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2013年10月7日 (月)

韓国人や中国人が多く生活する新宿区百人町。その理由って?

鉄炮組百人隊行列が描かれた壁画(撮影:筆者)
撮影:筆者

9月19日、国土交通省が基準地価を発表した。それによると、東京都全域は緩やかに地価が上昇している傾向にあるようだ。しかしその都全体の動向に反し、上昇と下落を記録している地域がある。新宿区百人町だ。

百人町といえば、韓国人や中国人が多く生活し、韓流アイドルのショップが立ち並ぶ地域。韓流ブームの盛り上がりとともに地価は急激に上昇し、2012年をピークに下落し始めている。地価下落の原因としては韓流ブームの失速などが挙げられているようで、今後の動向にも注目が集まっている。

先述したが、百人町は韓国人や中国人が多く生活する地域。しかし、百人町の由来を探ると、日本の歴史に深く関わる場所であることが分かった。そこでここでは、百人町の歴史について、そして韓国人や中国人がなぜ多く住むようになったのか、その辺の情報について、新宿区役所大久保特別出張所の職員の方に取材したのでご紹介したい。

まず百人町という特徴的な地名はどこからきたのか。

「百人町という町名は、この地が江戸時代、『鉄炮組百人同心』の居住場所だったことに由来します。『鉄炮組百人同心』とは幕府直轄の鉄砲部隊のことで、平時には江戸城の警備につき、将軍家が寛永寺や日光東照宮に参詣するときには警護の任につきました。同心が100名配属されたので、『百人組』とされたとのことです」

この鉄砲部隊は当初、居住場所に困っていたようで、それを聞いた徳川家康が、「適当な所に住まわせるように」と命じてできた町が百人町であるといわれている。

またこの町は、古くからの町割が残っているのが特徴であるそうだ。

「江戸時代の地図と現代の地図を見比べても、昔の道がそのまま残っていることがお分かりいただけると思います。西からの攻撃に備えて、南北に長いつくりになっています。戦時中、空襲もありましたが、すぐに人が戻ってきて同じ場所で生活したので、昔の町の形が変わることなく、現在でも活かされています」

空襲は過酷で、百人町は甚大な被害を受けたが、終戦の翌月から商店主たちが戻ってきて、困難の中で活動を再開したとされている。

現在の大きな特徴は、韓国系住民が多いこと。別名コリアタウンとも呼ばれている。

「戦後、この地に韓国系住民が集まるようになりました。ひとつにはロッテ新宿工場があり、そこで多くの韓国系住民を雇用したこともあると聞いています。平成14年の日韓ワールドカップ開催以降、大幅に韓国系住民が増えました。しかし、韓国系だけではありません。新大久保駅の西側には中国系やアラブ系など、エスニック系のお店も多くあり、人種的に非常に多様性に富んだ町であると言えます」

こうした町の歴史を反映して、昭和36年から「江戸幕府鉄炮組百人隊出陣 行列の儀」が地元の有志の手で行われるようになり、平成14年には新宿区無形民俗文化財「鉄炮組百人隊行列」として登録された。

隔年ごとに開催される催しだが、銃を手にした兵たちが「出陣」を行い、鉄炮組武士団の行列と出陣の儀式を再現するというもので、見るからに勇壮な、往時の気迫を思い起こさせるイベントである。

多様な歴史を秘めた百人町。地価は下落傾向にあるが、今後どのような発展をしていくのか気になるところだ。

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