【今週はこれを読め! SF編】音楽はゲームか魔物か? アメリカの実験に終着点はあるのか?

文=牧眞司

 宮内悠介の新作は音楽がテーマだ。たんなる物語の素材にとどまらず、音楽の本質に深く関わっていく。また、小説そのものの構成も音楽的だ。この作品に限らず宮内作品の特徴だが、主題やモチーフをさまざまに反復/変奏しながら、全体として精妙に組みあげる。小説は冒頭から結末へと直線的に読み進まれるものだが、読者の脳裏には立体/複層の印象として残っていく。音楽が流れていくメロディだけではないように、小説も物語だけではない。宮内悠介はそれを熟知している作家だ。

 とは言え、物語だけを追ってもじゅうぶんに面白い。ここには躍動があり、謎がある。

 主人公の櫻井脩はジャズの難関校〈グレッグ音楽院〉を受験するためにアメリカ西海岸へやってきた。この音楽院の入学試験は数段階にわたり、そのいずれもがかなり風変わりだ。ある種の少年マンガを彷彿とさせるケレンを感じるが、小説としてのリアリティも練られている。

 まず予備試験として、音楽院が主宰する祭りでの飛び入り演奏をおこなわなければならない。会場の各所に置かれているピアノを弾き、周辺の聴衆を沸かせれば合格だ。客のほとんどは祭りを楽しみにきたそこいらの連中なので、演奏中も遠慮なくヤジを飛ばす。この予備試験はテクニックを見ているのではなく、客に受けるかどうかだけが重要なのだ。

 それを通過した者だけが一次試験へ進める。会場は街にある音楽施設(入試には音楽院の施設は用いられない。受験生も含め部外者は学内への立ちいりは許されないのだ)で、脩は海辺のスタジオ兼ライブハウスにが割り振られる。試験内容はまったく知らされておらず、準備抜きで課題に取り組まなければならない。試験会場には一台のピアノが用意され、それをメンテナンスされていない楽器と思って弾けと言われる。かつて流れ者のミュージシャンは場末の酒場で調律が狂ったピアノを弾き、それがホンキートンクというジャンルを生んだ。それを再現せよというのか? しかし、手慣らしにそのピアノを弾いた脩はむしろ逆だと気づく。この楽器は調律されていないどころではなく、美しすぎるほどに調律されているのだ。純正律のチューニング----特定の調で美しく響く反面、意図しない調では音が濁る。このピアノにどう対処するか? 昔の教会音楽のような純正律に合った曲を選ぶ手もある。逆に握り拳での打鍵なども交え、なるべく濁って聞こえるように演奏する手もある。どう弾けば合格かの基準は示されていないため、自分で考えるしかない。ここで多くの志願者が淘汰される。

 二次試験は一対一のガチンコ対決だ。対戦するふたりがピアノの二重奏をする。正確には各自が一台のピアノを使い、交互に四小節ずつを演奏してつなげていく。曲の展開は両者の合意で決めてもいいし、完全なアドリブでもいい。曲として成立しなければ両者が不合格となり、演奏しきったとしてもふたりの優劣によってどちらかが不合格になる。つまり、対決する両者が協力しあうことが必要だが、合格を目ざし相手への妨害も考えなければならない。ゲーム理論の〈囚人のジレンマ〉のようだが、両者生還のケースはなく、いっそう過酷だ。これを勝ち抜いたとしても、まだ先に試験が待っている。

 いやあ、この一連の試験は昂奮する。なんだかバトルものみたい。そのうえ、試験のなかで脩が出会うライバルがみな個性的なのだ。予備試験会場で知りあった歳下のザカリーは天才的な音楽少年。彼はマフィアの御曹司で、父親から音楽院入学を反対されている。一次試験で一緒になったマッシモはクラシック出身でキャリアもある苦労人のミュージシャンだが、スキンヘッドの巨躯という外見に似合わず「自分には武器がない」と弱音を吐く。二次試験で脩の対戦相手になるリロイは、「しょせん音楽は麻薬さ」とうそぶくシニカルな人物。脩もまた「音楽には心などない。ゲームだ」を持論にしており、ふたりは鏡映しのようだ。しかし、決定的な違いもある。脩は他人から距離を置いて考えるたちだが、リロイは他人から容赦なく奪いとる。ふたりのライバル関係は物語を盛りあげるだけではなく、作品のテーマにも深く関わっていく。

『アメリカ最後の実験』にはいくつもの「謎」が仕掛けられている。まず物語開幕時に示される「謎」は、脩の父親である俊一の失踪だ。俊一は七年ほど前、高校に入学したばかりの脩と母を棄てて、〈グレッグ音楽院〉を受験するために渡米した。合格の知らせは来たが、それ以降の行方がわからない。脩が〈グレッグ音楽院〉入学を目ざすのは、父の手がかりを求めているからだ。先述したように、音楽院は部外者は足を踏みいれることができない。つまり、〈グレッグ音楽院〉そのものが謎めいている。読者は脩の視点に寄りそって音楽院を眺め、先へ進めば進むほど秘密の匂いを濃厚に感じとる。どう考えても普通の教育機関とは思えず、なにか大きな陰謀や歴史の暗部にかかわっていそうな気配。

 そのせいかどうかはわからないが、二次試験の直前にその会場である市内のオーディトリアムで殺人事件が起こる。現場に残されていたメッセージは「The Fisrt Experiment of America(アメリカ最初の実験)」。被害者は古い学生証を所持しており、その本人だとすれば音楽院の元学生アーネスト・シュリンク。アーネストは在学中、精神に異常をきたし失踪し、それ以降は先住民保留地の砂漠に身を潜めていると言われていた。彼にはDNA照合できる親族がいないため、殺されたのが本人かどうか同定ができない。そして、アーネストは音楽院で俊一と一種の戦友とも呼べる間柄だった。音楽で世界をつくりかえる情熱を共有していたのだ。このふたりと同じ年に音楽院を受験し彼らと親密なつきあいをしたアルノという男が、そう証言する。奇しき縁というか、アルノは音楽の道を諦めてマフィアの一員になっており、ザカリーの幼いころからのお守り役だった。

「アメリカ最初の実験」事件は写真入りで報道され、それが連鎖反応を誘発して各地で模倣犯があらわれる。彼らは「アメリカ第二の実験」「第三の実験」......と称し、犯罪の記録をネットで配信する。背後にはこの国に住まう者の一部が共鳴する何物かがあるのだが、多くのひとにとっては理解できず、正体不明の敵にただ怯えるばかりだ。

 はたして、この殺人の連鎖と〈グレッグ音楽院〉は関係があるのか? いや、利害や怨恨や思想による犯行などではなく、そのような事件(「アメリカの実験」と称する何か)に人を駆りたてるものが、音楽の本質には備わっているのではないか?

 ふと立ちどまって考えてみると、音楽というものは不思議だ。ひとの世にいくらでも存在しながら、その背後には精妙なメカニズムがある。古代ギリシアでは、音楽は算術、幾何、天文と並び、宇宙の根本原理だと考えられた。

 あなたも覚えはないだろうか? 子どものころは楽しく歌っているばかりだったが、のちに音楽の理論的な面にふれ、そこにきわめて数学的な秩序があることに驚いた経験が。赤い血や肌のぬくもりなどとは無縁に音楽は成立している。それにもかかわらず、音楽はひとの感情や欲動に強く作用する。ときに理性でとらえきれぬ神秘性やデモーニッシュな気配すらまとう。

 あるいは、アメリカに渡ったのちの俊一もそんな「音楽の魔」に憑かれたのかもしれない。脩が記憶している父は、技術はあるが腕は二流のピアニストだった。しかし、渡米後の演奏を聴いたことがあるザカリーとマッシモは、俊一の音楽にはひとの心を掴む玄妙な響きがあったと言う。俊一のアメリカでの活動時期はわずか半年間ほど、しかも一切の録音を許さなかったので、いまでは伝説と化している。一説によれば、俊一の秘密は特別なシンセサイザーにあるという。〈パンドラ〉と呼ばれるその楽器を使いはじめてから彼の演奏は崩れてきた。音は良いのだが、演奏しながら心ここにあらずの様子なのだ。ひとびとは〈パンドラ〉は演奏者を蝕む楽器だと噂した。その話を聞き、脩はクロスロード伝説を連想する。ブルース歌手ロバート・ジョンソンにまつわる逸話で、彼は十字路(クロスロード)で悪魔に魂を売り渡し、それと引き換えに超絶的なギター・テクニックを手に入れたというのだ。ジョンソンは原因不明の夭折を遂げた。では、俊一も?

 しかし、糸口をたどって脩がたどりついた〈パンドラ〉は、悪魔がつくった楽器などではなく、テクノロジーに裏づけられた機構があった。〈パンドラ〉のアイデアはSF的興味を引く。音楽には宇宙の数学的秩序だけでは語り尽くせぬ「揺れ」「誤差」の妙味もあるが、〈パンドラ〉はそれすらもメカニズムによって発生させるのだ。その仕組みは作品中に明快に説明されているが、これがかなり綿密で、コストさえ見合えば現実に製品化できるのではないかと思ってしまう。

 脩が〈パンドラ〉を見つけるのは先住民の保留地であり、アーネストが隠れ住んでいたと言われる場所だ。やはり俊一とアーネストとの運命は結びついているのか? また、過去に起こった彼らの失踪と、いま起こりつつある「アメリカの実験」とのあいだに、なんらかの因果はあるのか? 

『アメリカ最後の実験』はミステリの趣向も強く、ストーリー的なことをあまり先回りをして明かすことは控えよう。ただ、保留地と「実験」に関わって、この作品でもっともSF的なヴィジョンが立ちあがる。この書評コーナーは「SF篇」なのでここは強調しておかねばなるまい。根底にある発想は音景(サウンドスケープ)----環境と音の関わりを見直し、音の景色をデザインする----だ。環境からいっさいの音楽を排することは、ひとが無意識を失うのに等しい。作品中では「胎児が夢を見ない世界」と表現される。

 宮内悠介の前作『エクソダス症候群』では「正気の暗闇」が描かれた。これは、多剤大量処方の普及によってあらゆる精神疾患の発生が著しく低減した地球で、とくに理由もなく自殺を選ぶひとびとが増加する現象を呼びあらわしたものだ。『アメリカ最後の実験』と『エクソダス症候群』では小説のたたずまいは大きく異なるものの、提起されるテーマに共通するところがある。『エクソダス症候群』では、多層の迷宮のような世界の中心に精神科医であり患者でもある男が潜んでいた。『アメリカ最後の実験』でも、謎の核心を両義的な存在が担っている。その人物もまた音楽の魔によって運命を狂わされたのだ。ただし、ロバート・ジョンソンのクロスロード伝説とはまったく別のかたちで。それは音楽の謎をあらわにすると同時に、アメリカの本質をも問い直す。

(牧眞司)

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