連載【落語に学ぶ住まいと街(21)】
落語好きの住宅ジャーナリストが、落語に出てくる江戸の暮らしを参考に、これからの住まい選びのヒントを見つけようという連載です。
ある大店(おおだな)の若旦那の徳三郎は、道楽が過ぎて勘当になる。しかたなく、馴染みの船宿の2階で居候(いそうろう)の身の上となるが、突然「船頭になりたい」と船宿の親方に頼み込む。
「簡単に見えても、船を漕ぐのは難しい」と断ったものの、徳三郎に押し切られて、やむなく承諾した親方は、船頭たちを呼び集めてそのことを伝えようとする。すると、呼ばれた船頭たちは、親方から小言で呼ばれたと勘違いし、先に謝ってしまえとばかりに、自分たちのしでかした失敗を次々に白状してしまう。
さて、船頭仲間に加わった若旦那だが、そう簡単に船を漕げるわけがない。ある日、船頭が出払ったところに、常連の客が船を出してほしいと船宿にやってくる。船宿のおかみは船頭がいないからと断るが、暇そうに居眠りしている徳三郎を客が見つけてしまう。客にせがまれて、おかみの心配をよそに、若旦那は客の二人を乗せて大川(隅田川)に船を出すことに…。
このあと船頭の徳さんは、まず船を出すときに失敗し、船を出してもグルグル回ったり、石垣にくっつけたりして、思うように船を扱えない。あと少しなのに、浅瀬に乗り上げて、「もうダメ」とへたり込んでしまう。
諦めた客の一人がもう一人をおぶって、川の中を歩いてようよう岸に上がる。振り返った客が徳さんに声をかけると、徳さんが一言。「(私のために)船頭を一人雇ってください」
江戸は水の都、イタリアのベニスのように水上交通が発達した都市だった。江戸の街をつくるときに、材木などの建築資材はもちろん、米や塩などの食料を海から運び入れる必要があり、大川(隅田川)を中心に、開削して人工の川や堀を縦横にめぐらした。それはさながら、現代の道路網や鉄道網のようだった。
そして、水上交通を支えたのは、船宿だった。船宿は、船頭をかかえ、屋形船や猪牙(ちょき)船(=小舟)などの船を備え、人や荷物を搬送した。もっとも、川遊びの客の飲食・宴会も仕事のうちで、男女の密会の場所にも使われることがあったそうだ。
川沿いには蔵が立ち並び、船で米や酒などを運び入れた。陸上の馬での輸送に比べ、大型船は大量に積み荷ができるので、大阪などの遠方や近郊から物資を運び入れるのに活躍した。大型船は沖に停泊し、荷足船に積み替えて蔵の入り口まで運んだ。
一方、江戸っ子の交通手段は猪牙船や渡し船などだ。
猪牙船は、船頭が一人で漕ぐ、客を一人か二人乗せられる大きさの舳(へさき)が尖った小型の高速艇だ。現代でいうとタクシーのような役割を果たした。ただし、船体の細い猪牙船を繰るのは難しく、相当の技術と経験が必要だった。そのため、猪牙船を船宿でチャーターすると、値段も高くなり、現代のタクシーに比べると庶民には手が出しづらい高級なものだったようだ。ちなみに、「守貞謾稿」によると、柳橋から山谷掘までが片路148文とあり、おおよそ三千数百円程度だったと考えられる。
一方、庶民がよく利用したのは、渡し船だ。大川(隅田川)に架けられた橋が今のように多くはなかったので、対岸の町へ行くには、渡し船が活躍した。船着場から一日何往復かする定期便で、人だけでなく馬も乗れたそうだ。渡し賃は川幅にもよるが、団子1本からそば1杯分(16文)程度の料金だったという。
江戸時代には、現代の道路や鉄道網のように縦横に整備されていた水路だが、高度成長期になると、船から大型トラックによる輸送に取って代わられる。東京では、道路を造るために次々と川が埋め立てられ、高速道路が橋や川の上をおおうようになっていった。
ちなみに、こうした船を操る船頭たちは、粋で高収入だったので、女性からモテる職業だったという。若旦那がなりたいと言い出したのも、こうした理由があったからだろう。