連載【落語に学ぶ住まいと街(22)】
落語好きの住宅ジャーナリストが、落語に出てくる江戸の暮らしを参考に、これからの住まい選びのヒントを見つけようという連載です。
桶に水を入れて担いで売る「水屋」という仕事。重いけど安い料金でしか売れず、しかも、お得意さんが待っているから一日も休めない。大変な仕事だ。
ある水屋が、なけなしの金をはたいて富くじを買ったら、幸運にも千両が当たった。「水屋から足が洗える」と大喜びで、手数料の2割を引かれた800両を持ち帰る。しかし、水屋はお得意さんが干上がるので、代わりが見つかるまで辞めるわけにはいかない。
困ったのは、お宝の800両の隠し場所。持ち歩くわけにもいかず、悩んだ挙句、ボロ布でくるんで縁の下に隠した。やれ安心と商売に出てみるが、周りがすべて泥棒に見えてしまう。商売もそこそこに家に戻って、縁の下のお宝を確かめて安心して寝るのだが、今度は泥棒が夢に現れて殺される夢ばかり見る。毎日これの繰り返しで、水屋はもうフラフラ。
水屋が毎晩縁の下を確かめるのを見ていた、隣の遊び人。何かあるなと縁の下を探して、お宝を見つけ、そっくり盗んでしまう。驚いたのは、戻ってきた水屋。縁の下のお宝が無くなっている。そして一言、「これで苦労が無くなった」。
「水道の水で産湯(うぶゆ)を使う」が自慢だった江戸っ子。江戸市中は水道網が整備されていた。玉川上水(多摩川が水源)と神田上水(井の頭池を水源)の2大水系を中心に、6つの上水があったというが、8代将軍吉宗のころに、それ以外の千川上水、青山上水、三田上水、亀有上水が廃止された。
水道は、川の水を土地の高低を利用した自然流下式で、木や石でつくった樋を水道管として流した。江戸市内は坂が多いので、緻密な計算が必要な難しい事業だった。
例えば、最も規模が大きい玉川上水は、羽村から四ツ谷大木戸までは、多摩川から開渠(かいきょ=地表に水路を通す)で流し、四ツ谷大木戸から江戸市中には暗渠(あんきょ=地下に水道管を埋める)で給水した。水質や水量の管理のために、四ツ谷大木戸などには、水番屋を置いた。
江戸っ子は、この水道の汲み出し口である井戸(水道井戸)を利用した。掘り抜き井戸と違って深くはないので、写真にもある竹の柄のついた汲み桶で井戸から水を汲んだ。
本所・深川などの下町は、上水が隅田川を越えられなかったり、埋め立て地で水質が悪かったりして、飲料水に困るエリアとなっていた。そこで、水道の水を売り歩く「水屋」という商売が登場する。
水屋は、1荷(か)の水を4文で売っていたという。1荷とは、天秤棒の前後の桶2つのこと。その重さの水を、16文だったそばの価格の4分の1で売るのだから、利の薄い商売だ。それでも、得意先が決まっていたので、水屋のほうでも、どの家でいつごろ水が不足するかを把握して売り歩いたそうだ。
現代では、蛇口をひねれば衛生的な水や湯が流れるのは当たり前になっている。しかし、江戸時代は、自宅まで水を運ぶことも重労働で、飲み水は絶えず新しくしておかないと腐ってしまうといったこともあって、水を大切に使っていたのだ。