2014年12月2日火曜日

DJ JET BARONこと高野政所、『ENAK DEALER』発売に寄せて



2014年12月3日にメジャー・1st・アルバム『ENAK DEALER』をリリースする
FUNKOTの伝道師DJ JET BARONこと高野政所による寄稿文を掲載します。

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37歳になってメジャーデビューするとは思いもよらなかった。

自分が音楽をはじめたきっかけや、そこで最も大きな影響を受けた電気GROOVEやテクノミュージックについては、http://next33.com/blog/33/2012/09/26/171.php で以前語らせて頂いたことがあるので、その辺のお話はそこで読んで頂きたい。

ナードコアテクノ以降の話を振り返りながら、ここまでの道筋を追って行きたいと思う。

ナードコアテクノは確かにアンダーグラウンドで一時代を作ったといえるかもしれない。当時、サブカル雑誌の急先鋒だった『クイックジャパン』誌に特集が組まれ、その後、アクション映画についてのライターなどでお世話になった『STUDIO VOICE』誌にも続けて特集が組まれた。

テクノ・ミュージック、とりわけ、身近なおもしろサンプリングを使った、のちにナードコアテクノと呼ばれるようになるジャンルをはじめた頃は、いつか「人前でライブをしたい」「レコードをリリースしてみたい」というのが目標だった気がする。

幸いにも良い先輩にも恵まれて、その夢は割と早い段階で叶うことになった。

クソつまらない大学生活を送りながら、家でシコシコとテクノミュージックを作っていた頃、名前だけ加入していたような音楽サークルの同級生から誘いがあった。
「調布33RPMというクラブで友達がテクノのイベントをやるから、おまえ、曲を作ってるんだったら、ライブで出てみないか?」という誘いだ。
当時は19歳くらいだったと思う。なにしろ、いつに何があった、とか細かく覚えてない性質なので、ハッキリしないが、おおよそ18年くらい前の話だったはずだ。

ライブをするにあたって、スパイダーマンに出てくるロボット「レオパルドン」から名前をもらって、ユニット名を適当につけた。

そこで当時東大生の渋田靖さん(その後のアシパンの母体、インディーズテクノレーベル「ACID PANDA MUSIC」を立ち上げた方)という大変お世話になった先輩や90年代、ネットがここまで普及する以前に「インターネット・テクノ・レーベル」を謳っていたインディーズレーベル、NNR(ニューロ・ネット・レコーディングス)の主催者である秋山智俊さんと知り合うことになった。

はじめてのライブで披露した曲はなんだったろう。
そう、ゴレンジャーの名乗り声をサンプリングした「キレンジャー」や電人ザボーガーの主題歌をサンプリングしたハードなテクノだった。もちろんそのジャンルにはナードコアなんて名前もついていなかった。

とにかく機材的にも進歩していない時代だったので、毎回カートにハードウェアのシーケンサーやシンセサイザーをみかん箱に突っ込んで運んでライブしていた。CDJもない時代だし、パソコンも無かったからCDRに焼くなってこともできない。しかも、一曲一曲ごとにデータをフロッピーから読み出すのに時間がかかっていたので、各DJDJの合間に一曲ずつライブをしていた。

それが何故か評判を呼び、当時アンダーグラウンドテクノ界でも有名だったミニコミ「デジタルビスケット」に取り上げてもらったりした。

活動をはじめて、おそらく二年後には、おもしろ半分で(とはいえ、レコード自主製作には30万円くらいかかったはず)自主制作レーベルNNRから、T.KITANI君というテクノアーティストと共同で「電人EP」を出すことが出来た。そのユニット名はSAMA SAMA SUKA、「お互いに好き」という意味のインドネシア語だった。なぜ、そこでその名前になったのか分からないが、今思えば必然というか、奇妙な話だ。

SAMA SAMA SUKA名義ではたしか二曲。「MID NIGHT DANCER」と「SPIRITUAL DANCER」という曲を作ったと思う。どっちもハードでミニマルなテクノに若き日の自分の声で説教が乗っているものだ。「MID NIGHT DANCER」は曲の途中で非常ベルの音が入り、「一階女子トイレから火災が発生しました」という声が入り、フロアを大混乱に陥れる楽曲だった。その後「うそです」といい、その後、皮肉めいたテクノミュージックの悪口を延々言い続けるという本当にふざけた楽曲だ。

SPIRITUAL DANCER」はもっとひどくて、デトロイトテクノ風のトラックの上で、延々、某テクノ専門誌で語られるような頭でっかちでスピリチュアルな語り口でテクノの素晴らしさを語った後に、「気持ち悪いんじゃー!」とそれらを全否定するナレーションが入っていた。

当時からおもしろ半分でそういう曲を作り、おもしろ半分で大金をブチ込んで(いや、ブチ込んでくれたのは先輩達だったが)アナログ盤をリリースしていた。「SPIRITUAL DANCER」が収録されていた二作目の「猛犬ep」から、現在のアシパンの母体となるACID PANDA MUSICからのリリースだった。その後、何枚か本当にふざけた内容のサンプリングネタもののテクノを何枚かリリースした。この当時の音源を聞いていた方は同世代やそれ以上のDJの方も多く、あの当時、そんなふざけたものをリリースするレーベルなんて無かったから、記憶に残っている方もいらっしゃると思う。

そんなリリースとライブを繰り返すうちに今はなき恵比寿みるくの大きなテクノイベントでレギュラーでライブをやらせてもらったり、結構楽しく活動していた。

もちろんずっと童貞だったけど。

やがて自分の家にもパソコンが導入され、インターネットがつながり、レオパルドンの活動が何年続いたか分からない頃、TOY LABELの中島君(カラテクノ、バブルB)に声をかけてもらって、関西や東京の「ネタモノテクノ」をやっている人たちが集うイベント「SPEED KING」に参加させてもらうことになった。のちのナードコアのムーブメントの母体となるイベントである。ここで、今でも盟友関係になるDJ急行とも知り合ったし、はじめて全国に似たような音楽をやっている人間がいるのだな、と知った。やがて、このイベントは、やっている事やコンセプトはそれぞれ全然違うし、自然発生的に出てきたものだったが、当時、サブカル雑誌の急先鋒であった『クイックジャパン』にナードコアとして紹介された。

それ以降、アンダーグラウンドなテクノ・シーンにナードコアは微妙に認知され、アンチも出る中、活動自体はそれなりに軌道にのっていった。BSテレビに出演したり、それなりのメディアに紹介されたり、地方遠征もするようになった。

そしてファースト・インディーズ・アルバム『CAKE OR GIRL』が何年か忘れてしまったがリリースされた。(編注:2001年リリース)。

そのマスタリングをしてくれたのは現在ではアイドル楽曲を作ったり、サイバーパンクバンド、VALKILLYを主催、その後一緒にレオパルドンに加入し、アシッドパンダカフェを立ち上げることになるフランク重虎、ジャケットやCD全体のデザインをしてくれたのはセーラーチェンソーの春山くんだった。

CAKE OR GIRL』は好事家の間で話題になり、新宿タワーレコードのインディーズチャートで2位になったり、と、かなり手ごたえがあった。

もちろん童貞のまま。

内容は完全に違法サンプリングばかりのとんでもない代物で、今思うとよく流通できたな、と思う。このアルバムは後に氣志團の綾小路翔さんのツイートで、売れる前の氣志團のツアー中の車でずっと聞かれていたことが数年前に判明。そういや、売れる直前の氣志團のライブで翔さんに手渡したことがあったなぁ・・・

数年後にはヤフオクで2万円ぐらいで売られていてびっくりしたこともあった。

しかし、しょせんナードコアは違法音楽。犯罪音楽だ。
話題にのってお金の匂いをかぎつけた大人にメジャーデビューの話を持ちかけられたこともあったけれど、違法サンプリング無しには成り立たないこの音楽ではしょせんやりようがなくてその話は消えていった。

ナードコアはやがて、日本のガバ/ハードコアに吸収され、J-COREという名前でオタクを中心に世界に発信されていくことになるが、俺はその頃、ハードコア化して、早回しのアニメの歌をのっけた、というナードコアの「進化系」に面白みを感じなくなっていた。いわゆるみんながやり始めたからつまらなくなった。状態だ。

その頃、ミニマル感が極まっていたメインストリームのテクノにもいまいちハマれず、色々な音楽を聴き始めていた。その中で衝撃だったのが、2000年頃のK-POP
今のEDM路線とは違ういなたいメロディのダンスビートに心をつかまれた。超カッコいい男の子や超キレイな女の子がハードコアなラップをかましたり、テクノのビートで歌い踊っている色彩感の豊かな音楽だった。テクノに身をおいた人間は一時期、必ずJ-POPを否定したがる。かといって英語の洋楽を聞くわけでもない。そこで、折衷案として言葉が分からないけど、なんとなく親しみのあるK-POPに走ったんだと思う。それに香港アクション映画が大好きだったし、アジアって事でなんとなく。

当時流行っていたH.O.TYG FAMILYなどのPVにフランク重虎と夢中になっていたものだ。

H.O.T/ WE ARE THE FUTURE

YG FAMILY- FAMILENIUM

奇しくもYG FAMILY2010年代に入ってから、BIG BANG2NE1で、アジア中にK-POPブームを巻き起こし、やがてPSYを輩出し、世界的なヒットを飛ばすことになる。この時点で1999年。そう、俺はいつでも10年は早かったのだった。

そしてもちろん童貞だった。

K-POPに夢中になる中、韓国にテクノ・シーンはあるのか?みたいな流れになり、韓国の今は無きテクノレーベルDMS TRAX と契約し、韓国でもライブを行った。恐ろしいことに、そのとき、韓国国内で発売されたDMS TRAXのコンピレーションに電気GROOVEの「FLASH BACK DISCO」とともにレオパルドンの楽曲が収録されたし、日本でも韓国のテクノユニット GAZAEBALのアナログをアシッドパンダから出した。近年の韓流ブームとは程遠い世の中だったので、全くヒットはしなかったが、とても楽しかった。そして、世界を震撼させたアジアのおもしろおじさんの大御所、イ・パクサとのコラボレーションもした。というか俺の既存のトラックにパクサが声をのっけただけだが。だから、パクサ本人とはあった事はない。

やがて、K-POPと同時にアジアンポップスの研究を開始、同時に韓国HIPHOP、ことさらYG FAMILYでラップやヒップホップのヤバさに目覚め、日本語ラップをにハマりはじめる事になる。

そんなインプットが形になったのが2002年にリリースした2NDアルバム、『去年出たやつ -Released last year』だ。2002年に出たけど、タイトルは「去年出たやつ」だ。ふざけている。

この中ではテクノに犯され、日本語ラップにやられ、アジアのポップスに引っ掻き回された音楽性だった。もちろんネタモノテクノ、いわゆるナードコア的なものも入っていた。だが、今までどおりのネタモノテクノ、ナードコアを期待していたお客さんはここで一気に離れた。

ここからさらにラップへの傾倒は続き、下手すりゃ現役のラッパーよりも日本語ラップについて詳しい知識を持っていた。K-DUB SHINE、ラッパ我リヤ、そして風林火山が大好きで、始終、韻の事を考えていた。

レオパルドンの活動はテクノイベントを中心によくわからない方向に進んでおり、遊園地や映画館、中野サンプラザでビッグバンドと一緒におばちゃんおじちゃんの前で、とか本当に迷走していたと思うが、テクノのトラックでラップをしていたグループは当時ほとんど無かったので、とにかく最先端であったことは確かだと思う。

2004年には3RDアルバム『ヤバコプター』を発表。デザインはNENDO GRAPHICS

レオパルドン「ミュージカル・ミュータント」
何より、これがYOUTUBEに上がっててびっくりした。こんな感じの音楽をやっていた。

まだ童貞。

大学を卒業し、超就職氷河期で就職もできずにバイトでぶらぶらしている期間を経て、2005年にアシッドパンダカフェが大岡山にオープン。

そして、聞く音楽をフィードバックしながら日本語ラップ(おもにウェストコースト)とレゲエとテクノとアジアンポップスとワールドミュージックと何かが混ざった状態でレオパルドンはメンバーを変えながら活動を続け、現・HABANERO POSSEで大活躍中のGUNHEADと二人のユニットとなり、これでなんとかなるやろ!的に 2007年にDJ MIKUさんのインディーズレーベルELECTRIC PUNCHESより4THアルバム『GAME CENTER 2 HOME CENTER』を発売した。ジャケットデザインは高橋ヨシキさん。

ところで、今検索したらiTunesで買えるようでびっくりした。

インプットしたものを自分の中で解釈してアウトプットしていったら、本当にワケが分からなくなり、当時、このアルバムはKAGAMIのとなりに並べられていたり、再結成した雷家族のとなりにおかれたり、レゲエの棚に置かれたりした。

「お前達の音楽には住所が無い、だから売れない」とよく言われたものだ。

これがあんまり売れなかったものだから、もうプロになるのは無理だなーと思いつつ、アシパンの運営をやりながら、頼まれたらライブをする、頼まれた曲を作る、的なあまり身の入らない楽活動をしていた。

この頃はDORAMARUGUNHEADとの三人体制。この時期の代表曲と言えばこれだろうか。

ゲーム「塊魂」より 月と王子(とLEOPALDON REMIX

コンピ「SPEED KING COMPILATION」より「GEAR OF PARTY

そして時は過ぎ、いつの間にやら(風俗で)童貞を捨て、モンハン2Gに狂ったようにハマっている間にメンバーGUNHEADはアレよアレよという間に、HABANERO POSSEとして、日本のベースミュージックの旗手的な存在に。

俺はその間、そう、2009年に自分の人生を一気に変える音楽と出会うことになる。

それがINDONESIA HOUSE MUSICFUNKOTだったのだ。
FUNKOTのあらゆる要素が自分好みだった。
ああ、この音楽は俺がやるべくしてやる音楽だ、と。

疾走感、エレクトリックなビート、ナードコアを思わせるボイスサンプリングの嵐、
ぶっ飛んだシンセサイザーの音色、著作権をガン無視したREMIX
カッコいいとかダサいを超越した「楽しさ」。
そしてここに唯一無二のアジア感、オリエンタル感が加わる。

そこからの五年間は底なし沼にハマるようにFUNKOTを追求し続けた。だって、今まで聞いてきた数々の音楽の中でも最高に刺激的で最高に面白かったからな!

同時期にFUNKOTを発見したJOCKIE "MASTABASS" SUAMAと一緒にFUNKOTパーティーをやっていた頃はお客さんが一人、という時もあった。
それでもこの音楽のヤバさを伝えるためにはどうしたらいいかずっと考えていた。
古川耕さんに声をかけて頂き、宇多丸さんの『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』に出して頂いて特集を組んで頂いた頃は俺も「おもしろ半分」でFUNKOTを紹介していたが、2010年にバリ島に渡って以来、メシを食ってる時とオナニーしてる時以外はFUNKOTをどう広めるかについて考えて続けてきた。冗談でも何でもなく、本当にそればかり考えていたと思う。

そして2011年、2回目のジャカルタ渡航。
前年に母親を亡くしてはいたが、FUNKOTのことばかり考えていた俺は最高に親不孝だったと思う。そして、母親についでガンを発病し手術入院中だった親父は「お前がそこまで賭ける気があるなら行ってこい。俺の事は心配するな。お前のラジオでの話しを楽しみにしている人たちがいるんだろう?」と言って俺をこころよく送り出してくれた。

親父は手術直後だった。

そんな親不孝をしてまで行ったジャカルタ滞在は本当に得るものが多く、刺激と感動の連続だった。俺は残りの音楽人生をFUNKOTにかけよう。絶対に日本でも広めようと決意を堅くした矢先、翌日に日本に帰るという日にジャカルタの滞在先に日本の親戚から電話がかかってきた。親父が手術後に経過が悪かったのか、急逝してしまったのだった。

金にもならない音楽の調査のために、ガンで闘病中にも関わらず、こころよく息子をインドネシアに送り出してくれた親父にインドネシアで見てきた、体験してきたことを話すことは出来なかった。

そして、こうして37歳のオッサンになってメジャーデビューさせてもらう事になろうとは親父は思っていただろうか?

親父は植木職人で頑固な男だったが、成功や失敗に関わらず俺がやりたい事はやらせてくれた人だった。

そんな親父が天国で今も見守ってくれている、なんてクサい事は言いたくないが、俺はFUNKOTのために最大の親不孝をしてしまった。だからこそ、全精力を注いでこの音楽にかける事がせめてもの報いだとも思っている。

そして、この音楽のヤバさに共感してくれた仲間達やこれまでお世話になった人達、毎回パーティーに来てくれるお客さん達、メディアの人たちに本当に感謝しています。
そしてさんざんディスってきたり、バカにしてきたお前らにも感謝してます。
お前らがダサいだの頭悪いだのバカにしてくれたから、ここまで踏ん張れたんだし。

あとは結果を残さないとな!!
というわけで、長々とありがとうございました。

このメジャー・1st・アルバム『ENAK DEALER』は自分の10代後半から今までの音楽、ラジオ、そのほか含めた全ての活動の集大成になっていると思います。
必ず買ってくれ!とは言いません、が是非聞いて欲しい作品です。

ここまでやれたのは本当に皆さんのおかげです。
そしておじさんになってからでもメジャーデビューできるんだぜ!!
だから、今やってる奴は諦めんじゃねえよ。かっこつけて皮肉ばっか言ってる奴も何かに本気になってみろよ!とまるで松岡修三さんのような事を口走ってしまいそうな心持ちです。

いよいよ、DJ JET BARON、高野政所、遅すぎたメジャーデビューアルバム、『ENAK DEALER』、発進です!!アジア発の音楽がダンスミュージック史を変える、そんな夢を一緒に見ましょう!ティッケー!!!

DJ JET BARON a.k.a. 高野政所


 
  











DJ JET BARON『Enak Dealer』

発売日: 2014.12.03
価格(税込): ¥2,376
品番:UICY-15352
http://www.universal-music.co.jp/dj-jet-baron/products/uicy-15352/
https://itunes.apple.com/jp/album/id937653207

 

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