2007年08月15日 (水)視点・論点 「シリーズ戦後 『若者のナショナリズム』」

京都大学大学院准教授 大澤真幸

 8月15日は、日本人にとって、ナショナリズムという問題を考えずにはいられない日です。
そこで、今日は、若者のナショナリズムについて論じてみたいと思います。

 90年代中盤以降より、右傾化やナショナリズムの傾向が若者の間で高まっている、と言われています。
たとえば、2002年のワールドカップの折に日本を屈託なく応援する若者たちを指して、香山リカ氏が「ぷちナショナリズム」と呼んだ現象、あるいは、歴史教科書問題とも深く結びついている、小林よしのり氏のマンガ『戦争論』の大ヒット、あるいはネットでのいわゆる左翼バッシング等が、このことを示しています。

 それでは、こうしたナショナリズムへの傾向は、社会調査によって実証できるでしょうか。
これは、NHK放送文化研究所による「日本人の意識」という調査から、「日本に対してどのくらい自信をもっているのか」を問う質問に対する答えを、点数化したものです。
ご覧になっておわかりのように、日本人の日本への自信は、80年代の初頭がピークで、その後は下がってきています。さらに、これは、同じ点数を世代ごとに分けて整理したものです。
戦無世代というのは、1959年より後に生まれた若い人たちのことで、このグラフを見ると、若い人ほど日本への自信が小さいことがわかります。
「日本への自信の大きさ」をナショナリズムの度合いと見なしますと、このデータは、近年、ナショナリズムが強化されている、とりわけ若者たちの間で、という先の印象をまったく否定しているように見えます。この矛盾をどう考えたらよいのでしょう。

 ここで、あえてこう考えてみるのです。
統計データの上では、むしろ、このような否定的な結果を見せるような、独特なスタイルのナショナリズムが、今日、流行しているのではないか、と。
こんな言い方は、詭弁に思われるでしょうが,私の真意を理解していただくために、ここで、冗談のような事実をひとつ紹介いたします。

 旧ソ連のスターリン体制下での出来事です。有名な大粛清の指揮者として名を馳せたBeriaという政治家がいました。
彼は偉大な政治家だということになっていて、当時の『ソヴィエト大事典』の中には、「Beria」という項目がありました。ところが、後にBeria自身が粛清されてしまったのです。
このとき、当局から、読者に手紙が届きます。
「Beria」の項目を切り取って、編集部に送り返せ、と。依頼に応じて項目を送ると、編集部から、読者には「Bering pass」という項目が送り返されてきました。
この新しい項目を、もとの「Beria」の位置に挿入すれば、落丁のない事典が修復される、というわけです。

            Beria ⇒ Bering pass

 ここで当局は、かつて「Beria」という項目があったという事実を隠蔽し、騙そうとしているのです。
が、いったい、このケースで、誰が騙されているのでしょうか。
すぐに思いつく解答は、「読者」ですが、考えてみれば、読者は、このごまかしに協力しているのですから、騙されるはずがありません。
この時代、「当局の言うことを信じていますか」ということを一人ずつ調査したとしたら、信じている人は一人もいない、という結果を得たはずです。
それならば、ソ連の体制は崩壊寸前だったかというと、無論、そうではなく、当時のソ連の体制は堅固で安定したものでした。
このように、一人ひとりの信念や知識としては無に等しいのに、明確な社会的リアリティが維持されるといことがあるのです。
今日の日本のナショナリズムも同じではないか、というのが私の仮説です。

 現代日本のナショナリズムの話題に戻ります。具体的なケースを手がかりにしてみましょう。
俳優窪塚洋介さんのケースです。
1979年生まれの窪塚さんは、自分探しのための試行錯誤の果てに、熱心なナショナリストになります。
興味深いのは、窪塚さんがナショナリストへと転進するきっかけが『GO』という映画への出演にあったということです。
この映画で、窪塚さんは主人公の在日コリアンを演じました。
日本の中のマイノリティへと感情移入することを通じて、つまり日本を相対化するような視点を媒介にして、ナショナリズムに覚醒するという経路は、実に逆説的です。

 窪塚洋介さんの場合、さまざまな文化や生活様式を、「多文化主義」的に相対化するような視点を経由することで、ナショナリズムへと向かっています。
とすれば、私たちとしては、多文化主義的な普遍性がナショナリズムへとどうして転換していくのかを考えてみることで、今日のナショナリズムの特徴が理解できるのではないでしょうか。

 多文化主義は、多様な文化やライフスタイルの寛容なる共存を謳う思想で、現在の左翼的な政治思想の中心です。
まず、なぜ、多文化主義が、「多様な文化や信仰が深刻な葛藤を起こすことなく、平和に共存できる」、と素朴に前提にしているのか、を考えてみてください。
ここで、信仰が、プライヴェートな・私的な趣味のようなものと見なされているのです。
趣味であれば、いくらでも多様なものが共存できます。

 しかし、考えてみてください。
趣味としての信仰というのは、信じていないということではないでしょうか。
何かを信仰するということは、それを真理と見なすことだからです。
しかし、真理への信仰は、多文化主義の観点からは許容できません。
真理は、本来唯一のものであり、他のアイデアを排除するからです。多文化主義が許容できるのは、だから趣味としての信仰です。
もう少していねいに言えば、「本気になって信じてはいけないが、信じているふりをすることならかまわない」ということです。

 しかし、ここにはさらなる転換が待ち受けています。
たとえば、私は神を信じてはいませんが、教会では礼儀正しく礼拝につきあい、信じているふりをいたします。なぜでしょうか。
私ではない誰かが、本気に信じているからです。
つまり、信じているふりをするということは、本気に信じている他者の存在を前提にすることであり、その意味では、その信じている他者の世界の中に身を置くことなのです。

 ここで一部のメディア学者がinterpassivityと呼んでいる現象を間に挟んで考えてみますと、見通しがよくなります。
Interpassivityというのは、interactivityから作った造語ですが、その一例は、テレビのバラエティショウの「スタジオのお客様」です。
テレビにとってほんとうのお客様は、テレビの外の視聴者なのに、なぜわざわさ、スタジオにもお客様が招かれているのか。
スタジオのお客様は、視聴者のために、あるいは視聴者の代わりにショウを楽しんでくれているのです。
これは、いくつかの民族のもつ「泣き女」の風習と同じです。
泣き女というのは、お葬式に参加して、参列者の代わりに泣いてくれる女のことです。
仮にあなたが涙を流せなかったとしても、泣き女があなたの代わりに泣いたのだから、客観的にはあなたは泣いたことになる、というわけです。

 本気で悲しんでいるつもりはなくても、本気で悲しんでいる他者を前提にして振る舞えば、客観的には悲しんだことになる。
同じように、本気で信じている他者を前提にして行動しているとすれば、客観的には信じているに等しいのです。
私は、こういう状況を「アイロニカルな没入」と呼んでいます。
一方では、アイロニーの、つまり皮肉な意識をもって、冷ややかな距離を取っているのに、他方では、つまり客観的な行動の面で見れば、没入している、はまっているに等しい、これがアイロニカルな没入です。
俗に言う「わかっているけどやめられない」という状態です。

 私の考えでは、今日の若者たちのナショナリズムは、アイロニカルな没入によるものです。
ですから、「あなたはナショナリストですか」という意識を正面から問うような質問には「いいえ」と答えますが、行動の面では、まぎれもないナショナリストとして振る舞うのです。
ナショナリズムも、古典的なそれとは違う新しい段階に入っているのです。

投稿者:管理人 | 投稿時間:23:00

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