連載【江戸の知恵に学ぶ街と暮らし】
落語・歌舞伎好きの住宅ジャーナリストが、江戸時代の知恵を参考に、現代の街や暮らしについて考えようという連載です。
秋になると、目黒駅周辺エリアで、焼いたさんまなどを無料で提供してくれるさんま祭りが開催される。もちろん、落語「目黒のさんま」が由来だ。
ある江戸のお殿様(大名)。特にやることもないので、馬で遠乗りに出かけようと思い立った。殿様のお出かけには、家来たちもお供をしなければならない。あわてて、大勢が後を追う。たどり着いたのは、目黒。
お殿様はお腹がすいたので、弁当を要求するが、家来たちは誰かが持参したものと思って、誰も用意をしていない。そこへ、近所の農家から食欲をそそるよい匂いが…。「このよい匂いは何じゃ?」とお殿様。さんまを焼く匂いだと知って、お殿様は食べたいと所望する。
下々の者が食べる魚で「お殿様が召し上がるものではありません」と家来が止めるが、背に腹は代えられない。農家に分けてもらって、焼きたてのさんまを家来が差し上げると、脂がのった旬のさんまにお殿様は大満足。
また食べたいと焦がれるお殿様だが、お殿様の食膳にさんまがのることはない。そこへ親戚に招かれて、好みのものを差し上げると言われたものだから、即座にさんまを所望。脂や小骨がお殿様の体に障ってはならないと、料理長があれこれ手をかけて別物のようなさんま料理が出来上がる。
驚いたのは御膳を見たお殿様。「これはどこのさんまじゃ?」魚河岸から取り寄せたと料理長が答えると、「それはいかん。さんまは目黒に限る」
今では住宅地になっている目黒エリアだが、江戸時代は目黒不動の門前町として多少の民家があるだけで、山林や田畑が広がる自然豊かな地だった。上目黒は将軍の鷹狩り場(鷹場)、下目黒には江戸からの参詣客も多い目黒不動があって、中目黒は起伏が富み、尾根に茶屋があった。
今の目黒区三田の茶屋坂の上に、当時「爺ヶ茶屋(じじがぢゃや)」と呼ばれた茶屋があり、それを描いたのが歌川広重の「名所江戸百景 目黒爺々が茶屋」の錦絵だ。高台にあるこの茶屋の西に富士山を望むことができたことから名所となった。
目黒区のホームページには、三代将軍家光が目黒の鷹狩りの際、この茶屋に立ち寄ったと書かれていて、「家光は、茶屋の主人彦四郎の素朴さを愛し、『爺、爺(じい、じい)』と話しかけたため、この茶屋は『爺が茶屋』と呼ばれた」とある。また、「八代将軍吉宗もたびたびこの茶屋に立ち寄り、主人彦四郎にことばをかけ、茶代として銀1、2枚を与えるのが常となった。その後、歴代の将軍や大名も目黒筋の狩猟の際に、この茶屋に立ち寄るのが恒例となった」ということだ。
江戸時代は、将軍や有力大名などが軍事訓練と娯楽を兼ねて、鷹狩りを盛んに楽しんでいたので、それぞれに鷹狩り場を所有していた。今でも目黒には「鷹番」という地名があり、鷹狩り場を管理する役人がいた名残をとどめている。当時はほかに、王子や滝野川、十条一帯に将軍の鷹狩り場があったという。
高台で展望もよかった目黒エリアは、その後住宅地となって変貌していくが、目黒のさんま祭りは今も行われている。2014年の品川区の「目黒のさんま祭り」は9月7日、目黒区の「目黒のSUNまつり」は9月14日に開催され、焼いたさんまなどが振る舞われることになっている。
杉浦日向子さんの「大江戸美味草紙」によると、江戸時代は流通の便がよくなかったので、さんまの大半が干物で、もっぱら滋養食として食べられており、秋の食卓の主役となるのは生さんまが手に入るようになった昭和のころからだという。美味しいさんまが食べられるのは、さんまが新鮮だからこそのようだ。