流通業界の再編はかつての1兆円企業をも飲み込んだ。イオンはダイエーの完全子会社化を発表。2018年までにダイエーの屋号もイオンに改めるという。ダイエーの創業者・中内功氏と、ダイエーが最も輝いていた時代のエピソードを、佐野眞一氏が綴る。(文中敬称略)
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中内が人肉食いの噂まで出るフィリピンの飢餓戦上で、敵の被弾を受け朦朧とする意識の中で、子どもの頃食べた牛肉のすき焼きをもう一度腹いっぱい食べたいと思ったことが、戦後、スーパーを始めるきっかけになったことはよく知られている。
中内にとって人々を満腹にさせることが、小売業の原点であり、無駄な戦争を未然に防ぐ手立てでもあった。中内が大阪と京都を結ぶ京阪電車沿線の千林駅前に「主婦の店・ダイエー1号店」を出すのは、1957年9月23日である。その前年、経済白書は冒頭に「もはや戦後ではない」と高らかに宣言していた。
開店前日、中内以下13人の従業員はベニヤ板を敷布団代わりにして、棍棒片手に店に泊まり込んだ。安売りを妨害するため近くの商店が雇った暴力団の殴り込みに備えるためだった。ダイエーの安売りは評判を呼び、首からゴムひもでつった定期券をぶら下げた主婦たちが京都から大挙して買い物にやってきた。
この年の大晦日、千林商店街を埋め尽くした買い物客は、憑かれたように店に吸い込まれていった。閉店したのは翌日元旦の午前2時すぎだった。千林の繁盛店でも一日1万円の売り上げは至難とされていた時代だった。だが、ダイエーの売上げはこの日1日で100万円を記録した。店内に残っていたのは歯ブラシ3本とオカキ2袋のみだった。
ダイエーの名前を一躍高めたのは、東京五輪が開催された1964年から始まった松下電器との30年戦争である。適正価格を主張する松下に対し、中内は「いくらで売ろうと勝手。価格はお客が決める」と対抗して、当時破格の5万9800円というプライベートブランドのカラーテレビを発売した。価格はメーカーではなく、客が決める。これが中内の流通革命の生命線だった。
※SAPIO2014年12月号