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大学の体育の授業で学んだ、人の自発的な育て方

生まれつき、運動音痴である。小学校の時から、体育や運動会でいい成績を出したことがない。バランス感覚とか、瞬間的な判断とか、筋力とか、手脚のスムーズなコントロールとか、そういったことがからきしダメである。父母はどちらも長身で運動神経が良く、スポーツ万能だったのだが、あいにく、似てほしい美点は受け継がなかったらしい。おまけに生来、小柄である。かつ、体もひどく硬い。まったく良いとこなしである。

運動能力の低さをカバーし、体力を向上すべく、中学・高校とも運動部に入ったが、結果として青春の記憶を屈辱で上塗りしただけだった。自分が多少なりとも好きだと言えるスポーツ、他人に劣等感を感じずにいられる種目はスキーただ一つだった。スキーは自力ではなく重力によって駆動する点が、まだしも幸いだったらしい。しかしスキーなんて冬しかできないし、おまけに遠いスキー場までわざわざ出かけていかなければできない。だからクラスの女の子の友達にかっこいいところを見せられるチャンスなど、ほぼ皆無であった(だいいち、高校は男子校だったのだ)。そういうわけで、普段の体育の時間は、わたしにとってはただ忍従の時間であった。

大学に入って、はじめてまともな体育の授業を受けた。むろん最初は、「大学に入ってまで、まだ体育の授業があるのかよ!」と落胆したものだ。おまけに大学は入学生全員に運動能力テストなるものを課し、その結果が一定レベルに達しない学生には、『トレーニング』なる恐ろしげなクラスを受講させるのだ。もっといい結果を出した友達は、テニスだとかサッカーだとか、好きなクラスを選ぶことができた。だがわたしは当然のごとく、トレーニングに回されることになった。

ところが、このトレーニング・クラスは、わたしがそれまで受けた中で別格、いや、次元が違うくらい、まともな体育の授業だった。まず、教師の説明が科学的だった。トレーニングの内容は、小さなダンベル(重量がkgで表示されている)をつかったウェイト・トレーニングに始まり、ついで全身を使うサーキット・トレーニングが加わる。学生は各人、硬い紙のスコアカードが渡される。それに毎回、自分のスコアを記録して行く。たとえば右手にダンベルを持ち、右肩の上において、肘を伸ばして持ち上げる。その単純な、要素的な運動を、何回やれるか記入していく。

教師のインストラクションは、こうだった。「もし君らが、8回未満しかその運動ができなかったら、それは負荷が重すぎるのだ。そのときは、1kg軽いウェイトを使え。また、逆に16回以上その運動ができた場合、負荷が軽すぎる。だから1kg重いウェイトを次回はトライすること。重すぎるウェイトで無理を続けてりしてはいけない。それは筋肉にむしろ障害を与える。軽すぎる負荷では、もちろん筋力の向上にはつながらない。」 そしてまた、こうも言った。「こうしたトレーニングのための運動は、週1回では足りないことが統計で明らかになっている。7日たつと、獲得された筋力がもとに戻ってしまうのだ。週2回やれば、筋力は維持される。だから本校の体育の授業は教養過程の間、週2回に設定している。」

そして極め付けは、これだった。「諸君は別に他人と比べる必要はない。各人の運動能力はそれぞれ別で、個性があるのだ。だから、過去の自分とだけ比較して、向上を確認すればいい。」

実際、毎週同じトレーニングを続けて行くうちに、少しずつだが自分のスコアは着実に上がって行った。それは、とても喜ばしいことだった。自分にも運動面で向上する余地が、あるいは可能性があるのだ。トレーニング内容は少しずつ組み合わせで複雑になって行ったが、プログラムが緻密に設計されているため、ついて行くことができた。何より、他人と比較されて、劣等感を感じずに済んだ。それは、生まれてはじめての事だった。

そして逆に、それまで10年間受けてきた体育は、いったいなんだったのか、と思わざるを得なかった。運動部の、ほとんどプログラムも設計もない、ただむやみなジャンプやダッシュや筋肉運動の数々。そして体力をつけるため「体をいじめる」という、不可思議な観念。それは単なる精神主義の産物ではないのか。こうしてスコアに記録して数値化し、それを集めて分析し、さらにプログラムの設計を向上させる、という科学的発想はどこにも見られなかった。だが、あきらかに体育は科学の対象なのだ。目から鱗が落ちる経験とは、まさにこのことだった。

それから、長い年月がたった。会社に入り、またわたしは運動ともスポーツとも縁のない生活になった。最初の頃こそ昼休みのジョギングとかプールでの水泳などをしていたが、次第にいつの間にか遠ざかり、気がつくと筋肉は衰え、おなか周りばかりが成長した。

このままではまずいと、中高年になってからヨガを始めた。ひとのすすめもあってはじめたのだが、最初はひどくつらかった。何せ、非常に体が硬いのである。ヨガは様々な「ポーズ」をとることが基本だ。そのポーズが、ちっとも決まらないのである。他人がやすやすとやっている(と見える)ことが、自分にはほとんど拷問だった。金を払ってまで、なんでこんな辛い思いをしているのか、思わず自問自答した。それでもすぐにやめなかったのは、ヨガをやった日は多少よく眠れたからだった。

しかし、しばらくして良い先生と出会うことができた。この先生はエクササイズの途中の段階に来ると、目を閉じてやってください、と指示する。そして、「自分の体の状態に意識を向けるよう集中してください。他人と比べる必要はありません。」という。このことで、随分、気持ちが楽になった。自分だけ上手にできなくても、それを恥ずかしく思う必要はないのだった。おかげでそれ以来、相変わらず体は硬いが、何年間も続けられている。体の硬さも、ほんとうにゆっくりではあるが、少しは改善されてきた。

競争原理で人は動く、と広く考えられている。それは確かにそのとおりだ。競争があったからこそ、発明も進歩もあり、人類の生活はここまで発展することができた。だから、学校でも企業でも、人をお互いに競争させ、順位をつけることで管理する仕組みが広がっている。入学試験しかり、業績評定しかり、昇進しかり。

しかし、このような競争原理による人の管理には、一面、不安定な部分がある。それはトップ2〜3割の人間にはとても効果的に機能するが、それ以外の7〜8割は途中から次第に息切れしていく点だ。そしてボトムの1〜2割は、早くに競争に背を向け、戦線離脱していく。残る5〜6割の、いわゆるボリューム・ゾーンにいる人たちのモチベーションをどうやって維持するかが、このような管理手法の課題になる。

ところで、あの体育の先生はわたしたち学生を「管理」していただろうか? そうではなかった。記録を見て何か異常を発見したり、実技で怪我が出たりしたときには介入したが、それ以外はわたし達にまかせた。わたし達はいわば、自分で自分を管理したのだ。マネジメント理論の用語でいえば、『目標管理』(Management by Objective)である。先生の役割は、プログラムをつくり、記録・データを分析し、異常がないかを見守っただけである。わたしは、他人ではなく過去のわたしと競争していた訳だ。

だれしも、管理されるのはいやだ。でも、能力は向上したい。もしも人と比較して管理されるのが嫌なら、自分自身が設定した目標とくらべて向上を図るしかない。「目標管理」がひろく用いられる所以である。逆に、むきだしの競争原理が、科学と無縁の根性論に結びついて生まれた「管理」システムは、ボリューム・ゾーンの人のやる気を傷つける可能性さえあるだろう。

大学入学後に義務づけられた最初の半期が終わった後も、わたしは、また「トレーニング」クラスを選択した。今度は自分の意思である。わたし自身はボリューム・ゾーンの、かなりボトムの方だった。それでも楽しく授業を受け続けた。良いプログラムと、数値に基づく自己目標と、データの科学的な分析。それがあれば、あとは人は自分で育つのだ。

そのことをわたしは、ちゃんと学んだだろうか? 毎晩、寝る前にストレッチをしながら、今日も職場で余計な「管理」をしていなかったか、自分で反省しつつ思い返してみるのである。
by Tomoichi_Sato | 2013-07-21 23:41 | ビジネス | Comments(2)
Commented at 2016-02-03 10:24 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by まつやま@旅人 at 2018-02-23 11:28 x
Tumbler経由で拝見させてもらいました。
良い記事でした。当方も体育は苦手な科目であり、こうしたまともな授業なる存在があることを初めて知りました。科学は進歩しているのに義務教育はそれに着いていってない、良い表現だと思います。色々腑に落ちました。
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