住まいの雑学
連載江戸の知恵に学ぶ街と暮らし
やまくみさん正方形
山本 久美子
2014年4月3日 (木)

花見が行楽として定着したのは、江戸時代のヨシムネミクスから

「飛鳥山 花見◎◎」広重?(画像提供:国立国会図書館)
画像提供:国立国会図書館
連載【江戸の知恵に学ぶ街と暮らし】
落語・歌舞伎好きの住宅ジャーナリストが、江戸時代の知恵を参考に、現代の街や暮らしについて考えようという連載です。

「アベノミクス」ならぬ「ヨシムネミクス」で花見の風習が根付いた

桜が満開になると、こぞって花見に出かける。それは今も昔も同じこと。

江戸時代にも桜の名所といわれる場所で、大名も下級武士も、町人も長屋の連中も花見を楽しんだ。しかし、もともと名所があったわけではない。江戸中期に八代将軍徳川吉宗が、隅田川の桜堤、王子の飛鳥山、品川の御殿山などに、桜を植えさせたのが始まりとされている。

京都に比べて行楽地の少ない江戸に、花見ができる場所をつくって一般に開放するという政策は、経済効果を狙ってのことだそうだ。都市部から江戸近郊へと花見客がハイキング気分で出かければ、そこで大量消費が生じ、経済効果も大きい。今でいうなら、さしずめ「ヨシムネミクス」だ。

例えば、今のJR王子駅西側の丘陵地「飛鳥山」は、江戸時代は江戸の北端に位置し、周囲は農村だった。近くに王子稲荷もあるので、参詣客も集めて、花見のころには大いににぎわったという。一日がかりの行楽になるので、三味線や踊りの師匠を連れた一団が好んで出かけたのが飛鳥山だったとか。

こうしてできた花見の名所だが、当時の桜がそのまま残っているわけではないようだ。当時の桜は「山桜」などで、今の花見で主流の「ソメイヨシノ」は江戸後期に染井村(現在の豊島区)の植木職人たちが品種改良をしたといわれている。その後も、幕府や寺社、商人などが次々と植樹をして、名所として育てていったわけだ。

時代が進むと、花見には「茶番」や「趣向」がつきものになる。花見客をびっくりさせようということになる。これを題材にしたのが、落語の「花見の仇討(あだうち)」だ。

落語「花見の仇討」とは…

花見の季節。長屋の仲良し四人組が集まって、花見の「趣向」を相談するところから、噺は始まる。
相談の結果、今年の趣向は「仇討騒ぎ」と決まる。まず、浪人者が桜の根方で煙草をふかしている。そこへ通りかかった巡礼の兄弟が、火を借りようと浪人に近づいたときに、探していた仇討の相手だと気がつく。

巡礼の兄弟が、親の敵(かたき)と斬りかかれば、「それ、仇討だ」と花見客がどっと集まる。そこに待ったをかけるのが、諸国巡礼六十六部(ろくじゅうろくぶ=日本六十六処の国分寺を遍歴して法華経の写経を納める行脚僧。単に六部ともいう)の姿をした仲裁役。背負っていた笈櫃(おいびつ=肩に担ぐ箱型の旅具)から酒、肴(さかな)や鳴り物を取り出して酒盛りを始める。そこでようやく、花見客が趣向と分かって大いに受ける。という筋書きだ。

ところがどっこい、六十六部役が来る途中で叔父さんと出会い、説教をされたり、酔わせて逃げようと酒を出したはいいが自分が酔って寝てしまったりで、さっぱり現れない。それを知らない浪人役と巡礼兄弟役は、仇討を始めてしまって大弱り。そのうち、助太刀するという武士まで参戦してくるので、大慌てで逃げだす始末。

それを見た武士が「逃げるに及ばん。勝負は五分だ」と言えば、逃げる連中は「肝心の六部が参りません」。

今私たちが花見を楽しめるのは、江戸時代から続く桜を愛でる風習によるもの。都市計画や経済効果を考えた徳川吉宗とそれを根付かせた江戸の人たちの功績といっていいかもしれない。ところで、今の私たちは、後世に何を伝えることができるのだろうか?

参考資料:
「江戸の暮らしの春夏秋冬」歴史の謎を探る会編/河出書房新書
「浮世絵で読む、江戸の四季とならわし」赤坂治績/NHK出版新書
「落語ハンドブック改訂版」山本進編/三省堂
「落語と江戸風俗」つだかつみ・中沢正人著/教育出版
「古典落語100席」立川志の輔選・監修/PHP文庫
「謎解き!江戸のススメ」竹内誠監修/NTT出版
「江戸へ行こう」根本裕子著/リトルガリヴァー社
https://suumo.jp/journal/wp/wp-content/uploads/2015/05/dc8bf0c1134dae340e61cda16d35e4fa.jpg
連載 江戸の知恵に学ぶ街と暮らし 落語・歌舞伎好きの住宅ジャーナリストが、江戸時代の知恵を参考に、現代の街や暮らしについて考えようという連載です。
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