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ルールとマナーは混ぜるな危険 ~「グリーン席問題」と「舌打ち問題」~

年始早々、「グリーン席問題」と「舌打ち問題」で公共交通機関でのマナーについての論争が勃発しています。

子どもを電車に乗せてはダメ?大人が寛容にすべき?年末年始も賛否を呼んだ公共交通機関のマナー|ザ・世論~日本人の気持ち~|ダイヤモンド・オンライン

 

「グリーン席問題」は、有楽町火災の際に遅延した新幹線内で、ご高齢の方や子どもさんを空いているグリーン席に座らせてあげて欲しいと車掌さんに交渉するも断られ、「優しくない!」とツイートをした方が「グリーン席は金払って座れ」などと批判を浴び炎上したケース。

超混雑だった東海道新幹線の乗客が「立っているお年寄りをグリーン車に乗せるべきだ」とツイート→炎上 - NAVER まとめ

 

「舌打ち問題」は、新幹線内で泣いてる子どもに舌打ちした人に対して「そういう人は公共交通機関に乗らず車で移動するべき」とツイートした方に対し、ホリエモンが「舌打ちぐらいいいじゃん」と反論し、しまいには「睡眠薬で寝かせておけ」と発言し、議論を呼んだケース。

【炎上】ホリエモン、新幹線で泣く子供に対し「舌打ちもしょうがない」「睡眠薬飲ませればいい」と発言 - NAVER まとめ

 

同じような公共交通機関のマナーの問題については私も以前記事にした「飛行機内で泣く子問題」もありましたし、最近では「電車やバスにベビーカーをたたんで乗るべきか問題」が議論になっています。

 

 

これらの議論を見ていて私がうーんと思ってしまうのは、「ルールとマナーの分別がついてない人」が多いように見えることです。

具体的には「ルールを守ってるからといってマナーを無視する人たち」や「(ルールかのように)マナーを守れと強制する人たち」。

あまりよろしくないですよね?

 

ここでいう「ルール」とは、事前に文章として定められている「法律」を指し、「マナー」とは文章化されてないけど一般に自然に意識されている「作法」を指しています。例えば、「グリーン席は別料金がかかる」というのはルールですし、「ご高齢の方に席を譲る」というのはマナーです。

 

ルールはきちっと文章にしてあるおかげで「何をしてよくて何をしてはいけないか」が明確になるメリットがありますが、その反面想定されてない状況では柔軟な対応ができないデメリットがあります。

一方、マナーは明確に定められていないために柔軟性に富んでいますが、その反面「なんかムカつくからそれはアカンことにする」などと「後出しジャンケン」ばりの気まぐれな結果論的裁きが起こりやすい弱点があります。

 

近代以前、権力者の気まぐれ裁きで理不尽な目にあった人々が多数いたことの反省から、現代ではその「後出しジャンケン」を排し「人は事前に定められた法によってのみ裁かれる」という法治主義が主流となっています。

 

(参考)日本国憲法第三十一条  何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

つまり、良くも悪くも現代社会では人を「ルール」によっては裁けますが、「マナー」によっては人を裁けない――そういう「ルール」なのです。

 

ですから、「泣く子に舌打ちすること」はマナー的には問題であっても、ルール上はなんら規制されていないので、「そんな奴は公共交通機関に乗るな」と断じてしまう方こそむしろルール違反な発言なのです。

時々「多くの人が不快に思っているから」と言ってマナーを強制しようとする人が居ますが、これも同じくルール違反です。

現代社会で「多数決」が許されるのは選挙や立法の時のみです。それ以外は個人の自由を尊重しないといけません。

それが「ルール」です。

これが嫌ならルール(この場合憲法)を変えるしかありません。

 

 

しかし逆に、ルールを守ってるからといってマナーを無視する人たちにも問題があります。

 

法治国家としてはルールに基づいて全ての行為の是非を明確に定めたいのが本音ではあるのですが、残念ながら現実世界は複雑怪奇。とても全ての事象について記述することはできません。

無理やりあらゆる事象をルール化しようとすればかえって(憲法で保障したはずの)自由が損なわれますし、実際の裁判などでもご存知の通り、厳密なルールに基いてものごとの是非を判定するには多大な社会的労力がかかります。

円滑な社会運営のためには、「ルール」だけでなく柔軟性のある「マナー」によって人々の衝突を避けることが現実的にどうしても必要になってくるのです。

 

ですから、「ルール違反じゃないのだから舌打ちしようが文句言おうが勝手だろ」といった「マナー」の存在を無視した態度や、「ぐりーん席ノダイキンヲハラウノガるーるダヨ」のようなルールのみを見る杓子定規な態度は、(本人たちは合理的なつもりかもしれませんが)現実社会の成り立つ背景を無視した実に非合理的な態度なのです。

 

確かに何人も「マナー」によって行動を強制されるいわれはありません。

それが「ルール」です。

 

しかし、「マナー」に従う義務がなくとも、「マナー」を考える義理はあるのです。

 

なぜって、「マナー」に従わないでいいという「自由」を保障している大事な要素の一つに、その「マナー」もあるのですから。

 

 

「ルール」と「マナー」は社会を支える大事な両輪です。それぞれの特性を上手く組み合わせて初めて社会は成り立っています。

それを取り違えたり、下手に混ぜたりすれば、冷たい心無い社会になったり、熱すぎて私刑が起きたり危険な事態を招きます。

 

用法用量を守って正しくお使い下さい。

 

 

 

P.S.

なお、「グリーン席問題」の発端の彼女は、その場(新幹線)のルール責任者代表である車掌さんに直訴しているのであって、他のグリーン席のお客さんに「譲れ」と強制したわけではないので、何も問題はないと思います。

むしろルールを守りたいからこそ、ルールの運用そのものを変えてもらえるよう車掌さんに掛け合ったわけで、「ルールを守れ」だなんて批判を受けるいわれはないでしょう。

「優しくない!」と断じてしまったのは、言い方として少し車掌さんに失礼で、「マナーの問題」はあるかもしれませんけれど。

 

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