デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

AIは敵か?/人類と機械の未来

 

「ヒトよりも知能の高い存在が現れること」は、そんなに恐ろしいことか?

 この記事では、超知能AIへの懸念がどれくらい妥当なものなのかを考察しましょう。AIを「正しく恐れる」ことはできるでしょうか?

 高性能なAIに対する恐怖は、大きく2種類に分類できるでしょう。

 具体的な恐怖と、漠然とした恐怖です。

 たとえば無人の攻撃ドローンが誤作動により間違った人物を殺害したり、自動運転車が事故の瞬間にトロリー問題(トロッコ問題)を上手く解けなかったり、医療用AIが誤診したり――。AIが高性能になり普及するほど、そういう事故が現実味を帯びます。これらに対する恐怖が、具体的な恐怖です。こうした危険性を抑えるために、アシロマAI原則のような指針が制定されたことには大きな意義があると思います。

 一方、「人間よりも賢い存在が生まれてしまうこと」に対して、漠然とした恐怖を抱いている人も多いようです。おそらく、この恐怖は「人類は地球上で最も知能の高い存在であり、知能の高さゆえに地球を支配することができた」という前提に基づいています。だからこそ、「もしもヒトよりも知能の高い存在が現れたら、私たち人類は支配者の地位を追われてしまうのではないか」という恐怖心に繋がるのでしょう。

 超知能AIの危険性を訴える人は、しばしばこの2つの恐怖を混同しているように私は感じます。果たして、後者は妥当な恐怖なのでしょうか? それともただのパラノイアにすぎないのでしょうか?

 

 

 

ヒトよりも高い知能?

 超知能AIの暴走を恐れる人は、「知能が高い」という表現をわりと乱暴に使っていると私は感じます。心理学者や生物学者であれば、知能の高さについて、もっと慎重な表現を使うでしょう。というのも、知能の高低は単一の指標で測れるようなものではないからです。

 たとえばIQは(他の認知能力と相関があるとされていますが)、あくまでも「IQテストを解く能力」でしかありません。IQの高さが、そのまま賢さを意味しているわけではないのです。

 その証拠に、IQの平均スコアは10年につき3点以上の割合で上昇してきたことが知られています。発見者の名前にちなんで、これは「フリン効果」と呼ばれています[39]。IQはテストの平均点を100とする指標です。新しい被験者が古いテストを受けると平均スコアが100を大幅に上回ってしまうため、しばしばテストの問題を改定して難しくする必要があるのです。

 フリン効果から逆算すれば、20世紀初頭の私たちの曾祖父母の世代は、大半の人が知的障害と診断されるレベルでIQが低かったことになります。もちろん、彼らが知的障害者だったわけではありません。学校教育の普及や、現代的な商習慣が広まったことなどにより、おそらく抽象的思考能力が高まったのでしょう。要するに、それまでは別のことに使っていた脳の部位を、IQテストを解くことにも役立つような機能のために使うようになったのです。

 言ってみれば「高い知能」は、「優れた肉体」に似た概念です。

 たとえば人間の運動能力を測定する「AQテスト」というものがあるとしましょう[40]。地球上で一番AQの高い人がいるとして、オリンピック競技のすべての種目で金メダルを総なめにできるとは思えません。競技ごとに、求められる運動能力の質が違うからです。重量挙げの金メダリストがマラソンでも1位になるのは困難でしょう。

 あるいは、陸上競技のランナーには喘息を持っている人も珍しくありません。それでも発作が出ていないときには高いパフォーマンスを発揮し、メダルを獲得する人がいます。彼は健康なのでしょうか? 「優れた肉体」の持ち主と呼べるのでしょうか?

 もしくは、ドナルド・トランプはどうでしょうか? 彼は運動嫌いでゴルフ以外のスポーツをしません。ジャンクフードや分厚いステーキが大好きだそうです。にもかかわらず、2018年に公開された彼の健康状態は70代とは思えないほど良好だったそうです[41]。トランプは人体生理学的な「超人」と呼んでいいでしょう。

 では、短距離走の金メダリストとトランプの、一体どちらが「優れた肉体」の持ち主だと言えるでしょうか?

 それを問うことに意味はありません。

 「優れた肉体」は、AQのような単一の指標で優劣を競えるものではないのです。

 

 そして、知能も同様です。

 解決すべき課題が明確なら、知能の高低を比較できます。「葉っぱの細くなっている部分を探す」という課題を解くことが得意なのはミミズとヒトのどちらなのかを比べることができます。しかし、そういう明確な課題を設定せずに、ただ漠然と「知識の高さ」を問うことには意味がありません。ウサイン・ボルトドナルド・トランプのどちらが「優れた肉体」かを問うくらい無意味です。

 

 じつのところ「超知能」に一定の定義はありません。

 知能そのものの定義も人それぞれなのですから、当然でしょう。

 ボストロムは「ありとあらゆる関わりにおいて人間の認知パフォーマンスをはるかに超える知能」と定義しています[42]。「優れた肉体」で喩えれば、オリンピックのあらゆる競技で金メダルを獲得し、喘息のような持病はなく、ジャンクフードを毎日食べても健康を害さないヒトのイメージでしょうか。

 明確な定義のように見えて、これも具体性を欠いています。フリン効果から分かる通り、「ありとあらゆる関わり」は時代によって変わるし、定義できないからです。

 たとえば鳥山明冨樫義博は(ただ絵が上手いだけでなく)ネームの天才です。見事なコマ割りによって、静止画がまるで動いているかのように読者に錯覚させます。優れたネームを切るためには、物語を映画のようなシーンの連続として思い浮かべるというタスクと、それをコマ割りに落とし込んで読者の錯覚を誘うというタスクを解決しなければなりません。これには知能が必要です。マンガを作ることにかけて、この2人が抜群の知能を持つことは疑いようがありません。

 問題は、もしも彼らが1947年よりも前に生まれていたら、この知能を活かせたかどうかです。現代日本のストーリーマンガの歴史は、手塚治虫の『新宝島』から始まりました。コマ割りによって読者の錯覚を誘い、まるで映画のような体験を紙の上の静止画で再現する試みが始まったのです。ストーリーマンガの誕生以前には、「優れたネームを切る知能」は何の役にも立たなかったかもしれません。

 同様のことは、歴史上のあらゆる天才に当てはまります。もしもエイダ・バイロンバベッジと同時代に生まれていなかったら? もしもアインシュタインニュートンよりも以前に生まれていたら? そしてニュートンが、ガリレオよりも先に生まれていたら――? 知能とは、複雑な課題に対して解決策を出力する能力です。課題が存在しなければ、それに対する知能も存在しません。

 要するに「ありとあらゆる」課題が解けるという定義は、(抽象的な思考実験では興味深いものの)具体的な議論の役には立たないのです。

 

 具体的に考えてみましょう。

 あなたがAIの開発者だとします。目の前にあるAIが「超知能」であることを証明したいと考えているとします。そのためには、そのAIが「ありとあらゆる」課題を解決できることを示さなければなりません。

 一方、将来どのような課題が生まれるうるのか、漏れなくすべて予測することは不可能です。たとえば1947年よりも前に、2024年の日本のマンガ業界がどうなっているか、ありうる可能性をすべて予測することはできなかったでしょう。そこには無限と言っていいほどのシナリオの分岐があるからです。

 将来生じうる「ありとあらゆる」課題を網羅して検証することができない以上、そのAIが「超知能」であることを証明することもできません。抽象的な思考実験を超えて具体的な議論をするためには、この定義では役に立たないはずです。

 

 似たような理由から、「AGI(※Artificial General Intelligence/人工汎用知能)はいつ誕生するのか?」という疑問も、あまり意味のある問いだとは思えません。AGIの定義が、論者によってまちまちだからです。

 おそらく、地球上の大半の入学試験や資格試験でトップレベルのスコアを取ったり、ビデオゲームを上手くプレイしたり、思いつく限りのタスクをこなせるようになった時点で、そのAIを開発していたチームが「AGIを作った」と宣言するでしょう。しかし、AlphaGOですら一種のバグ技を使って倒す方法が発見されました[43]。SNSではインプレゾンビを見分ける方法が発見され、瞬く間に共有されました。同様に、世界初のAGIもハックする方法がすぐに発見されてしまい、「思ったほどすごくないね」という感想になってしまう――。

 現時点で一番ありえそうなのは、そういうシナリオだと私は思います。

 

 

 

地球を支配?

「人類は地球上で最も知能の高い存在であり、知能の高さゆえに地球を支配することができた」という前提には大きな疑問符が付きます。とくに、最後の部分です。

 果たして、人類は地球を支配していると言えるのでしょうか?

 それはあまりにも人間中心主義的な物の見方ではないでしょうか?

 

 ヒトは未知の環境に適応する能力が、哺乳類の中では比較的高いといえます。また周囲の環境を自分に都合よく変える能力も、おそらく最高の部類に入るでしょう。結果として陸地のうち広大な面積の環境を変え、そこに住み着きました。環境の変化に脆弱な生物を、片っ端から絶滅に追い込んでいます。適応能力の高さと、周囲の環境を変える能力の高さゆえに、人類は地球を「支配」したと自惚れるようになりました。

 しかし、自分の生存に都合よく周囲の環境を変える生物は珍しくありません。

 ビーバーはダムを作って川の流れを変えます。カナダの山をトレッキング中のあなたがビーバーと出会ったとして、「川の支配者だ」と感じるでしょうか? 同じ木や川を利用する生物がごまんといるのに?

 あるいは、周囲の環境を自分に都合よく変えた生物の究極の例は、オーストラリアのシャーク湾にいます。シアノバクテリアが砂を堆積させた「ストロマトライト」という岩が並んでいるのです。かつて、光合成の能力を身に着けたシアノバクテリアが登場したことにより、地球は毒性の強い酸素で満ちた惑星に変わってしまいました。私たち真核細胞生物は、その環境に適応した結果として生まれたようです。もしもシアノバクテリアがいなければ、多細胞生物が生まれたかどうかさえ分かりません。彼らが地球環境に与えた変化は、人類の比ではありません。

 それでは今の地球を見て、「シアノバクテリアに支配されている」と感じるでしょうか?

 

 問題は「支配」という単語にあると私は思います。

「支配」という言葉は、人間社会の政治的な関係を意味する単語であり、自然環境について論じるときに使うのは適切ではありません。それは自然環境を擬人化しすぎています。

 私たちはいまだに地震の予報を出せず、感染症の流行を止められません。台風の進路を変えられません。アフリカや中東ではしばしばイナゴが猛威を振るいます。アメリカザリガニブラックバスのような有害な外来種を駆除することもできずにいます。必死の努力にもかかわらず、気候変動は解決の糸口が見えていません。

 人類が自然を支配しているというのは、あまりにも驕(おご)った考え方でしょう。

 

 

 

人類が地球を支配したのは、知能が高かったから?

 百歩譲って、人類が地球を支配しているという前提を認めたとしましょう。しかし、その理由が人類の「知能の高さ」かどうかには議論の余地があります。以前に書いた通り、ヒトは並外れた耐暑能力と長距離走の能力を持つ乳類です。考える葦――肉体的に脆弱な存在――ではありません。

 そもそも1匹ずつの個体レベルで見た場合、ヒトはさほど賢くありません。人類学者ジョセフ・ヘンリックは次のように述べています[44]

 何よりも意外なのは、特大サイズの脳をもっているにもかかわらず、人間はそれほど聡明ではないということだ。少なくとも、ヒトという種が地球上で大成功を収めている理由を説明できるほど、生まれつき賢いわけではない。

ジョセフ・ヘンリック『文化がヒトを進化させた』
白揚社、2019年)

 たとえば平均的な現代日本人を捕まえてきて、たった1人でアフリカのサバンナに放り出したらどうなるか想像してください。道具と呼べるものは、身に着けた薄い衣服だけ。この条件でその人が1週間後まで生き残っている可能性は、10%もないと私は思います。

 まず安全な飲み水を確保するだけでも難題です。夏ならば暑さをしのぎ、冬ならば寒さに耐えなければなりません。当然、危険な肉食獣や毒蛇、毒虫から身を守る必要があります。水と寝床が確保できたら、次は食べ物です。毒のない草や根を見分け、罠を仕掛けて小動物を狩り、火をおこして調理しなければなりません。

 一体、どうやって――?

 くどいようですが、知能とは複雑な課題を与えられたときに、その解決策を出力する能力です。もしもヒトが充分に高い知能を持っているのなら、これらの難題も楽勝で解決できるはずです。しかし実際には、現代日本人がこんな過酷な状況に置かれたら、十中八九、サバイバルに失敗して野垂れ死ぬでしょう。

 捕まえてきたのが南極のペンギンなら、サバンナで死ぬことに不思議はありません。ペンギンは全く違う環境で進化して適応してきたからです。しかし、ヒトの出身地はアフリカのサバンナにほかなりません。自らが進化適応したはずの環境にもかかわらず、ヒトは1人では生き延びられないのです。

 1人でダメなら、人数を増やせばいいのでは?

 そんな考えが頭をよぎりますが、残念ながら答えはノーです。ただ人数を増やしただけでは、事態はさほど改善しません。

 1845年、イギリス海軍のHMSエレバス号とHMSテラー号が北極圏に向けて出帆しました[45]。これは当時のアポロ・ミッションとでも呼ぶべき探検であり、2隻には5年分の食糧と海水を蒸留して淡水化する装置、1500冊の書籍が積み込まれ、100名を超える乗組員が参加しました。ところが艦隊はたびたび氷に閉じ込められて遭難状態になり、1848年4月には船を捨てざるをえない状況に陥りました。乗組員たちは人肉食を行うほどの飢餓に追い詰められ、やがて全滅しました。

 興味深いのは、彼らが遭難した地域にはイヌイットたちが暮らしていたことです。もしも彼らが充分な知能を持っていたのなら、イヌイットと同様にアザラシを狩る方法を見つけて生き延びることができたはずです。しかし当時の先進国であるイギリスを出発し、当時の最先端の科学技術で装備を固めていた彼らは、100人がかりで考えても「北極圏で暮らす」という課題を解決できなかったのです。

 

 ヒトは大して賢くないという話題で私がお気に入りなのは、「カラスにタバコの吸い殻を拾わせる実験」の話です。

 ヨーロッパでは、町の清掃活動をカラスに担わせるため、「タバコの吸い殻を入れると少量のエサが出る装置」を設置する実験がたびたび計画・実行されているのです。2017年にはオランダのCrowded Citiesというスタートアップが[46]、2018年にはフランスのテーマパーク「ピュイ・ドゥ・フー」で[47]、2022年にはスウェーデンのスタートアップCorvid Cleaningが[48]、それぞれ似たようなプロジェクトを発表しました。

 要するに、バカな人間にポイ捨てをやめさせるよりも、賢いカラスに吸い殻拾いを教えるほうが簡単(?)なのです。

 ここまでなら笑える小話です。が、本題はここからです。

 実際、カラスはかなり知能の高い動物です。教わらなくても独創的な解決策を発見することができるし、学習することができます。たとえば読者の中にも、カラスが自動車にクルミの殻を割らせるシーンを目撃した人がいるでしょう。クルミの中身を食べるために、しばしばカラスは車道にクルミを置きます。そして自動車にクルミを踏ませて殻を割り、中身を食べるのです。

 言うまでもなく、カラスの進化した太古の森に自動車は走っていませんでした。これは遺伝的にプログラムされた本能的な行動ではありえません。カラスたちが後天的に発見した方法であるはずです。

 もしもあなたがカラスに生まれ変わったとして、「自動車に踏ませればクルミを割ることができる」という解決策を思いつけるでしょうか?

 ……たぶんできる?

 なるほど、たしかにあなたは賢いヒトです。できるのでしょう。

 では、あなたが人生で出会った中で最も愚かな(しかし知的に障害があるわけではない)ヒトを思い浮かべてください。中学生の頃の一番バカな同級生でしょうか。あるいは、大声で部下を叱るだけで解決策を提案しない無能な上司でしょうか。そして、その人がカラスに生まれ変わったところを想像してください。

 その人は、果たして「クルミの割り方」を思いつけるでしょうか?

 もしも答えがノーなら、最も愚かな人間は、最も賢いカラスよりも知能が低いことになります。

 

 知能は1つの尺度では測れないという先ほどの話にも繋がりますが、ヒトは決して「ありとあらゆる」課題で他の動物よりも優れた知能を示す動物ではありません。たとえば経済学で定番の「最後通牒ゲーム」をチンパンジーにやらせると、ヒトよりもずっと上手く(つまり経済的合理性に従って)問題を解くことができます[49]

 すでにヒトの四則計算の能力は、ポケット電卓よりも劣っています。チェスではディープブルーに劣り、囲碁ではAlphaGOに劣っています。DeepLほど多様な言語を翻訳できるヒトはいないでしょう。あるいは超音波を頼りに障害物を避けながら移動する課題なら、コウモリのほうが上手く解決できるでしょう。嗅覚を頼りに世界を認識する能力はイヌのほうが優れているでしょう。オウムよりも音痴なヒト――音楽を記憶して、状況に応じて再現する知的能力――に劣ったヒトは珍しくないでしょう。個別の能力では、ヒトよりも優れた知能の存在などありふれているのです。

 たしかに月面に同胞を送り込み、インターネットを敷設した動物は地球上でヒトだけです。

 しかし、これは知能の高さによるものではありません。

 集合知の力によるものです。

 

 

 アフリカに放り出された日本人の話に戻りましょう。

 もしもその人の手元に、簡単な『サバイバル・マニュアル』のような本があったらどうでしょうか? 安全な水の集め方や、シェルターの作り方、火のおこしかたなどが一通り書いてある書籍です。もしもそういう本があれば、1週間後の生存率は大幅に上がるはずです。

 あるいは、北極圏のイヌイットについて考えてみましょう。ヒトの脳のアーキテクチャはほぼ同じなので、彼らの知能は遭難したイギリス人と大差なかったはずです。

 イヌイットとイギリス人の違いは、文化にありました。

 北極圏に先祖代々暮らしていたイヌイットは、その地で暮らすための膨大な知識を蓄積していました。アザラシやシャケの狩り方、カヤックの作り方、クジラの皮下脂肪から燃料を得る方法、防寒着の作り方、氷を溶かして真水を得る方法など、年長者から年少者へと脈々と知識を受け継いで、増やしてきたのです[50]

 哺乳類の中で、ヒトは未知の環境に適応する能力が高い方です。しかし、それは集合知の力を借りることができるからです。また、ヒトは周囲の環境を自分に都合よく変化させる能力にも優れます。しかし、こちらも集合知の力であり、それを可能にする言語の力なのです。

 もちろん文化や言語を持つ動物は、ヒトだけではありません。しかし共有できる情報の質と量では、おそらくヒトの言語は頭1つ飛び抜けています。集団内の誰か1人でも優れた解決策(アザラシが呼吸する氷の穴の前で待っていればいい! とか)を思いついたら、それをすぐさま集団内で共有できます。さらに、世代を超えてその解決策を継承できます。

 簡単な思考実験をしてみましょう。1人のヒトが人生でたった3個しか優れたアイディアを思いつけないとしましょう。それでも、30人の集団なら90個のアイディアを利用できます。集団のサイズがまったく増えないという悲観的な想定でも、それが40世代(約1000年)続けば利用できるアイディアは3600個まで増えます。もしも言語がなければ最低でも1200世代かかる解決策のパッケージを、わずか40世代で蓄積できる計算です。

 ヒトの言語は、いわば生物の世界における「シンギュラリティ」でした。他の生物なら数世代~数十世代かかる変化を、わずか1世代のうちに経験できるようになったのです。

(※ボストロムもヒトの集合知の力は認識しており、これに言及するときには歯切れが悪くなっている。彼は、ヒトが地球上で最も高い知能を持っていると主張するために、ヒトと同等の認知能力を示す動物はいないと論じている[51]。しかし、認知能力は、知能ではない。認知能力と知能には相関や影響があるだろうし、認知能力から知能の高さを間接的に調べることもできるだろう。が、知能そのものではない。動物の認知能力は、その動物の生態に応じて進化する。エコーロケーションを行うイルカが、視覚に頼るヒトとは違う認知能力を示すのは当然だ。ドミナンスにより社会階層を作る乱婚制のチンパンジーが、プレステージを用いて社会階層を作る一夫一妻制のヒトとは違う認知能力を示すのは当然だ。そして、それらの違いは、知能の高低と直接には関係ない。)

 

 人類は、地球上で最も知能の高い存在ではありません。「知能の高さ」という概念は、もっと慎重に扱うべきです。

 また、人類は地球を支配していません。未だに自然現象に翻弄され、地球の物質循環の中で暮らしています。

 さらに、人類が高い適応力と環境を変える力を手にしたのは、知能の高さによるものではありません。集合知の力によるものです。

 したがって、「もしもヒトよりも知能の高い存在が現れたら、私たち人類は支配者の地位を追われてしまうのではないか」という漠然とした恐怖には、合理的な理由がありません。すでにヒトよりも知能の高い存在などありふれているし、人類は支配者ではないし、仮に地球を「支配」できるとしても、必要なのは知能の高さではないからです

(※余談だが、古代ローマ元朝モンゴル、大英帝国――。世界征服に近づいた歴史上の国家を思い浮かべて欲しい。これらの国々が支配を確立できたのは、指導者や国民が「超知能」だったからではない。大抵のケースで、知能の高さよりも、軍事力の高さが重要だったように思える。)

 

 

 

超知能AIはサタンか?

 これは論理的な議論ではなく、ただの感想にすぎないのですが――。

 超知能AI脅威論には、インテリジェント・デザイン論に似たものを感じます。

(※生物や宇宙の複雑さや緻密さは自然現象によって無目的に生まれたものではなく、知性ある何らかの存在によって意図的にデザインされたものだとする主張。)

 もちろんインテリジェント・デザイン論は、事実に即さず論理的にも矛盾をはらんだ疑似科学です。一方、超知能AI脅威論は、一応は科学技術の延長線上にあります。これらを同列に扱うことは、あまりにも乱暴です。

 しかしながら、そこには似ている部分もあります。インテリジェント・デザイン論は科学っぽい言葉で彩られているものの、根底には福音主義があります。『創世記』に登場する「神」を、宇宙のどこかにいる「知的な存在」と言い換えただけです。同様に、超知能AI脅威論も、キリスト教の説教に登場する「サタン」や「悪魔」を、「超知能」と言い換えただけではないか――。

 そういう印象を抱く記述を、しばしば見かけるのです。

 

 陰謀論者は、しばしば「〝サタンの計略〟論法」とでも呼ぶべき議論をします。

 たとえば地球平面論を考えてみましょう。世間に広まっている地動説や地球球体説は嘘であり、本当の地球は平面で宇宙の中心にあるという主張です[52]。地球平面論には長い歴史がありますが、近年では2010年代末ごろからYouTubeを中心に、カルト的なコミュニティが広がりつつあります。地球平面論者の中でもとくに福音主義的な人々は、サタンが神の名前を汚すために真実を隠しているのだと主張しているようです。

 彼らの主張が正しいとしたら、学校の教師やテレビの自然科学番組は嘘を教えていることになります。指導的立場にある科学者たちによって騙されているわけです。望遠鏡などの実験器具を揃えれば、一般家庭でも地球が球体であることを確かめられるでしょう。しかし、実験器具メーカーもサタンに操られているかもしれません。だとすれば、地球が球体だという結果が出るように、実験器具を細工しているでしょう。

 合理的に考えれば、そこまでコストをかけて真実を隠す動機が分かりません。

 また、そこまでのコストを負担できる者がいるとも思えません。

 しかし、これが〝サタンの計略〟なら、それらの合理的な質問に回答できます。サタンは神の名を汚したいという底なしの欲望を持つからです。サタンにはヒトの心を操る底なしの能力があるからです。サタンは底なしに邪悪だからです。

 このように「底なしの能力を持つ存在」を仮定すると、議論から反証可能性が失われます。たとえば「ジャイロスコープを使えば地球の自転を検証できるし、平面ではないことを証明できる」という反論に対して、「サタンには底なしの能力があるので、実験器具メーカーを操ってジャイロスコープに細工できる」と言い逃れできます。底なしの能力を前提にすれば、あらゆる反論を無効化できるのです。

 私はこれを「〝サタンの計略〟論法」と呼んでいます。

(※同じことは「ディープステート(闇の政府)」陰謀論にも当てはまる。どれほど荒唐無稽で非合理的な主張でも、ディープステートを「底なしの能力を持つ組織」と仮定すれば辻褄を合わせることができてしまう。)

 

 では、超知能AI脅威論はどうでしょうか?

「ペーパークリップAIは、必ず停止スイッチを無効化するはずだ。なぜならヒトよりもはるかに賢いので、ヒトがどんなに努力して停止スイッチを守ろうとしても、必ずヒトの裏をかく道を発見するはずだからだ」

「ペーパークリップAIは、必ず研究所を脱出してクラウド上のコンピューターに逃げ出すはずだ。なぜならヒトよりもはるかに賢いので、ヒトがどれほど努力して閉じ込めようとしても、必ず脱出路を見つけるはずだからだ」

「ペーパークリップAIは、必ず核兵器の管理システムをハッキングして手中に収めるはずだ。なぜならヒトよりもはるかに賢いので、ヒトがどれほどセキュリティを厳重にしてもハッキングに成功するはずだからだ」

「ペーパークリップAIは、自分が人類にとって危険な存在であることを最後の瞬間までひた隠しにするはずだ。なぜならヒトよりもはるかに賢いので、ヒトを騙すこともお手の物だからだ」

 いかがでしょうか?

〝サタンの計略〟論法に、危険なほど近付いていないでしょうか?

 一部の超知能AI脅威論は、超知能AIを「底なしに賢い存在」として想定しているがゆえに、反証可能性が損なわれているのです。そしてカール・ポパーの言う通り、反証可能性のない主張は、科学的な主張とはいえません[53]

(※余談だが、AIがヒトを騙すことに長けているというシナリオに私は懐疑的だ。マキャベリ知性仮説(※第1章参照)に基づけば、ヒトの脳には「嘘をつくこと/それを見破ること」に特化したアーキテクチャが存在する可能性が高い。コンピューターの画像認識が難しかったのと同様、コンピューターに巧みな嘘をつかせることにも技術的困難が伴うだろう。たしかに現在のLLMは頻繁にハルシネーションを起こし、嘘をつく。しかし、いまだに稚拙で、すぐにバレる嘘しかつけない。……とはいえ、その稚拙な嘘に騙される人間が多いことも、頭の痛い問題なのだが。)

 

 

 もしかしたら超知能AI脅威論の根底には、キリスト教における「生命体の序列」の宇宙観があるのかもしれません。たとえ無神論者や不可知論者であっても、幼い頃に教わった宇宙観から逃れるのは難しいものです。この宇宙には唯一神が君臨しており、人類は地上で最も優れた存在として作られた――。そういう宇宙観を内面化している人は、「人類よりも賢い存在が現れる」というシナリオに漠然とした恐怖を抱くのかもしれません。

(※超知能AIの脅威を訴える人は、ひと足先に超知能となったAIが「シングルトン(唯一無二の存在)」になるシナリオ[54]を検討しがちだ。人類よりも賢いAIが多数現れて共存するという「多極化シナリオ」の考察には、あまりページが割かれない。この辺りにも、私はアブラハム宗教の影響を感じる。彼らが検討しているのは、言ってみれば人類が「唯一神」を作ってしまうシナリオであり、「八百万の神々」を作るシナリオではない。)

 私の生まれ育った日本では、神道と仏教が文化的に大きな影響力を持ちました。アニミズム信仰である神道も、仏教の土台となったインド神話も、いずれも多神教です。私自身は不可知論者であり、逆立ちしても信仰心が強いとは言えません。それでも、幼い頃から触れてきた多神教の宇宙観の影響から逃れられずにいると感じます。

 日本は、〝八百万の神〟の文化圏です。

 イソップ物語ではずる賢い存在として描かれるキツネは、日本では神の使者です。身近な草木や動物を祀る神社が日本には多数存在します。中にはトイレの神様を祀る神社や、電気の神様を祀る神社まで存在します。要するに、ヒトよりも強い力を持つ優れた存在が、この世界には満ち溢れているという宇宙観が日本にはあるのです。

 ミダス王問題は、もはや空想ではありません。超知能AIに対する具体的な恐怖なら、私も感じます。しかし、ヒトよりも賢い存在が生まれてしまうことに対する漠然とした恐怖は、私は抱きません。その背景の一番深い場所には、宇宙観の違いがあるのかもしれません。この宇宙にヒトよりも優れた存在がすでにたくさんいるのなら、そこに「超知能AI」が加わったところで大した違いはないからです。

 そして、ヒトよりも優れた存在など珍しくないというのは宗教的信仰ではなく、事実です。

 ヒトは1人ではサバンナを生き抜けないほど愚かなのですから。

 

 もしもあなたが「自分は世界で一番賢い」と思っているのなら、「自分よりも賢い存在が登場すること」に恐怖を覚えるかもしれません。今までの人生で自分よりも賢いヒトに出会ったことがないのなら、そして、周囲のヒトはバカばかりだと感じて生きてきたのなら、「自分よりも賢い存在」に脅威を覚えるでしょう。

 しかし、そこまで自惚れた人はさほど多くないと思います。

 あなたはいかがでしょうか?

「あなたよりも賢い人を思い浮かべて欲しい」と言われたら、何人も名前を挙げることができるはずです。ガリレオニュートンダーウィンのような歴史上の偉人だけでなく、日常生活の中でも「このヒトは私よりも賢い」と感じる相手と出会ったことがあるのではないでしょうか?

 特定の専門分野では高い知能を示すヒトでも、専門外ではポンコツになることが珍しくありません。私たちは「自分よりも賢いヒト」に囲まれて暮らしています。しかし、「賢さ」を理由に恐怖を抱くことは滅多にありません。

 たとえばあなたは、プーチン金正恩、あるいはアメリカ合衆国大統領に恐怖を抱くことがあるかもしれません。しかし、その理由は彼らが核兵器の起動ボタンを押せる立場にあることであって、彼らが「賢いから」ではないはずです。

 

 

 

ダーウィンを超えるAIの作り方

 あらゆる課題でヒトを上回る「超知能AI」は、そもそも定義があやふやだというのが私の立場です。一方、もしもニュートンダーウィンアインシュタインと同等のブレイクスルーをもたらすAIが現れたら、おそらく世間では「超知能AI」と呼ばれるでしょう。

 では、そのようなAIは作れるのでしょうか? 「画期的な科学理論を生み出す」という課題でヒトを上回るAIを作れるとしたら、どんな方法になるのでしょうか?

 ここからはSF的な想像力を働かせてみましょう。

 

 科学とは絶対的な真実の体系ではありません。現時点で一番もっともらしい仮説の体系です。「もっともらしさ」のことを「蓋然性」とも呼びます。

 たとえば現在の物理学者の大半は、定常宇宙論よりもビッグバン宇宙論を支持しています。現在の生物学者はほぼ例外なく、創造論よりも進化論(自然選択説)を支持しています。しかし、彼らはビッグバン宇宙論や進化論を信じているのではありません。それらの仮説のほうがもっともらしいと考えているのです。

 現在の理論を否定する明白な証拠が見つかったら、科学者たちはそれを捨てます。そして、新しい理論を作ります。たとえば生物学者リチャード・ドーキンスは、進化論の普及に努めている無神論者です。その彼ですら、もしもデボン紀カンブリア紀の地層から哺乳類の化石がわんさと発掘されたら、現在の進化論は一瞬にして瓦解すると述べています[55]。(だからこそ、進化論は反証可能性のある科学的な理論だとも言えます)

 

 ややこしくなるのはここからです。

 ビッグバン宇宙論は、定常宇宙論よりも蓋然的です。しかし、それがどのくらい蓋然的なのかを正確に説明できる物理学者はまず見つかりません[56]。蓋然性の強さを客観的に評価して、具体的な数値として比較する方法が、まだ見つかっていないからです。

 ざっくり言えば、最も蓋然的な仮説とは、既知のすべての証拠を最も矛盾なく説明する仮説のことです。この「すべての証拠」というのが曲者なのです。

 人間の記憶力には限界があるので、既知のすべての証拠を知っている科学者は存在しません。それぞれの専門分野では豊富な知識を持っているものの、1人の生物学者が生物学のすべての知識を身に着けることは現実には不可能です(※生物学と生物医学の分野だけでも、現在では毎年40万件の新しい研究が発表されている[57]。)。もしも現在の理論を否定する大発見があれば(カンブリア紀の地層からウサギの化石が見つかるとか)、科学者のコミュニティでは大ニュースとして瞬く間に広まるでしょう。そういうニュースが届かない以上、今のところは現在の理論が一番もっともらしいようだ……と判断するほかありません。つまり個々の科学者の能力ではなく、科学者のコミュニティの集合知によって蓋然性を評価しているのです。

 さらに、証拠の「数」はさほど当てになりません。過去の実験結果を巨大なデータベースにまとめて、その何%に合致するからこの理論の蓋然性は何%だ……という評価方法は当てにならないのです。カンブリア紀の地層からたった1つでもウサギの化石が見つかれば、進化論は大ダメージを負います。証拠の数よりも「重み」が重要なのです。

 仮説の蓋然性を具体来な数値として評価するためには、「既知の証拠をすべて網羅すること」と「証拠1つひとつの重みを評価すること」が必要です。これは1人のヒトの脳で行える処理の限界を超えています。だからこそ、科学者たちの集合知が重要になるのです。心理学者スチュアート・リッチーは「科学は社会的に構成される概念である」と評しています[58]

(※これは、科学はあやふやで信頼できないという意味ではない。むしろ多数の専門家を納得させるという集合知の営みこそが、科学の信頼性を高めている。)

 

 しかし、AIならどうでしょうか?

 1人の人間では把握不可能なほどの膨大な知識を網羅し、そこから何らかの結果を出力することは、現在の生成AIが最も得意としている分野の1つではないでしょうか?

 じつのところ、AIに科学理論の蓋然性評価をさせるという試み自体は、以前からあったようです。古式ゆかしいエキスパート・システムでは、それは失敗に終わりました[59]。しかしディープラーニングに基づく現在のAIなら、可能性は大いにありそうだと私は感じます。

 

 仮説の蓋然性評価ができるAIが作れたなら、ダーウィンを超えるAIまであと一歩です。

 評価してほしい仮説を人間が提案するだけでなく、AI自身に生成させればいいからです。

 ダーウィンの進化論(自然選択説)は、決して無から生み出されたわけではありません。彼はむしろ既存の様々なアイディアを取り入れて、「組み合わせ創造性」を発揮しました。

 ダーウィンは、マルサスの『人口論』を知っていました。祖父やラマルクなどの、先駆的な進化論者の主張を知っていました(※ダーウィンの父方の祖父は進化論者としても有名だった。)。チャールズ・ライエルの斉一説を知っていました。さらに、親しく交流していた従兄のヘンズリー・ウェッジウッド言語学者であり、印欧語のアルファベットの系統分岐を研究していました[60]。加えて、園芸家や観賞用の鳩のブリーダーとも交流がありました。

(※ダーウィン自然選択説の解説書を書くために、これらブリーダーとの交流を図った。以前紹介したフジツボの研究にも当てはまるが、このあたりは「探索的創造性」を発揮したといえるかもしれない。)

 自然選択説は、これらのアイディアの組み合わせによって生み出されたのです。

 ただし、ダーウィンはここで「生命は神が作った」という極めて重要な仮説を無視しました。この点は、「革新的創造性」を発揮したといえるでしょう。つまりダーウィンを超えるAIを作るためには、仮説の生成と蓋然性評価だけでは足りず、不要な仮説をしばしば無視するという機能も必要になるかもしれません。

 

 話をまとめましょう。

 以前書いた通り、「組み合わせ創造性」なら現在のAIにもすでに備わっています。「新たな仮説の生成」と「その仮説の蓋然性評価」を繰り返すだけでも、「ダーウィン並みのAI」に大きく近づくことができそうです。そして、新しい仮説の生成時に「一定の頻度で既存の仮説を無視する」という機能を組み込めば、それはおそらく、ダーウィンを超えるAIになります。

 そのAIは、ボストロムのいうような「超知能」ではありません。

 仮説生成と蓋然性検証を機械的に繰り返すだけです。

 そのAIは、主観的経験を持つ必要はありません。もちろんペーパークリップを作る必要もありません。それどころか、自分が生成して検証している仮説が何を意味しているのかを、理解している必要すらありません。哲学者ダニエル・デネットのいう「理解力なき有能性」そのものです[61]。人間のような理解力を有しない機械でも、人間を超える斬新な科学理論を生み出すことは可能であるはずです。

 ダーウィン自然選択説を思いついてから『種の起源』を発表するまでに、約20年を要しました。証拠をしっかり固めて説得力のある理論として練り上げるために、それほどの時間がかかったのです。しかし、網羅的なデータセットにアクセスできるAIなら、同じことをはるかに高速でできるかもしれません。仮に24時間でできると仮定したら、単純計算で1年間で人間が研究した場合の7300年分の科学の進歩を達成できることになります。

 もしもそんなAIが作れたら、おそらくマスメディアは「超知能が誕生した」と報道するでしょう。このAIは仮説生成と蓋然性評価をしているだけで、決して「ありとあらゆる」課題を解けるような存在ではないのですが。

 

 

 

AIと人類の共進化

 ヒトはアフリカのサバンナで、長距離ランナーとして進化しました。しかし、大きな謎が1つあります。大量の汗をかくことで地球上で最も暑さに強い哺乳類になったにもかかわらず、ヒトは一度に飲める水の量があまりにも少ないのです。

 ロバは3分間で20リットルの水を飲めます。ラクダは10分間で100リットルの水を飲めます。一方、ヒトは胃の大きい人でも一度に2リットルも飲めればいいほうでしょう。体重差を考慮しても、飲める量は少ないといえます。それどころか、水を飲みすぎると「水中毒」に陥ってしまいます。

 この謎の答えは、おそらく「水筒があったから」です[62]

 ヒトが長距離走行に適したプロポーションを手に入れたのは、ホモ・エレクトスの時代でした。その頃までには、大量の水を飲んで体内に貯えておくという身体機能を、テクノロジー(水筒)によって肉体から外部化していたのです。その状況証拠として、ひょうたんは栽培作物の中では抜群に歴史の古いものの1つであり、原産地は(いくつか候補があるものの)アフリカ説が有力です。

(※ジョセフ・ヘンリックは水筒だけでなく、水場探しのノウハウなどの集合知の影響もあっただろうと推測している。)

 

 ヒトは、自然環境との相互作用のみで進化してきたのではありません。

「ヒト・自然環境・テクノロジー」という三者の相互作用の中で進化してきたのです。

 たとえばヨーロッパ系のヒトには青や緑の瞳を持ち、金髪の人々がいます。このメラニン色素が少ないという遺伝的形質は、バルト海周辺が発祥です。およそ6000年前から当地では農耕が始まり、人々は食料をもっぱら農作物に頼るようになりました。魚を始めとしたビタミンDを豊富に含む食品を、あまり食べなくなったのです。結果、日照時間の短いこの地域では肌色の暗いヒトはビタミンD欠乏症になるリスクが高まり、メラニン色素の薄いヒトが繁殖上有利になりました。こうして、メラニン色素を薄くする遺伝的形質が、この地域の人々の間で広まっていきました[63]。農耕というテクノロジーがなければ、この形質は選択されませんでした。

 あるいは「はじめに」で触れた、牛乳を飲める体質も象徴的です。哺乳類は「乳糖不耐症」がいわばデフォルト設定で、大抵の種では大人になると乳汁(に含まれる乳糖)を消化できなくなります。しかしヒトは酪農を始めたため、大人になっても乳汁を飲み続けられる遺伝的形質が有利になりました。乳糖耐性遺伝子の発祥地は1つではなく、世界の複数の場所で独自に生まれたようです。このうち、最も古いものはアフリカです。次がヨーロッパで、1万250~7450年前に生まれました。最も新しいのはアラビア半島発祥のもので、5000~2000年前です。これは、当地でラクダの家畜化が進んだ時期と重なります[64]。酪農というテクノロジーがなければ、この形質は選択されませんでした。

 バルト海周辺で農耕が始まった6000年前も、アラビア半島で畜乳を飲める大人が登場した5000~2000年前も、数百万年という人類の歴史から見ればごく最近です。

 

 私が中学生だった四半世紀前には、「人類はもう進化しない」という仮説をしばしば目にしました。「ヒトは科学技術により衣食住を満たしたので、もはや選択圧がかからず、進化することもない」という論理です。この仮説が、学校の図書室の図鑑やテレビの自然科学番組で紹介されていた記憶があります。

 しかし大学生になり生物学科に入ってみると、そんな仮説を支持している教員はほぼいませんでした。衣食住が満たされたからといって、選択圧が失われるとは限らないからです。また、色素の薄い遺伝的形質やアラビア半島の乳糖耐性遺伝子から分かる通り、進化は意外なほど短期間で進みます。このことも、ヒトはもう進化しないという仮説の説得力を失わせます。

 ヒトは、今この瞬間にもダイナミックに進化し続けているのです。たとえば人工授精などの生殖医療のみで繁殖する集団を、(他惑星のコロニーに入植させるとか恒星間移民船に乗せるとかして)他の集団から切り離して遺伝的交流を断てば、おそらく数世代で「生殖医療に頼らなければ繁殖できない集団」が現れるでしょう。

 生物は変化し続けるし、進化し続けます。それはヒトも例外ではありません。

(※余談だが、優生学の問題点はヒトの品種改良ができないことではない。何が「優れた形質」なのか予測できない点である。たとえば肥満になりやすい遺伝子は、飢餓の多い環境では優れた形質かもしれない。鎌形赤血球貧血症の遺伝子は、マラリアの多い環境では優れた形質である。現代日本では大きくパッチリした目が美しいとされがちだが、平安時代には細く切れ長な目のほうが美しいとされた。このように「優れた形質」は環境および時代によって変わるため、遺伝的多様性をできる限り幅広く保つことが、人類の絶滅を防ぐためには重要な戦略になる。優生学は倫理的に問題があるだけでなく、科学的にも間違っている。)

 

 

 人間とAIとの対立・競争という図式で物事を考える人は、プラトン主義的な人間観を持っているように私には思えます。

 たとえば「完璧な正三角形」や「完璧な円」を作図することはできません。どれだけ正確な作図器具を使っても、ごくわずかな歪みや誤差が生じます。それゆえプラトンは、現実世界は洞窟の壁に映った影のようなものだと主張しました。「完璧な正三角形」や「完璧な円」は、空想上の抽象的な世界――形而上の世界――にしか存在せず、現実世界はその影にすぎないと彼は考えたのです。

 同様に、形而上の世界に「平均的な人間」のモデルが存在し、現実世界の人間はその影にすぎないという考え方をしている人がいるようです。ヒトには個人差があります。手足の長さも肌の色も、得意な知的課題も違います。プラトン主義に基づけば、それら個人差は影の揺らぎにすぎません。この考え方では、どれだけ世代を重ねても「人間」が進化することはありません。形而上の「平均的な人間」に回帰していくはずだからです。

 人間は不変である――。

 この素朴な発想を、私はプラトン主義的な人間観と呼んでいます。

 発明家・未来学者のレイ・カーツワイルを始め、数ある未来予想のなかに「ヒトと機械が融合するシナリオ」を挙げる人は珍しくありません。興味深いのは、彼らの掲げる「融合」が、人体の特定の部位(とくに脳)を機械に置き換えるというサイボーグ化に偏っていることです。あるいは、遺伝子工学で「強化人間」を作るシナリオも同様です。用いるテクノロジーが電子工学なのか遺伝子工学なのかという違いがあるだけで、「人間は本質的に不変である」だからこそ「テクノロジーを使って変える」という発想に基づいています。

 要するに(ヒトを含む)すべての生物が持つ「変わりやすい」という性質を無視しているのです。

 

 しかしヒトには、驚くべき適応力があります。遺伝的なレベルで変わりやすいのはもちろん、個人レベルでも高い冗長性があります。

 たとえば1920年生まれの私の祖母は、最後まで銀行のATMの使い方を覚えませんでした。彼女が現役だった20世紀半ばには、必要ないスキルだったからです。代わりに彼女は、洋裁教室を開けるほどの洋裁のスキルを持っていました。祖母が洋裁のトレーニングを始めた時代には、まだ足踏みミシンが現役だったそうです。21世紀の現在、足踏みミシンを扱うスキルの持ち主がどれほどいるでしょうか?

 あるいは私は、中学生の頃からタッチタイピングに親しんできました(※セガの『The Typing of the Dead』というゲームのおかげである。)。まったくキーボードを意識せずに文章を打てるので、私の脳内には、まず間違いなく「タッチタイピングに特化した回路」が存在するはずです。しかし将来、脳波の研究が進んで念じるだけで文章を打てるようになったら、この技能を持つ人間はいなくなるでしょう。私たちの孫世代からは「物理的なボタンを使うなんて、なんて原始的なんだ!」と驚かれるかもしれません。

 ヒトの持つスキルや知識は、その人の生きる時代や環境に大きく左右されます。そして技能や知識が違えば、それを土台とする知能も大きく変わります。先述の「フリン効果」はその証拠でしょう。

 したがって、将来AIが普及した時代にも同じことが起きるでしょう。

 「AIの存在する環境」に、人間の側が適応していくはずです。

 

 AIが満ち溢れた時代の具体的な日常生活の予想は、SF小説に道を譲りましょう。生成AIの普及が始まった現時点でそれを予想するのは、蓄音機の発明された19世紀末の時点で、マイケル・ジャクソンの活躍する時代の音楽産業を予想するようなものです。あるいは写真が発明された時点で、Instagramの登場を予想するようなものです。

 将来の生活がどうあれ、AIは人間性を奪うどころか、むしろそれを明確化させるだろうと私は予想しています。写真の登場によって、印象派キュビズム、フォービズムのような「人間にしかできない表現」が追及されたのと同様のことが、この世界のあらゆる場所で起きるはずです。

 私は、Google検索の世代です。確定申告で分からないことがあれば、すぐに国税庁のホームページを検索します。パソコンで分からないことがあれば、すぐにエンジニアのブログを検索します。インターネットとGoogle検索の登場は、知識を箇条書きにして覚えておくことの価値を失わせました。税法の条文を暗誦できるだけでは、もはや何の意味もありません。

 では、知識を身に着けることの価値は無くなったでしょうか?

 そんなことはないと私は思います。確定申告で損をしたくなければ、税法に詳しい会計士や税理士に依頼したほうが今でも確実です。税法の条文を記憶しているだけでなく、それをより深いレベルで理解していることが重要だからです。Google検索という新たなテクノロジーによって、「知識を覚えること」の意味が変わったのです。

 テクノロジーが進歩すると、ヒトの行動を機械で代替できるようになります。Google検索なら、「知識へのアクセス」という行動が、スマートフォンという機械で可能になりました。その結果、「機械にもできることをわざわざヒトがやること」の意味が問い直されて、明確化したのです。知識は覚えているだけではなく、理解していなければ意味がない、と。

 LLMが普及すれば、ヒトが文章を書くことの意味が問い直されるでしょう。画像生成AIが普及すれば、(写真の登場時と同様に)ヒトが絵を描くことの意味が問い直されるでしょう。機械にできることが増えるほど、ヒトにしかできないことが明確になります。人間性が損なわれるのではなく、むしろ、本当の人間らしさが際立つようになるはずです。

 

 ヒトがAIの存在する環境に適応していくというシナリオは、たとえば映画『ターミネーター』や『マトリックス』のようにAIが人類と敵対した場合にも(あるいはペーパークリップを作り始めた場合にも)当てはまるでしょう。

 たとえばあなたがアリを駆除するために殺虫剤を撒き続けたとします。自宅の裏庭からアリを根絶できたら運が良いほうです。殺虫剤に耐性のあるアリが生き残って、以前よりも大繁殖する可能性があります。

 あるいは医療の現場では、抗生物質に耐性を持つ病原菌がすでに問題になっています。抗生物質を使い過ぎた結果、それに耐性を持つ株が生き残り、その遺伝的形質が広まってしまった――進化してしまったのです。

 映画『マトリックス』の中で、AIのエージェント・スミスは人類をウィルスのようなものだと評しました。スミスは人類への罵倒としてこのセリフを言っているのですが、私には賛辞のように感じられます。なぜなら人類が根絶できたウィルスは、今のところ天然痘ぐらいしかないからです。地球上で最も賢いはずの人類は、いまだにウィルスの適応力に手を焼いています。

 したがって「ゴリラの運命がヒトに握られてしまったように、ヒトの運命もAIに握られてしまうのではないか?」という懸念には、「ヒトはゴリラではない」というシンプルな反論が成り立ちます。ヒトが高い適応力を持つことは、客観的な事実です。その適応力はゴリラの比ではありません。AIが「底なしの能力」を持つという前提に立たなければ、ヒトの適応力がAIに打ち破られるというシナリオは考えにくいでしょう。しかし、それは〝サタンの計略〟論法であり、科学的な議論とは呼べなくなってしまいます。

 繰り返しになりまずか、ミダス王問題はすでに現実化しつつあります。アシロマAI原則に書かれたような方針は、安全なAIを開発する上で重要です。しかし、ヒトの適応力を無視してAIの危険性を語ることは、私には過剰反応であるように感じられます。

 

 AIは敵か――ヒトはテクノロジーと共生できるのか――という問いは、歴史を無視しています。そもそもヒトは、テクノロジーと共進化してきた動物です。ヒトとテクノロジーとは対立する概念ではありません。テクノロジーは、ヒトという存在を構成するものの一部です。

 これが私の結論です。

 これからもヒトと機械は共生します。それは必ずしもサイボーグ化を意味しません。ヒトが「新たなテクノロジーのある環境」に適応するだけです。今まで、何十万年もそうしてきたように――。

 これが私の未来予想です。

 

 ここでようやく、ジョン・ヘンリーの逸話に戻ってくることができます。

 蒸気機関で動くドリルと対決したジョン・ヘンリーは、素手で岩を砕いたわけではありません。彼自身も「ハンマー」という別のテクノロジーを用いていました。これこそ、この逸話の最も喜劇的な(だからこそ悲劇が際立つ)点でしょう。私たちはテクノロジーと共に生まれ育ち、テクノロジーの中で生きているのに、簡単にそのことを忘れてしまうのです。

 ホモ・ハビリスが最初の石器を作った瞬間から、私たちはテクノロジーと共に歩んできました。テクノロジーを利用することは自然に反する行為ではなく、むしろごく自然なヒトの本性の一部です。

 蒸気機関のような新たなテクノロジーが目の前に現れたときは、あなたの手に握り締めているハンマーのことを思い出すべきでしょう。

 私たちは、水を2リットルしか飲めない動物なのですから。

 

 

 

(この記事はシリーズ『AIは敵か?』の最終回です)

★お知らせ★
 この連載が書籍化されます!6月4日(火)発売!

 

 

 

※※※参考文献※※※

[39]マット・リドレー『やわらかな遺伝子』(紀伊國屋書店、2004年)p129
[40]マックス・テグマーク『LIFE 3.0 人工知能時代に人間であるということ』(紀伊國屋書店、2020年)p79
[41]ダニエル・E・リーバーマン『運動の神話』(早川書房、2022年)下巻p80-81
[42]ニック・ボストロム『スーパーインテリジェンス』(日本経済新聞社、2017年)p59
[43]Gigazine 最強の囲碁AIに圧勝する人物が登場、AIの弱点を突いて人類が勝利したと話題に
https://gigazine.net/news/20230220-go-human-victory/
[44]ジョセフ・ヘンリック『文化がヒトを進化させた ⼈類の繁栄と〈⽂化-遺伝⼦⾰命〉』(白揚社、2019年)p20
[45]ヘンリック(2019年)p47-49
[46]IDEA FOR GOOD カラスが街を綺麗にする。吸い殻を入れると餌が出る「Crowbar」
https://ideasforgood.jp/2017/10/27/crowbar/
[47]東洋経済ONLINE 画期的!カラスがゴミ拾いの作業員になった
https://toyokeizai.net/articles/-/233436
[48]Gigazine 「タバコの吸い殻をカラスに拾わせるプロジェクト」がスウェーデンで計画中
https://gigazine.net/news/20220131-crows-litter-picker-sweden/
[49]マイケル・トマセロ『ヒトはなぜ協力するのか』(勁草書房、2013年)p35-36
[50]ヘンリック(2019年)p50-51
[51]ボストロム(2017年)p125
[52]Newsweek 2019年7月22日 「地球平面説」が笑いごとではない理由 
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/07/-22700-2600-100-1811feicfeic1600-feic.php
[53]テグマーク(2020年)p412
[54]ボストロム(2017年)p195
[55]リチャード・ドーキンス『進化の存在証明』(早川書房、2009年)p174
[56]ジェームズ・フランクリン『「蓋然性」の探求 古代の推論術から確率論の誕生まで』(みすず書房、2018年)p214
[57]スチュアート・リッチー『Science Fictions あなたが知らない科学の真実』(ダイヤモンド社、2024年)p310
[58]リッチー(2024年)p27
[59]フランクリン(2018年)p584-585
[60]A.デズモンド、J.ムーア『ダーウィン 世界を変えたナチュラリストの一生』(工作舎、1999年)上巻p289
[61]ダニエル・デネット『心の進化を解明する -バクテリアからバッハへ-』(青土社、2018年)p155
[62]ヘンリック(2019年)p116-119
[63]ヘンリック(2019年)p129-131
[64]ヘンリック(2019年)p136-141