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藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#28 旅すること

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そのうちの一つは、龍に縁のある神様が祀られていた。龍は、水の神様でもある。そして息子の名前でもある。
もう一方は、癒しの神様が祀られていた。
体感のあとで知った、それらの解説のせいでもあるのだろうが、本日はここへと導かれていたのだなあ、と納得し、小さな川で手を清めてから、上賀茂神社を去った。
水が流れている場所、波が寄せる場所、雲が立ち上がる山の懐。それらのいずれかは、自分を巡らせるきっかけを与えてくれる場所だ。初めて訪れる土地では、そういう巡りのある場所を意識して、できるだけ訪れるのがいいだろう。
上賀茂神社を去ったあとで、北大路のうどんや綱道で昼食をとった。
看板に、うんどん、そばきり、と出ているように、麺ものを出してくれるのだが、これがとびきり美味い。庶民店なので、千円あればお釣りがくる。
カウンターの六人向け小上がりがあるだけの小さな店だが、名店である。前回同様、小上がりに胡座でいただいた。讃岐でうどんめぐりをしたこともあるほどの好き者なのだが、讃岐とは麺の太さが違って、ここならではの、細平打ち麺とつゆとの絡みが素晴らしく、また、そばも美味い。
うどんの後は、近くの商店街にある赤い看板と内装の自然派アイスクリーム屋さんで休憩した。どちらも地元の友人に教えてもらったのだが、これもまた巡り合わせと言えよう。
旅は、ゆるゆると行くものであると、空白を埋めようとせずに、成り行きに任せるのも楽しい。そもそも成り行きとは、自分を手放すことである。しがみつかないことである。旅が癒しとなるのは、そこからだろう。
暮らしも旅のようであるといい。
日々、新しいその日暮らしをしたいものだ。経験というのは、過去のことである。経験というのは、無価値ではないが、それほどのものでもあるまい。たかだか未熟な一人が、手をこねて握った細やかな砂粒に過ぎないと私は思っている。
関取の塩のように、土俵やら、人生とやらの虚空に放り投げて、手を打ち払っておくのが始まりとなるだろう。
巡らせること。それを続けるなら、私たちはいつも新品でいられる。



(つづく)



※『藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」』は、新月の日に更新されます。
「#29」は2016年5月7日(土)アップ予定。
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