それから、あのアルバムではないけれど、「悲しき願い (Oh, Lord, Please Don’t Let Me Be Misunderstood)」も録音しようと考えているんだ。
ともあれ、主よ、どうして私が。私が何をしたというのでしょう?ということだ。
ともあれ、今晩MusiCaresに出席していることを誇りに、これほど沢山のアーティストが私の曲を歌ってくれたことを光栄に思っている。これほど素晴らしいことはない。素晴らしいアーティストたち(拍手にかき消されて声が聞こえず)。みんな真実を歌っていることが、彼らの声から分かるんだ。
私はMusicaresのことをよく考える。彼らは沢山の人々を手助けしてくれた。私たちのカルチャーに貢献してきた沢山のミュージシャン。個人的には、友人のビリー・リー・ライリーにしてくれたことに感謝の意を表したいと思う。Musicaresは彼が病気で働くことが出来なかった6年間、彼を手助けしてくれた。ビリーもまた、ロックンロールの申し子であることは言うまでもない。
彼は真のオリジナルだった。演奏も歌も作曲もできて。ジェリー・リーが登場しなければもっと大スターになっていただろうね。ああいう人が登場してしまうと、どうにも何の見込みもなくなってしまうものだから。
そうしてビリーはいわゆる一発屋になってしまった。でも時には、一発屋が、20曲や30曲ヒットを連発しているスターよりも強力なインパクトを残すことができるんだ。ビリーのヒット曲は「レッド・ホット」という曲で、本当にレッド・ホット(灼熱の)曲だった。頭がぶっ飛んでハッピーになって、人生が変わるくらいにね。
彼はそれをスタイリッシュに優雅にやってのけた。彼はロックンロールの殿堂にはいない。メタリカはいる。アバもいる。ママス&パパスもいるのは知っている。ジェファーソン・エアプレイン、アリス・クーパー、スティーリー・ダン…ソフト・ロック、ハード・ロック、サイケデリック・ポップ。彼らやそういう音楽に他意はないけれど、「ロックンロールの殿堂」という名前なのに。ビリー・リー・ライリーは「まだ」いないんだ。
彼とは年に数回会っていた。彼がロカビリー・フェスティヴァルの「あの人は今」的なものを回っているときなんかに、時々一緒になったんだ。そんなときはいつも一緒に過ごしていたよ。私のヒーローなんだ。「レッド・ホット」を聴いたとき、私は多分15、6歳だった。今も印象深い曲だよ。
あの曲は聴き飽きたことがない。ビリー・リーのパフォーマンスを見飽きたこともなかった。一緒にいるときは夜遅くまで喋ったりプレイしたりしていた。奥の深い、誠実な男だった。世知辛くも、ノスタルジックになることもなく、状況を受け入れていた。自分自身に満足していたんだね。
ところがある日彼は病気になってしまった。今日も真実を歌ってくれた友人のジョン・メレンキャンプが歌うように、「ある日病気になって治らなかった」んだ。ジョンの曲「ロンゲスト・デイズ」からの一節なんだけどね。ここ数年の中で最高の曲のひとつだよ。嘘じゃなくて。
MusiCaresが友人の医療費や住宅ローンを肩代わりしてくれて、彼の出費を手助けしてくれたのも嘘じゃない。彼の人生を、少なくとも最期まで快適で耐え得るものにしてくれたんだ。これは返すことのできないもの(恩)だと思う。そんなことをしてくれる団体のために私は祈らずにはいられない。
そろそろ終わりにしておいとましようと思う。恐らく沢山の人を挙げそびれて、一部の人のことは言い過ぎてしまっただろう。でもそれでいい。スピリチュアルの曲のように、「私もまだヨルダン川を渡っている途中」なのだから(訳注:黒人霊歌「深い河」に言及しているものと思われる。ヨルダン川の向こうには約束の聖地があるという内容)。またお会いできますように。いつの日か。そしてもしお会いできるのであれば、ハンク・ウィリアムスの歌っていたように、それは「主のよき思し召しによるもの」(訳注:ハンク・ウィリアムスの曲”If The Good Lord’s Willin” [And The Creeks Don’t Rise]”とかけている)ということでしょう。
(以上)
*注:そらんじる=歌詞を朗読、暗唱してるという意