TYONDAI BRAXTON
HIVE1
モジュラーシンセを用いた独自のエレクトロニクス・サウンドとプリミティブなパーカッションを融合させた生々しくもイマジナティヴな問題作。5月13日発売。
NONESUCH RECORDS/BEAT RECORDS
2015 5/13. ON SALE(国内盤特典:ボーナストラック追加収録)
モジュラーシンセを用いた独自のエレクトロニクス・サウンドとプリミティブなパーカッションを融合させた生々しくもイマジナティヴな問題作。5月13日発売。
NONESUCH RECORDS/BEAT RECORDS
2015 5/13. ON SALE(国内盤特典:ボーナストラック追加収録)
アルバムは昨年に制作を終えて、いまは委嘱を受けてオーケストラ作品をつくっていて、その合間に『HIVE1』のためのインタビューを受けたりしてるよ。5月、6月にはちょっとしたツアーがあったりとかね。
前作の『セントラル・マーケット』も、それ以前、BATTLESでの作品も、ある意味トラディショナルな作曲法に則ったもので、とりわけ『セントラル・マーケット』はそうだったんだけど、今作では、自分のエレクトロニックな側面を掘り下げる、というか、自分が電子音楽においてどんな「声」をもっているのかを深く理解すべくつくったものなんだ。自分の「電子音楽のルーツ」を探検するというか。さらにモジュラー・シンセサイザーの周辺で起きている技術的に新しい動きなんかも取り入れながら、その探索を進められたら面白いかな、と思ってつくりあげたものなんだ。そうした電子音を使いながら楽器を並行して用いて、かつ3人のパーカッショニストにも参加してもらったんだけど、その点から言えば、本作は、過去につくってきた記譜された音楽と、電子音楽のもっとアブストラクトな側面を合体させたものと言えるかな。
ある時期20世紀中庸のモダニストたちの作品に夢中になっていたことがあって、名前を上げるならエドガー・ヴァレーズやイアン・クセナキスといったヘヴィー級の人たちの作品から聴き始めて、そこからどんどん時代を下っていくわけだけど、近年のもので自分が思い浮かべるのはオウテカをはじめとするWARPの連中や、カールステン・ニコライ率いるRaster-NotonやベルリンのMegoの一派なんかだね。音響的に極めてシリアスな探究をしている彼らのことをずっとチェックしてきたので、そうした影響と、オーケストレーションされた音楽、とくにパーカッションへの偏愛を、このアルバムでは融合した、と。
ある意味ではそうなんだけど、僕自身「現代音楽・コンテンポラリーミュージック」ってことばを聞くと、ちょっと尻込みしちゃうんだよね。シリアスすぎるというか。むしろ字義通りに、「いまどきの作曲家」という意味で、そのことばを使えるといいかなと思ってるんだ。現代音楽と呼ばれてるジャンルの巨匠たちと並べて自分を考えるのは、ちょっと居心地が悪いんだ。自分がつくりたいと思う音楽をただつくっているだけなんで。そういう意味ではBATTLES以前から、そのスタンスは変わっていないよ。BATTLESにしても『セントラル・マーケット』にしても、ロックバンドだから簡単なことやってて、オーケストラだから高尚だみたいなことは思ってはいなくて、どのプロジェクトもある意味変わらない。出てくる音は違っていたとしてもね。
どうせわかってもらえない
リスクがあるんなら、
自分が追求したいことを
追求したほうがマシじゃない?
たしかにね。それは自分も気にはしてるんだ。やりたいことを自由に挑戦できる、そういう権利を自分にとっておくことはとても大事なことだけれども、それがリスナーを混乱させることはありだろうね。それはリスクではあるんだけれども、逆の見方をしたらどうなんだろう、とも思うんだ。つまり、やりたいことをやった結果伝わらないというリスクがある一方で、お客さんに合わせてより消化のしやすいものをつくってみたのに、結局リスナーには伝わらない、というリスクもありうるわけだよね?(笑)
そう。だからね、どうせわかってもらえないリスクがあるんなら、自分が追求したいことを追求したほうがマシじゃない? というのがぼくの考えなんだ。
ぼくもだいすきなレーベルなのでNonesuchからリリースできるのは、スーパー嬉しいよ。だいすきな作品が山ほどあるし、Nonesuchはある意味、ぼくみたいなアーティストをきちんと理解してくれる、唯一の、は言い過ぎかもしれないけれど、最大のレーベルであることは間違いないと思う。ぼくみたいな、というのはオーケストラ作品をつくったかと思うと、奇妙な電子音楽をつくるような、カテゴライズの難しい音楽家という意味で、それを許容してくれる彼らと一緒に仕事できるというのは本当にエキサイティングなことだよ。
複数ではあるけれど、結局は1枚ずつなんだ。レーベルとの契約ってのはそういうもんだよ。もちろん、継続的なつながりにしていきたいとは思っているけれど、やりながら、だね。他のプロジェクトもすでに動いているけれど、それも彼らとやれたらいいなとは思ってるよ。
そうだね。とはいえなにかプランがあるわけではなく、自分がやりたい気分になったらそこに戻ってこれるような、そういうプロジェクトにしておきたいと思ってるんだ。これだけをやっていく、というつもりはなくて、不定期のシリーズにしたいんだ。その感じがいいかな、と思ってるんだ。
動画サイトにあがってる動画は、お客さんが撮ったクオリティの低いものばかりで、ちょっとがっかりしてるんだ。ホントは素晴らしいライヴショーなんだけど、これらの動画だと、なんだか奇妙なものにしか見えないからね。世界中でやってきたものなんだけど、とても楽しい、いいショーなんだ。ま、いずれにせよ、このパフォーマンスは2013年にグッゲンハイムでプレミア上演されたもので、ヴィジュアル面についてはデンマーク人の建築家Uffe Surland Van Tamsというエキセントリックなヤツが、このパフォーマンス用の「ポッド」をデザインしてくれたんだ。2000年代にソロライヴをやっていた頃、ぼくは地べたに座って演奏をしていたんだけど、それだと、実際最前列のお客さんにしか演奏してるのが見えないんだよね(笑)。なので、あるときそういうショーを、ウーフが見に来てくれて、「オレがつくってやるよ」って言ってくれたんだ。それが、2013年のグッゲンハイムでのパフォーマンスへとつながっていったんだ。
3人のパーカッショニストとぼくともうひとりが電子音を担当するという編成だね。とはいえ、5人でショーをやるのはなかなか大変なのでツアーは難しいんだ。去年やったのはどちらかというとレジデンシーという感じで、インスタレーションとしてこれらのポッドを組んで、そこで複数回ショーを行うという感じだったんだ。単なるライヴとしてやるよりも、そのほうがこのプロジェクトに関しては向いてると思うんだ。ツアーという意味では、今回のアルバムのマテリアルをソロで演奏するやりかたになるんじゃないかと思う。
ポッドはもってこれないので、ソロショーになるかな。映像をつかったマルチメディアショーになるかなと思ってるけれど、まだ詳細は詰まっていないんだ。
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両方のコンビネーションなんだよね。といっても、作曲された部分は、どちらかというとモジュラーシンセの要素をパッチワークしたようなものだと思ってもらうといいかもしれない。それらの要素を演奏を通じて拡張していくんだけれども、それをかなりエディットしてもいるんだ。一方でパーカッションの演奏は、完全に譜面化されている。そこには即興はまったくないんだ。
そうなんだよ。ははは。
そう。彼女へのオマージュとなってるんだ。あちこちに飛びちるようなエネルギッシュな曲でありつつ、そのなかに、得も言われぬ柔らかさとうか、なんというか奇妙に土着的なところもあって、それがなんとなく彼女を想わせてくれるんだ。それで彼女のアダ名をタイトルにしたんだ。
音楽が先にあって、それと同時に面白いことばをタイトル候補としてリスト化したものもあるんだけど、多くの場合音楽が先にあって、それに見合うタイトルをつける感じだね。実際のところを言うと、この作品は、つくりはじめてみるまで、どんなサウンドのものになるのかぼく自身わかってなかったんだ。どこにたどりつくのかやってみないとわからない、というところからはじめたので、音楽自体が、この作品の性格を決定していき、その後からタイトルやコンセプトが付随していったという感じだね。
空間とナラティヴを共存させること。
それが『HIVE1』の
一番のチャレンジであり
ゴールだった。
たくさんあるよ。EPかなんかにして発表したいと思ってるくらいだよ。これらが収録されなかったのは、出来が悪いということではなくて、シークエンスにうまくハマらなかったからなんだ。
明確なストーリーというよりは、そこはかとないナラティヴがあるという感じかな。ダイナミクスがあって、聴き取ろうとすればそこにドラマ性すらあるかもしれない。どこかに向かっているという感じかな。電子音を扱っていて面白いのは、そこに空間というか環境をつくりあげることができるというところで、それをつくりながら、同時にナラティヴ性をもたらすということが、ある意味、この作品の一番難しいところだったかもしれない。空間とナラティヴを共存させること。それが一番のチャレンジであり、ゴールだったね。
うーん。いい質問だね。たしかにオーケストラをつかって空間・環境をつくることはできるんだけど、もうちょっと説明的になるような気がするんだ。字義通りのものになっちゃうというか。電子音を使った音楽とは、違った判断があるような気がするね。とくに最近は、記譜された音楽の領域に深く入っていたから、違った判断が必要になるというところが自分としては難しい点だったかな。
いまつくっているのは、ニューヨークのAlarm Will Soundというのチェンバー・オーケストラのためのもので、その次の作品は、まだ詳細は言えないんだけれども、自分がいままでつくったもののなかでは最大のオーケストラ用のビッグピースになる予定だよ。それも電子とオーケストラを融合したものになると思うんだけど、これまでのものよりも格段に大きなものになるはずだよ。
クラシック界も変わりつつあるのかもしれないね。というのも、ニューヨークにいるととくにそれが目につくんだけれども、コンテンポラリーなカルチャーとクラシック界との分断があって、クラシック界は、ほかの現代文化から自らを孤立させてしまっているように見えるんだ。そのせいで、名門と言われるオーケストラが倒産したりすることも珍しくなくなっているから、そんななかで、クラシック界ももう一度、自分たちが意味のある、つまりrelevantな存在となるための道筋を模索しているんだと思う。そういう状況は、ぼくみたいな音楽家にはとてもありがたい状況で、そうしたオーケストラのために喜んで作品をつくりたいと思っているよ。とはいえ、クラシック界も複雑だからね、ぼくとしては、オーケストラの音が好きなだけで、自分をクラシック界の人間だと思ったりはしないけれども、スポティファイの時代に、オーケストラがどんなふうに生き延びていけるのか気になるけれども、とはいえ、数百年も生き延びてきたわけだからね、これからも残っていくとは思うよ。
「セントラル・マーケット」をリンカーンセンターでプレミアしたときは、チケットはすぐに売り切れたし、レヴューも上々だったし、英国ではバービカンセンターやクイーンエリザベスホールで、BBC交響楽団と演奏したけれども、それも好評だったよ。これまでだったらこうした権威筋を説得して実現にいたるのは大変だったと思うけれども、やってみたら新しい興味を喚起できたし、うまくいくことがわかったから、こうやってコンテンポラリーな作曲家たちと協働していくことが続いていくといいなと思ってるよ。