重伝建の町並みを歩く

足助の町並みは、戦国時代には原型が形成され、江戸初期には今のような町割りが出来上がりました。
現在の町並みは、安永4年(1775)の大火後に、防火を意図して漆喰で軒先まで塗り固めた塗籠造りの町家が建ち並び、今日にその面影を伝えています。
妻入りや平入りの変化に富んだ家並みが約2Kmにわたって続き、平成23年6月、愛知県で初めての国の重要伝統的建造物群保存地区(通称:重伝建)に選定されました。


  • 足助の宿場・・・足助を通る現在の国道153号は、江戸時代には伊那街道、明治以降には飯田街道と呼ばれた街道で、中山道の脇往還として庶民の生活にとって重要な道でした。 この街道は三河湾で採れた塩や海の産物を信州や美濃地方へ運び、帰りには山の産物を持ち帰って、尾張や三河方面に送り出していました。天保年間(1830~43)には塩問屋が14軒もあったといわれています。

旧足助町域は、北から親王町、田町、本町、新町、西町、宮町、松栄町と続きます。  まず、宮町からご案内しましょう。


宮 町

宮町は香嵐渓の入り口にあたり、香嵐渓の玄関口でもあります。旅の始まりの第1歩は足助八幡宮のお参りから始まります。
足助八幡宮は読んで字のごとく、足を助ける神様として、足腰の弱られた方や旅の安全を祈る方たちが多く訪れます。本殿は文正元年(1466)の再建で、国の重要文化財に指定されています。

足助八幡宮拝殿


  • 八幡宮の隣には足助神社が祀られています。足助神社は南朝の忠臣・足助次郎重範公を祀る神社です。創建は明治35年で、比較的新しいものです。
  • この他、国道の反対側には鈴木正三建立の十王寺が建ち、ここには『またたき如来』という不思議な仏様が安置されています。
  • 鈴木正三・・・天正7年(1579)、足助庄・則定の城主の長男として生まれました。成人して徳川家康・秀忠に仕え、42歳で出家、石平道人と号し て、宗教活動を行いました。正三和尚は独自の境地を開拓し、一宗一派にかたよることなく、それぞれの仕事に正直に一生懸命励むことが、仏の道にかなうという「世法即仏法」を説きました。また、仮名草子本の作者としても「二人比丘尼」「因果物語」などがあります。

西 町】

ここは足助の宿の、西の玄関口にあたり明治から大正にかけては宿屋が軒を連ねていたところです。重伝建地区もここから始まります。現在、玉田屋いう旅館が、かっての旅籠の面影を今に残しながら営業をしています。旧街道の辻には弘化2年(1845)の道しるべが建ち、「右ほうらいじ道  左ぜんこうじ道」と彫られています。

西町の町並み


  • さらに足助川の左岸側には、足助交流館やトレーニングセンターなどに町並みのデザインも取り入れた近代的建造物が建ち並んでいます。

新 町


この町から足助川の右岸に発達しますが、新町といえども寛永6年(1629)の「足助村見地帳」にはこの名が記されていることから、古くから今の街の形態ができていたことがわかります。新町の入り口には、馬頭観音、不動明王、大日如来、役ノ行者など、数多くの石仏が祀られています。

普光寺には、「おびんずるさん」と呼ばれる賓頭尊者が祀ってあります。賓頭尊者というのは、自分の痛いところと同じところを撫でてお祈りすると治るといわれています。また江戸末期に活躍した俳人・板倉塞馬の句碑と、黒炭の製法をこの地に伝えたということから、加茂黒炭の祖としてもしたわれ、その顕彰碑が建ってています。
新町あたりから家の作りの型で「妻入り型」や「平入り型」の家並みが見られます。さらに軒先の裏側まで漆喰で塗り固めてあるのを塗篭造りといい、安永4年(1775)に大火があり、以降、こういう形の家屋が多くなったといわれています。

馬頭観音


  • 足助には小路がたくさんあり、中でもマンリン小路は一番美しい小路です。蔵が4棟連なり、奥行きが約50mあまりです。蔵の中はギャラリーと喫茶ルームとして利用されています。

マンリン小路


本 町


先の足助村見地帳に東町と記されているところで、西町とともに最初に形成された街区です。この町は、江戸時代には大商人が集まっており、大きな商家が建っていました。最も大きな商家は紙屋と呼ばれており。間口40m、奥行き100m、屋敷内には6つの土蔵があります。この辺りは妻入り、平入りが入り混じっていて、町並みの景観としては比較的よくまとまっているところです。
足助郵便局は平成元年の建て替えの際に、やはり町並み風情に合わせて建て替えられたもの。反対側の三嶋屋と呼ばれるところは、近年まで旅館営業がされていたところで、旅籠の面影を留めています。
この前の小道を海老屋小道といい、下りていくと足助川に出ます。足助川に沿ってやや下がると地蔵公園があります。8月13日と14日には5000本余りものろうそくが灯る「万灯まつり」があります。

  • 和菓子・加東家一帯は、江戸時代には白木屋宗七という人の造酒屋だったところで、現在は6軒の商店として使用されています.ここの床柱には、加茂一揆のときにつけられたという刀傷の跡があります。この裏手はかっつて本多7000石の陣屋が置かれていたところで、現在は愛知県の出先機関が置かれています。

  • 加茂一揆・・・天保7年(1836)9月20日に松平村、九久平村など加茂郡南部の有志20人が密かに集まって、米・酒などの安売り、頼母子の2年休会、 領主に対する年貢金納相場の引き下げ等を要求して立ち上がったもの。六所山、炮烙山を囲む村々の庄屋・米屋・酒屋などを打ち壊し、さらに、各陣屋へ要求を 突きつけて承認をさせました。 一揆は次第に勢力を増し、23日の午後足助に入ってきて、西町の造酒屋・山田屋与茂八宅、同じく西町の穀屋・木市屋仁兵衛宅、本町紙屋・鈴木利兵衛の空き 家、本町酒屋・上田屋喜左衛門宅、本町造酒屋・白木屋宗七宅を次々に打ち壊し、 床の間の刀傷はその時のものです。  この一揆は5日間にわたり、247か村、11,457人もの規模に上った。

田町


田 町


田町も寛永の見地帳に記されている古くからの町です。最初に行き当たるのは豊田信用金庫足助支店。一見、昔の両替商を思わせる建物で、昭和54年に今の形に建てかえられました。

やや行くと「足助中馬館」。大正元年に建てられた銀行社屋を改装して、足助の商業や金融・交通・町並み等の資料を展示しています。

  • さらに進むと、やがて赤い鳥居が左手に見えます。この鳥居を潜って進むと右手にお釜稲荷が祀られています。このお釜稲荷には古い民話が残されています。

お釜稲荷


  • 江戸時代の旧道は、足助川右岸に沿った細い道で、今は石畳舗装がしてあります。この道沿いにはかって大庄屋を勤めた商人が住み、多くの人馬が行き交いました.明治以降田町新道が開削されて、裏道となってしまいました。

田町 足助川沿い


  • 明治期に作られた田町新道を進むと、左手には足助の隠れたもみじの名所、観音山があります。地元の方々によって整備された散策路や、展望休憩所から見おろす、足助の町並みは絶景です。

観音山

観音山からの眺め


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