風車のTシャツを買ってみました。
◇ はてな - グリーン電力化への取り組み
https://www.hatena.ne.jp/info/greenpower
Lサイズのデニムが売り切れてるのが残念。エスプレッソを購入。
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風力発電の風車を撮った写真で印象に残ってるのは、
高田洋三さんと忽那光一郎さんの作品です。
海外にも高田さんのように風車を集中的に撮ってる人がいそうです。
いずれチェックしてみようと思います。
◇ YOZO TAKADA Offcial Website
http://sheepphoto.com/
◇ 忽那 光一郎「風速0 No.058」
http://em.m-out.com/ec/html/item/001/002/item1617.html
YouTube - Izumi Kato
This is an interview with Izumi KATO, an artist shown in the Italian Pavilion of the Venice Biennale 2007.
http://www.youtube.com/watch?v=VrmJSwqt_-k
加藤泉さんのインタビュー@ヴェネチア・ビエンナーレ。
◇ 加藤泉「人へ」@ARATANIURANO
2007年07月14日(土)〜08月11日(土)
http://www.arataniurano.com/
◇ 加藤泉展「人へ」/正しきイマージュの系統発生 - pentaxx備忘録
http://d.hatena.ne.jp/pentaxx/20070720
続報・唐沢俊一“盗作疑惑”の一件*1
◇ 泥棒が被害者を「俺が盗んだことをバラしたら訴えるぞ」と脅す - ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記
これが「社会派くん」だって?
そこ、笑うとこですか?
村崎百郎も、こんなのと心中しないでね。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20070728
◇ これは盗作とちゃうんかいっ・決裂篇 - 漫棚通信ブログ版
盗用事件の加害者が、被害者に対して「法的措置」をちらつかせるとは。
現在、わたしがここに書いているこの文章そのものが、唐沢俊一氏および幻冬舎の「法的措置」の対象になっているということです。これはもう円満解決をめざしている文章とは考えられません。
唐沢俊一氏および幻冬舎は、合意できていたことを簡単にひるがえして同じところをどうどうめぐりするばかり。さらには自分たちの意に染まない発言は、「法的措置」で押さえ込もうとする。これでは、これ以上メールで交渉を続けても得るものはないと判断しました。
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_604f.html
◇ 盗作の後処理について - 石猿日記 - ISHII Masayuki Blog
こういう動きが公開されるのがブログの良さだ。田口ランディ盗作騒動を久し振りに思いだした。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/1068/b/1039randy.html
私は、ランディ氏が継続的反復的に盗作のような行為をしていたとして、公にその釈明を一切していないことがひじょうに興味深いと思っています。はい。
http://d.hatena.ne.jp/masaishii/20070728/1185591992
◇ 唐沢俊一による文章”盗用”疑惑事件、最悪の展開に。 - 伊藤剛のトカトントニズム
http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20070728/1185553420
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◇ 俺のプロ論 - 【B面】犬にかぶらせろ!
ちなみに僕がプロというものを考える際の、もっとも優れた教科書は、『代紋TAKE2』の一巻目のエピソード。
主人公の阿久津丈二はヤクザ。だけど、空手部か応援団の屈強な大学生たちと喧嘩して負けてしまう。その後、やくざとしての阿久津の人生は転落し続けるんだけど、ある時、大学生との喧嘩の場面にタイムスリップしてしまう。
それでも、やっぱり殴り合いには負けてしまう阿久津。しかし、その後大学生の自宅を突き止め、一人一人の親を脅して金を巻き上げるという、やくざのやり方で喧嘩に勝つ。これがプロ。阿久津の2度目の人生はヤクザとして大出世を遂げる。
技量云々でなく、勝つメソッドを知っていることがプロなのだという人生訓。
そういう意味では、ブログや他人の著書をまるまるパクっても、知らんぷりして逃げ通し、何もなかったかのように振る舞うことができるライターこそ真のプロだ。あやかりたい。
録音について - andsoonの日記
http://d.hatena.ne.jp/andsoon/20070727
吉村光弘さんによる思考実験。
『ユリイカ2007年 7月臨時増刊号 総特集*大友良英』http://www.seidosha.co.jp/index.php?%C2%E7%CD%A7%CE%C9%B1%D1
の吉村さんのテキスト、「ONKYO」と「OTOMO YOSHIHIDE」で展開されていた
二十四時間分の時報の音をフィールド・レコーディングするというアイデアも非常に興味深かったです。
方向性は全然違いますが、河原温*1の「百万年」(One Million Years)のことを想像したりとか、
比較してみたりとか、何かに応用できないかと考えてみたりとか、、、
◇ (h)ear rings
http://www16.ocn.ne.jp/~hearring/
杉本拓 CD『Live in Australia』ライナーノート(2004年7月)
「音は正直だ」とか「自己超越としての表現」とか「聴覚を研ぎ澄ます」、「空間的」だのの実際は何を言っているか分からない「言葉」の一群があって、これらはある種の音楽と対応しています。すべてではありませんが、「即興演奏」──以下、私の扱う問題は即興とその周辺に関してのものです──と言われるものの多くは特に、これら「何を言っているか分からない言葉達」との格闘から逃れることが困難になっています。これらの「言葉」の示す特徴が即興界の微妙なジャンルを規定しているわけです。だからどんなことをやっても、結局そういうものになってしまう。言葉や言語から「音」を引き離す、実はこれ結構難しいんです。完全にそれをおこなうことは多分不可能でしょう。ならば、言葉や言語化を戸惑わせたり、ためらわせたり、つまずかせたり、突き放したり、つまりお互いがリッチになるような関係、そういうのを発見すべきなのかもしれません。
http://www.japanimprov.com/indies/imj/liveinaustralia/notes-j.html
◇ 大友良英のJAMJAM日記別冊 連載「聴く」第12回
http://www.japanimprov.com/yotomo/yotomoj/diary/diary-kiku13.html
◇ 沈黙の哲学について 2005年11月29日 杉本拓
http://www.japanimprov.com/tsugimoto/tsugimotoj/essay3.html
基礎的な議論 佐々木敦さんの解説 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060925#p6
「選択」と「認識」がなければ、「音」は「音楽」にはならない。ところで、「選択」すなわち「認識」であるケースもありえる。他ならぬ<4分33秒>がそれだ。そこには時間と空間の限定という「選択」があり、それがそのまま「認識」の引き金にもなっている。フェラーリとケージは、実はほとんど同じことを言っている。違いがあるとすれば、ケージが「音楽」を「音響」へと解放してしまおうとするのに対して、フェラーリは「音響」を「音楽」に取り戻そうとしている、ということだろうか。いや、よくよく考えていると、両者の主張はぐるぐる廻っているだけのようにも思える。
佐々木敦『テクノイズ・マテリアリズム』(青土社)より
http://www.amazon.co.jp/dp/4791759303
1年前
◇ レビュー 5/14 天狗と狐の野外音楽会 vol.1 - やぶいぬ日記
あ、その前にちょっと脱線するけど、もう「沈黙=ジョン・ケージ」つう紋切り型の物言いは止めたほうがいいのではないかと思う。「音楽における沈黙といえばケージ“4分33秒”が有名だが....」みたいな書き出しをするのはどうよ、と。
以前、図書館で俳句の雑誌や本を読んでいたら、初心者と講師陣のQ&Aみたいなコーナーがあって:
「Q: この間俳句誌を読んでおりましたら、まるでピカソの絵のような句を拝見いたしました。このような句を鑑賞するにはどのようにしたらよろしいでしょう(74歳・男)」
みたいな質問があってのけぞった。いわゆる自由律や前衛風の句を指しての質問だと思うのだが、「ピカソの絵みたいな」という形容が通用する世界がまだあることに驚いた。
http://d.hatena.ne.jp/Bushdog/20060518/p1
クオリア茂木健一郎氏がケージやデュシャンを持ち出すときの粗雑さにも通じる?
(たぶん語り言葉の場合のみでしょうけども。。。)
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*1:「〜に過ぎない」のか――吉村光弘『「ONKYO」と「OTOMO YOSHIHIDE」』 - やぶいぬ日記
http://d.hatena.ne.jp/Bushdog/20070722/p1
こちらの記述の結語の少し前も参照のこと。