<社説>係争委の却下 「法治」が問われている


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 この国の行政には自浄能力が完全に欠如しているのではないか。そう疑わざるを得ない。

 辺野古新基地建設問題で、国地方係争処理委員会が翁長雄志知事からの審査申し出を却下した。
 前知事の埋め立て承認に瑕疵があるとして翁長知事が承認を取り消したのに対し、その取り消し処分の執行停止を防衛省が申し立て、国土交通相が停止を決定した。
 両省とも同じ政府であり、仮に国交相が執行停止を認めなければ即座に「閣内不一致」として内閣不信任の対象になる。そんな結論を出すはずがないのは見えている。そんな茶番劇が妥当だったか否か、県は係争委に審査を求めていたのだ。
 だが係争委は審査対象に該当しないと判断した。確かに係争委は、国の「裁決」や「決定その他の行為」は審査対象外としている。だが今回の判断は適切と言えるのか。
 執行停止の根拠となった行政不服審査法は民間人を行政の強権から守るための法律だ。米軍基地のための埋め立ては政府にしかできないにもかかわらず、政府は自らを「私人」と位置付けて申し立てた。これに対し国内の100人近い行政法学者は連名で、政府の申請は「私人のなりすまし」であり、執行停止は不適法と断じた。
 法の専門家が「法治国家にもとる」とまで批判したのである。そのような無理な解釈に基づく国の行為も審査対象にならないのなら、係争委は何のための組織なのか。
 係争委は国と地方の紛争を公正かつ客観的に判断するために設けられた第三者機関だ。それなのに入り口論に終始して自らの審査の機会を制限したのは、政府の行為を過度に聖域化するに等しい。
 今回の判断は、この国の行政システムに公正性が備わっていないことを浮き彫りにした。法律は、法学者多数を無視して、国がいかように解釈してもいいということになる。そしてそれを制限するいかなる仕組みも行政内部に存在しないことになる。
 もはや司法にしか公正性は期待できないが、基地に関しては統治行為論という名の思考停止を繰り返すのがこの国の司法の常だ。
 県は国交相の執行停止が違法だとして提訴した。司法がまたも思考停止を繰り返すのなら、この国で「公正」はもはや死語に等しい。この国は法治国家なのか、政権トップの「人治国家」か。司法に問われるのはまさにその点なのである。