第三章 珍禽奇獣異魚

描かれた動物・植物―江戸時代の博物誌―

江戸時代には、清船やオランダ船に乗って、多くの異国の鳥獣が海を渡ってきました。この時代の博物誌には、交易によって舶来した鳥獣のほかに、たまたま日本に迷いこんできた外国の鳥などもいろいろと記録されています。第3章では、当時の人々の目を驚かせた珍しい鳥獣や魚介類の一部をお目にかけます。

1.迷鳥・珍鳥

稀に飛来する珍種や、台風が運んでくる迷鳥は現在でも新聞種となりますが、江戸時代も同じで、ペリカンやアホウドリの記録が少なくありません。すでに絶滅したカンムリツクシガモや、蝦夷地の珍鳥の図も残っています。

アホウドリ 『梅園禽譜』

毛利梅園画 天保10(1839)序自筆本 1帖 <寄別4-2-2-4>

これは、天保3(1832)年5月に江戸の小石川馬場に落ちたアホウドリ(信天翁)の図です。江戸時代には数百万羽が方々に生息し、しばしば本州や九州にも飛来していたというアホウドリですが、現在は鳥島などにわずかに残っているだけです。本書は幕臣毛利梅園の著作で、この図を含めて合計131品の水鳥と陸鳥を収載しています。

アネハヅル 『姉羽鶴之図』

高力こうりき画 自筆 1鋪 <特7-692(1)>

江戸時代にツルの類はそれほど珍しくなく、江戸でも目にすることができたようです。ただ、ここに示したアネハヅルは稀な渡り鳥であったうえに、胸の長い羽毛や目のうしろに伸びる飾り羽などが美しく、たいへん珍重されました。この個体は文政4(1821)年6月に尾張で捕獲され、9月に将軍家斉いえなりに献上されたものです。これ以前には、寛文2(1662)年に紀伊で捕獲され、やはり幕府に献上されたという記録が残っています。高力猿猴庵は尾張藩士です。

ペリカン 『ガランテウ図』

清水淇川きせん画 写本 1鋪 <特7-693>

ガランチョウ(伽藍鳥)は、ペリカンの古名です。室町時代の永享2(1430)年に京都伏見の舟津で捕えられたのが日本における最古の記録(『看聞日記 : 乾坤 』<貴箱-14>)ですが、江戸時代にはかなりの数の記録があり、しばしば見世物にも出されていました。この図は右下に「文久二(1862)年壬戌秋八月 於尾張熱田沖 桜新田海岸 捕之」とあります。このペリカンはおそらく台風に運ばれてきた迷鳥でしょう。著者の清水淇川きせんは尾張の画家です。

カンムリツクシガモ 『水禽譜』

編者未詳 写本 1軸 <本別10-21>

これはカンムリツクシガモで、文政5(1822)年10月に箱館付近で迷鳥として捕えられたつがいです(上:オス、下:メス)。この種は朝鮮半島付近に生息していたカモの仲間で、享保年間に実施された産物調査(1716~35)の際に朝鮮から取り寄せたことがあります。幕末には江戸市中の飼い鳥屋で売られていましたが、現在では絶滅してしまったようです。この資料は図が秀逸で、水鳥76品が収録されています。

ウトウ 『不忍禽譜しのばずきんぷ

屋代弘賢編 写本 1帖 <寄別11-52>

品名は明記されていませんが、これはウトウ(善知鳥)です。北日本を含む北太平洋域に生息しています。この鳥は青森外ヶ浜の伝説を基に作られた世阿弥の謡曲「善知鳥うとう」で古くからその名が知られていたので、江戸時代の鳥譜にもしばしば写生図が残っています。本書は、「不忍文庫」印(右下)があることから同文庫の主である幕臣で国学者の屋代やしろ弘賢ひろかたによる編集とされ、約40図を収載しています。

エトピリカ 『百鳥図』

増山ましやま雪斎せっさい画 自筆本 12軸のうち巻12 <寄別1-1-2>

「ヱトウヒルカ」として描かれているのは、エトピリカです。北海道からアリューシャン列島にかけて生息し、蝦夷地以外では珍しい海鳥でした。雪斎は、画家としても一流の腕前だった伊勢長島藩主増山正賢の号です。本資料は12軸からなっており、重複や下書きの部分を除くと、現在の分類で120種の鳥類が収められています。国立国会図書館では、増山雪斎の筆による『長州鳥譜』の摸写<特7-179>も所蔵しています。

ツノメドリ 『水谷氏禽譜』

水谷豊文編 写本 8冊のうち冊5 <寅-12>

「ヱトヒルカ」と書かれていますが、これはエトピリカではなくツノメドリ(角目鳥)です。著者の尾張藩士水谷豊文は高名な博物家ですが、エトピリカと間違えてしまったようです。ツノメドリは千島列島からアリューシャン列島にかけて生息し、冬に北海道に飛来します。この図に描かれているのは、文化6年(1809)4月に尾張の熱田沖で捕えられた個体です。本書は『水谷禽譜』の一写本で、514品を収載しています。

レンカク 『禽鏡きんきょう

滝沢馬琴編 天保5(1834)序原本 6軸のうち巻3(財団法人東洋文庫蔵)

「豁鷄」「和名 小判鳥」と書かれていますが、これはレンカク(蓮角)です。蓮角という名は、長いあしゆびで蓮の葉の上を渡り歩くことに由来します。この図は文化13(1816)年に筑前国で獲えられた際に現地で描かれた図の転写で、実物よりも白い部分が大きいようです。レンカクはインド・東南アジア・中国南部に分布し、日本には迷鳥として稀に渡来します。時代を遡ると、宝永元(1704)年には静岡で捕えられたという記録も残っています。

万国管闚

(財団法人東洋文庫蔵)

サケイ 『奇鳥生写図』

河野通明ほか画写本 1軸 <本別10-38>

「トツケツシヤク」(突厥雀)として描かれている図は、サケイ(沙鷄)です。ユーラシア大陸の砂漠地帯に分布しますが、稀に迷鳥として日本にも現われるので、江戸時代に描かれた図もいくつか残っています。右上の鳥はツリスガラで、写生図は多くありません。本資料は浜町狩野家が所蔵していた図を河野通明ほかの絵師が転写したもので、全54図を収載します。優れた図が多いのが特徴です。

トキ 『華鳥譜』

森立之編・服部雪斎画 文久元(1861)序 自筆本 1冊 <寄別11-3>

現在、日本在来のトキは絶滅してしまいましたが、江戸時代には広域に生息しており、江戸や京都でもしばしばその姿が見られました。本書は福山藩医で国学者の森立之たつゆきが服部雪斎に描かせた食用鳥類61品の図説です。華麗な図が描かれていますが、華鳥譜という書名は「華」の字を分解すると「廿+卅+一+十=61(本書の収録品数)」となることに由来します。国立国会図書館のほか、内閣文庫にも自筆本が所蔵されています。

シマフクロウ 『嶌フクロ』

服部雪斎画 1枚(『錦窠禽譜』伊藤圭介編 原本 冊続11所収)<寄別11-10>

シマフクロウは日本最大のフクロウで、現在は絶滅の危機にありますが、往時はかなりの数がいたようです。右下には「北海道之産、明治五(1872)壬申八月廿二日、博物舘エ来ル。同月三十日写、雪斎草稿」と記されています。この「博物舘」というのは現在の東京国立博物館の前身で、この図を描いた服部雪斎は当時同館の動植物研究部門に属していました。

2.外国産の鳥類

江戸時代には、将軍や大名、豪商の愛玩用、あるいは見世物用に、数多くの外国産鳥類が長崎に持ち込まれました。なかでもインコ・オウム類は多く、おそらく30種以上が輸入されました。また、駝鳥ヒクイドリ も10回以上輸入されたようです。

コジュケイ 『外国産鳥之図』

編者未詳 写本 1軸 <る二-35>

長崎に珍しい鳥獣が渡来すると、代官高木家はそれを図に描いて幕府に送りました。本資料はその際の控え図に由来していて、禽類39点を収めています。ここに示した「竹鷄」はコジュケイ(小綬鷄)です。享保12(1727)年の写生で、現存するうちでもっとも古い図と思われます。コジュケイは中国南部・台湾が原産で、江戸時代にはしばしば清船によって持ち込まれましたが、現在各地で野生化しているのは、大正7(1918)年以降に放鳥した個体の子孫です。

キンケイ 『鳥類写生図』

牧野貞幹画 自筆本4軸のうち巻2 <寄別1-4-15>

「金雞」として描かれているこの図は、キンケイ(左:オス、右:メス)です。中国の四川省・湖北省に生息するキジ科の鳥で、「錦鷄」とも表記されます。慶長15(1610)年に安南船が家康に献上したのが日本への初渡来のようです。それ以降もしばしば持ち込まれ、花鳥茶屋で人寄せのために飼われたり、見世物になったりしています。著者である牧野貞幹は常陸笠間藩主で、貞幹の作品は本書のほかにも、『写生遺編』『草花写生』『花木写生』などが国立国会図書館に残っています。

セイケイ 『鳥類写生図』

牧野貞幹画 自筆本 4軸のうち巻1 <寄別1-4-15>

左に描かれているのはセイケイ(青鷄)。クイナの類です。額板と嘴が赤く、全体が青みを帯びて美しい姿をしています。アフリカ・南欧からアジアにかけて分布しますが、日本には生息しません。元文2(1737)年に清船が持ち渡った記録がもっとも古く、以後も幾度か渡来しましたが、日本で繁殖させることはできなかったようです。

ヒクイドリ 『薩摩鳥譜図巻』

編者未詳 写本 1軸 <本別10-10>

「陀鳥」と書かれているのは駝鳥のことを指しますが、江戸時代に「駝鳥」と呼ばれたのは今で言うダチョウではなく、ヒクイドリ(火食鳥)でした。ヒクイドリは寛永12(1635)年に平戸藩主が幕府に献上した記録がもっとも古く、以後オランダ船によって数多く持ち込まれ、見世物にもなりました。原産地はオーストラリア、ニューギニアです。本書は珍鳥ばかり80品を収録しています。なお、本物のダチョウの渡来は万治元(1658)年の記録があるだけで、その個体は献上後まもなく江戸城内で死んでしまいました。

カンムリバト 『百鳥譜残欠』

栗本丹洲画 自筆 1軸 <寄別10-50>

頭上の羽毛が特徴的なこの鳥は、寛政7(1795)年に渡来して江戸城内で飼われたカンムリバト(ニューギニア産)です。天明7(1787)年にオランダ船が食用に持参したものを、珍しい鳥だということで幕府が買い受けました。これが評判になって、以後たびたび持ち込まれたようです。本資料は幕医栗本丹洲著『百鳥譜』の残欠で、国内外の珍しい鳥類21品が描かれています。

ヨウム 『外国珍禽異鳥図』

編者未詳 写本 1軸 <す-20>

「類違音呼」はヨウムのことであり、アフリカ産のインコの一種です。「類違」とは「似ているが、少し異なる」「‥‥の類」という意味です。江戸時代には、さまざまなインコ・オウム類が渡来していました。東南アジア産のものが多かったようですが、このヨウムのようにアフリカ産や中南米産の種類も入っていました。これらは将軍や大名、公家などの愛玩品とされたほか、見世物の常連でもありました。図の鳥は、天保3(1832)年にオランダ船が持ち渡ったものです。

3.魚介類

江戸時代には、異様な容姿をした魚類の記録も少なくありません。一方、貝類のマニアは競って珍種を求めました。ここから示すのは、そのような例です。なお、江戸時代に「魚」にはクラゲやサンショウウオ、「介」にはカメやカニが含まれます。

マンボウ 『翻車考まんぼうこう

栗本丹洲著 文政8(1825)序 自筆本 1冊 <寄別11-29>

マンボウ(万宝、漢名は翻車、地方によってはウキキ(浮木))は体長1~3メートルにも達し、見た目にもたいへん奇妙な魚なので人々の関心も高く、たくさんの記録が残されています。右側の「翻車魚」は幕医栗本丹洲による写生図、左の「水戸岩城万宝魚図」は丹洲の父、田村藍水が入手した図の転写です。本書は丹洲が9図を集めてそれに考察を加えた小論で、同じくマンボウに関心があった親友の蘭学者大槻玄沢が所蔵する蘭書の図も含まれています。

マンボウ 『鳥獣魚写生図』

栗本丹洲画自筆本 5軸のうち「沖マンザイ/斑車魚」1軸 <本別7-569>

これは寛政9(1797)年7月9日に佐渡・姫津村の浜に漂着したマンボウで、「口ヨリ尾端ニ至ル壹丈」(1丈は約3メートル)と記されています。

ウチワフグ 『鳥獣魚写生図』

栗本丹洲画自筆本 5軸のうち「ウチハ魚」1軸 <本別7-569>

これは寛政6(1794)年冬に、志摩浪切浦で採れたウチワフグです。大きな腹部をウチワに見立てた命名で、「袋ブカ」とも呼ばれたようです。この種はカワハギ類とフグ類の中間に位置するといわれており、日本では三浦半島以南の海に生息します。多くは採れないため、江戸時代に残されたスケッチもわずかです。

リュウグウノツカイ + アカナマダ 『異魚図賛』

栗本丹洲画 奥倉魚仙写1帖 <亥ニ-21>

上は天保2(1831)年1月に筑前国志摩郡で採られたリュウグウノツカイです。本種は深海魚で、細長い体に赤いひれを持っていて、しかもその鰭の一部が長く伸びるなどの目立つ特徴があり、数件の記録が残っています。下は同じく深海魚のアカナマダで、やはり目立つ姿をしていますが、こちらの記録はあまりありません。左上にある注釈は、この2点とは無関係です。本書は奥倉魚仙が栗本丹洲の魚譜から奇魚15図を抜き出して写したもののようです。魚仙は江戸の八百屋です。

ヒメダカ 『梅園魚譜』

毛利梅園画 天保6(1835)序 自筆本 1帖 <寄別4-2-2-3>

ヒメダカ(緋目高)が野生のメダカから出現したのは比較的新しく、18世紀末か19世紀初頭のようです。上部中央の「赤目高」は天保9(1838)年の写生で、もっとも古いヒメダカの図と考えられます。その左に描かれているシロメダカも、これがおそらく初出です。右下の金魚はランチュウ(卵虫、蘭鋳)。著者は幕臣の毛利梅園です。本書は本来、『梅園魚品図正』(2帖 <寄別4-2-2-2>)と併せて3帖1組となっていたもので、合計すると収録品数は249にのぼります。

オオサンショウウオ 『水族四帖』

奥倉魚仙画 自筆本 4帖のうち春の巻 <寄別11-45>

大きく描かれているのがオオサンショウウオ(大山椒魚)、中央下はその幼生で、左下はハコネサンショウウオです。オオサンショウウオは古くから知られていましたが、一般人には珍しい生き物でした。この図は享和元(1801)年に江戸の板橋水車の堰下で捕えられた個体で、将軍家斉が上覧した後に見世物にされました。本書は奥倉魚仙の自筆図譜で、683品を描いた大著です。

カブトガニ 『訓蒙図彙きんもうずい

中村惕斎(なかむらてきさい)編 寛文6(1666)序刊 14冊のうち巻15 <117-18>

左下の図「鱟」はカブトガニです。これが日本でもっとも古いカブトガニの図で、特徴もよく表現されています。元禄3~5(1690~92)年に日本を訪れたドイツ人ケンペルは、この『訓蒙図彙』を購入して帰り、その図の多くを自著『日本誌』に転載しました。そのなかにはこのカブトガニのほか、右の「亀」(イシガメか?)と「鼈」(スッポン)の図も使われています。

オキナエビス 『奇貝図譜きばいずふ

木村蒹葭堂けんかどう著 大正15(1926)刊 1冊 <特1-214>

右頁の「糸掛介」は珍品のオオイトカケ、「タカヤサン介」はタガヤサンミナシです。左頁の「無名介」はベニオキナエビス(上:背側、下:口側)で、生きている化石といわれる現生オキナエビス類を描いた世界最古の図です。この類の特徴である口縁の切れ込みが正確に描写されています。この図譜は木村蒹葭堂の著作で、大阪の蒹葭堂会が大正15(1926)年に抄録して出版したのが本書です。この図はモノクロですが、原本は彩色図です。

タガヤサンミナシ + アンボイナ 『介殻稀品撰かいがらきひんせん

武蔵石寿著 自筆本 7冊のうち冊3 <寄別11-36>

右はアンボイナガイで、木村蒹葭堂の旧蔵です。左は上がタガヤサンミナシ(鉄刀木身無)、下がヒメタガヤサンです。これらはすべてイモガイ類で、琉球あるいは東南アジアから輸入されたものと思われます。本資料は、石寿の著作『目八譜』から稀品254点をまとめたものです。

ホッスガイ 『梅園介譜ばいえんかいふ

毛利梅園画 天保10(1839)序自筆本 1帖 <WB9-11>

右から順に「章魚船たこぶね」(アオイガイ、有殻タコの殻)、「払子貝ホッスガイ」、「草鞋蛎イタボガキ」(カキ類)です。ホッスガイに見られる白毛の正体はガラス海綿の「根」で、これで海底に立つような姿勢で生活しています。その下の部分が柄です。漁網に引っかかって採れ(このとき海綿本体は壊れる)、姿が僧侶の使う払子に似るので払子貝と呼びます。江ノ島などでは土産物にされました。本書は幕臣毛利梅園の著作で、合計323品を収載します。

4.獣類など

鳥類と同じく、珍獣も愛玩・見世物用に蘭船・清船が持ち込みました。また、この数年来アザラシ騒ぎが方々で起きていますが、江戸時代にも数々の記録が残っています。御先祖様も物見高かったのでしょう。将軍が上覧したという記録さえあります。

クビワオオコウモリ 『千蟲譜せんちゅうふ

栗本丹洲著文化8(1811)序服部雪斎写 3冊のうち下巻 <特7-159>

この図は琉球列島産のクビワオオコウモリで、輪切りのサツマイモをかじっている姿が描かれています。このコウモリのもっとも古い記録は『徳川実紀』にある「寛永19(1642)年に将軍家光が紀伊藩の徳川光貞へ八重山蝙蝠ヤエヤマオオコウモリを与えた」という記事のようです。以来、琉球からときどき持ち渡られて見世物になりました。この図は栗本丹洲によるものですが、いつどこで写生したかは記されていません。

アザラシ 『海獣図』

大窪昌章画 天保4(1833)写 1軸 <特7-718>

このアザラシは天保4(1833)年7月2日に尾張熱田の海沿いの新田に迷い込んだものです。現場には見物人が押し寄せ、のちに捕えられて見世物に出ました。現在同様、江戸時代にも各地でしばしばアザラシ騒ぎが起こっています。この図を描いたのは大窪昌章(薜茘菴へいれいあん)で、大河内存真(還諸子:伊藤圭介の実兄)の賛が添えられています。彼らはともに、尾張博物家の会「嘗百社」のメンバーでした。

セイウチ 『写生物類品図』

編者未詳 写本 1軸 <寄別10-43>

「海象」として描かれているのは、万延元(1860)年に北海道亀田半島の川汲村かつくみむらに漂着したセイウチです。江戸時代にはアシカやアザラシが多く描かれましたが、セイウチはこの図が唯一のスケッチと思われます。ここには示しませんが、本書にはリュウグウノツカイやラクダなど、珍奇な動植物の図が計24点収録されていて、大半は『栗氏魚譜』などから収録したものです。国立国会図書館では同題の別本<特1-3279>も所蔵しており、これも珍しい動植物30品を収録しています。

インドゾウ 『[享保十四年渡来]象之図』

川鰭かわばた実利画 写本 1軸 <特1-3286>

享保13(1728)年6月、将軍吉宗が注文した雌雄の子象が広南(ベトナム)から長崎に到来しました。雌はまもなく長崎で死んでしまい、残った8歳の雄だけが長崎から徒歩の旅をして、翌14年に江戸まで連れてこられました。このスケッチは、その道中に京都で描かれた烏丸家からすまけ蔵図の転写です。江戸到着後は浜御殿、のちには中野で飼われて、寛保2(1742)年まで生存しました。

ジャワヤマアラシ 『鳥獣魚写生図』

栗本丹洲画 自筆本 5軸より「豪猪」1軸 <本別7-569>

「豪猪」として描かれたこの図はヤマアラシ(山嵐、山荒)です。初めて日本に渡来したのは室町時代でした。江戸時代には何回か持ち込まれて、見世物にも出ました。本図には由来書きがありませんが、薩摩藩主島津重豪が蘭館から2頭を購入し、そのうちの1頭を安永元(1772)年に老中田沼意次に献上、それを同年暮に丹洲の実父田村藍水が拝領したという記録があり、これはそのときの写生だと考えられます。

スローロリス 『外国珍禽異鳥図』

編者未詳 写本 1軸 <す-20>

珍禽奇獣が長崎に持ち込まれると、代官高木家は御用絵師にその図を描かせ、その鳥獣を江戸に送るかどうかを幕府に尋ねました。その際の控え図39点(鳥34、獣5)を転写したのがこの資料です。「ロイアールト」として描かれている本図は東南アジア産の原猿スローロリスで、天保4(1833)年にオランダ船が持ち込んだ個体です。ほかに、ジャワマメジカ(次項)、インコ15品、ミナミヤイロチョウ、ホロホロチョウなどが描かれています。

ジャワマメジカ 『外国珍禽異鳥図』

編者未詳 写本 1軸 <す-20>

「小形鹿」として描かれているのは、スローロリスと同時に渡来したジャワマメジカです。豆鹿という名のとおり、体長は30センチメートルほどしかありません。この個体も「頭より尾際迄壱尺程」(1尺は約30センチ)と記されています。マメジカ(別名ネズミジカ)はシカに似ていますが角がなく、シカよりも原始的なマメジカ科に属します。この図が発見されるまでは、マメジカの本邦初渡来は明治36(1903)年のこととされていました。

ラクダ 『象及駱駝之図』

岡 勝谷画 文久3(1863)写本 1軸 <YR1-31>

本書にはインドゾウとフタコブラクダが写生されていますが、ここにはラクダの図のみを示します。このラクダは文久2(1862)年に渡来したらしく、翌年の1月2日から江戸両国橋西詰、同4月から浅草奥山にて相次いで見世物に出ました。文政4(1821)年に渡来して一大ブームとなったのはヒトコブラクダで、人々がフタコブラクダを目にしたのはこのときが初めてでした。図は見世物の際に描かれたものです。著者の岡 勝谷の詳細は不明です。

カッパ 『水虎十二品之図』

坂本浩然・純沢編 刊年不明 1枚 <特1-3158>

江戸時代の人はカッパ(水虎)の実在を信じていて、その専門書も作られました。なかでも名高いのは、古賀侗庵が文政3(1820)年にまとめた資料集『水虎考略』です。ここに示す『水虎十二品之図』は、『水虎考略』に多少の増補を加えた資料から12図を転写したものです。著者の坂本浩然は紀伊藩医、坂本純沢はその実弟で摂津国高槻藩医です。純沢には著作『百卉存真図ひゃっきそんしんず』 <200-219>があります。

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