『Goshogaoka』(シャロン・ロックハート/1998)

写真家であり映画作家、というより現代アートの作家として知られるシャロンロックハートが撮った中編をいくつか。ジェイムズ・ベニングを別格として、アメリカの実験的・前衛的な映画作家として紹介されることの多いシャロンロックハートに個人的な興味を持ったのは、昨年末、海外のいろんな映画批評サイトで発表されたゼロ年代ベストリストのなかで、『The Anchorage 投錨地』のC.W.ウィンターをはじめとするいくつかの映画作家や批評家が局所的に名前を挙げていたことだった。1964年生まれであるシャロンロックハートフィルモグラフィーIMDbの記載すら不完全なデータなので、この『Goshogaoka』が処女作なのかどうかさえ私は知らない。ただIMDbのレビューのなかで本作を「剥き出しのマシュー・バーニーとバズビー・バークレーの折衷」と評した感想があって興味を惹く。とても面白い表現だと思う。今回『Goshogaoka』のほかに、『Podworka』(2009)、『Theatro Amazonas』(1998)を見てみた。



3作品に共通するシャロンロックハートのコンセプトは明快に思える。フィックスで広角に開いたカメラが切り取ったフレームを、フレーム外まで広がる運動や音響によって、リ・コンストラクションするというか。茨城県御所ヶ丘中学校の体育館を舞台にした本作で最初に意識させられるのは、広角に開いたレンズの外からやって来て、外へ抜けていく女子中学生たちの、幾何学模様が織り成す美しさから絶妙に外れていく運動である。フランクフルトバレエ団の振り付けがされているにも関わらず、あらかじめ決められた線=演出から彼女たちはズレていく。ここには舞台演出とフレーム内演出との衝突がある。彼女たちが幕の降りた舞台=劇場を背景に体操(舞踏)しているというところが興味深い。彼女たちが一切の私語を話さず、溌剌な運動ではなく、俯いて黙々と運動しているところが更に興味深い。この運動には下手な子も含んでいる。素人の些細な身振りを舞踏にする、というのとも違う。むしろこれはその些細な身振りが舞踏に至る、または至らない、カメラを介した手探りの過程だ。女子中学生という外見的に完成されていない時期の選択もそこにあるのかもしれない。いずれにせよ、遠近やフレームアウトによって運動のダイナミズム、速度は変わっていく。そのヴァリエーションがとても刺激的だ。


『Podworka』はポーランドの街の片隅を同じく広角のフィックスで捉える30分弱の短編。ここで面白いのはフレームの外の音が(おそらく)編集されていること、またショットのはじめにスタート(フレーム・イン)の余白があることだろう。フレーム外の音の編集の極端な形が『Theatro Amazonas』だ。これはフィックスカメラが劇場の客席を大きく捉え、それが延々30分以上続く、という拷問のような作品。で、実際シンドイことこの上ないのだけど、興味深いのは、劇場の観客が聞いてる/見ているものが一体何なのか分からないというところだろうか。前半に不協和音が響き、後半は客席の物音のみになる。客席にいる退屈そうな人たちの視覚と聴覚が実際のところ何に向けられているか分からない。映像による情報操作への批評として読むことができる。


ここで思い出すのがアッバス・キアロスタミの『シーリーン』だ。『シーリーン』がいかに映画そのものに向けられた画面だったのかを考える。ウォーホールの『スクリーンテスト』と『Theatro Amazonas』のコンセプトの間に『シーリーン』の暗闇の女性=女優たちのウソと生々しい実像は投射される。