「万感胸に迫る」 琉球人墓墓参団 総理衙門跡を訪問


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現在は高層アパートや商店が建つ総理衙門跡地で、琉球救国に尽力した幸地親方朝常への思いを語る親族の渡久山朝一さん(右)=20日、中国・天津市内

 【天津で新垣毅】中国・北京の琉球人埋葬地を墓参した沖縄の墓参団一行25人は20日、1879年の琉球併合時に琉球人が救国を訴えた舞台・総理衙門(外交担当部門を含む清朝の機関)跡地で、当時の琉球人の苦悩に思いをはせた。この場所で幸地親方朝常(中国名・向徳宏、1843~91年)ら琉球士族は当時の中国の実力者・李鴻章に琉球王国の救出を必死で要請したがかなわず、多くが客死した。墓参団に参加した幸地親方の親族は「万感胸に迫る」と声を震わせた。

 総理衙門跡地には現在、高層アパートや商店が建っている。墓参団副団長の又吉盛清沖縄大客員教授らは幸地親方が救国を請願した頃の状況を説明した。1880年、宮古、八重山を中国(清)に、沖縄本島以北を日本に分割する琉球分割条約を結ぶ動きに琉球の林世功は抗議して自決した。死ぬ前に両親に宛てて「どうか親不孝をお許しください」と書いた詩も朗読された。幸地親方は李鴻章への請願の席で「地に伏して泣くばかりで決して起きることはなかった」という史料の記述も紹介された。

 幸地親方の親族で、親方の位牌(いはい)を大切に保持している渡久山朝一さん(67)は「万感胸に迫る。言葉に表せない」と語った。「琉球人墓を墓参し、ここに立つと、思いはかなり違う。幸地親方は『大和といえども恐れるべからず屈すべからず』と信念を通したとされるが、林世功ら多くの部下が死ぬ中で琉球に帰れなかったのだろう」と思いを寄せた。