ニュース&トピックス

みどころ

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「天下分け目の大展覧会!」
武将たちが関ヶ原で実際に用いた、武具・甲冑などを過去最大級の規模で展示。
「関ヶ原合戦を読み解け!」
合戦に参加した武将が戦場でやり取りした手紙などから、関ヶ原合戦の真実を探ります。生き残りを賭けた決死のドラマをひも解きます。
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「3会場全てを見よう!」
国宝・重要文化財は、出陳可能期間が制限されます。一つの会場の、ある時期にしか見られない貴重な出陳品もありますので、全ての会場をお見逃しなく!
「最新技術の映像展示!」
最新技術を用いた『ジオラマ・プロジェクションマッピング』を使用した映像を展示。関ヶ原の地形、天候の変化、各大名の動きなどが刻々と再現され、『上空から見つめる軍師』として、合戦を展観できます。
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作品リストはこちら

注目の出陳品

『関ヶ原合戦画屏風』『関ヶ原合戦絵巻』の出陳数10点以上(3会場合計・予定)は過去最多。美しく、色鮮やかな屏風・絵巻類は、一級の美術品としても大変見ごたえがあります。(重文を含む合戦図を東京、京都、福岡各会場にて分散展示)

関ヶ原合戦前日に密約を交わした誓約書など、関ヶ原合戦にまつわる貴重な古文書を展示。有力武将たちがしたためた文書から、“信頼”“裏切り”“凋落”などが読み取れ、当時のスリリングな情報戦が浮かび上がります。天下分け目の関ヶ原合戦のみならず、“戦場外の戦場”も読み解いて行きます。

【東京展の注目の出陳品】

家康と徳川四天王の具足が勢ぞろい
関ケ原で家康が着用した伊予札黒糸威胴丸具足のほか、子息徳川秀忠・松平忠吉、重臣の本多忠勝・井伊直政・榊原康政・酒井忠次・同家次の具足が勢ぞろい。このほか、≪金扇馬標≫久能山東照宮蔵など、戦場に翻った旗・馬標などを多数展示。石田三成の愛刀≪刀 無銘 正宗 名物 石田正宗≫、や嶋左近の兜、大谷吉継の刀なども登場します。

重要文化財≪黒糸威胴丸具足≫個人蔵(岡崎市寄託) 【展示期間: 東京展 4月27日~5月17日まで】

≪朱漆塗紺絲威桶側二枚胴具足≫彦根城博物館蔵 【展示期間: 東京展 4月21日~5月17日まで】

≪朱塗色々威二枚胴具足≫致道博物館蔵 【展示期間: 東京展・京都展】

≪茶糸素懸威黒塗桶側五枚胴具足・鉢巻型兜≫榊神社蔵 【展示期間: 東京展・京都展・福岡展】


重要文化財≪刀 無銘 正宗 名物 石田正宗≫東京国立博物館蔵 【展示期間: 東京展】

≪五十二間筋兜≫久能山東照宮蔵 【展示期間: 東京展・京都展・福岡展】

≪短刀 銘 吉光 名物 包丁藤四郎≫徳川美術館蔵 【展示期間: 東京展・京都展】


【京都展の注目の出陳品】

大名物 初花
唐入れ茶入れの中でもとりわけ名品として知られる≪唐物肩衝茶入 銘 初花 大名物≫が登場。織田信長が所持して以降、徳川家康、豊臣秀吉、宇喜多秀家を渡り、家康の手元に戻った逸品です。小早川秀秋、細川忠興、池田輝政らの肖像画の出陳は京都展のみ。京都・東山の知恩院に安置されている、≪重要文化財 木造徳川家康坐像≫も会場に!

秀吉が所蔵し、大坂城落城後に徳川秀忠が所有した刀

重要文化財 ≪薙刀直し刀 骨喰藤四郎≫ 豊国神社蔵

【展示期間:東京展3月28日〜4月19日まで 京都展:6月2日〜6月28日まで】

徳川家康の所蔵の名品

重要文化財 ≪唐物肩衝茶入 銘 初花 大名物≫ 徳川記念財団蔵 【展示期間: 京都展】


【福岡展の注目の出陳品】

西国大名と関ケ原、長政の活躍に注目!
毛利輝元、吉川広家、黒田如水・長政父子、立花宗茂、鍋島直茂・勝茂父子、加藤清正、島津義弘といった名だたる西国大名が登場! とくに黒田長政の活躍に注目です。西軍の主力石田三成隊を撃破するだけでなく、事前の調略により毛利軍の不戦や小早川秀秋の寝返りをお膳立てします。ゆかりの武具甲冑や水面下で届けられた密書は必見です。

関ヶ原合戦前日に交わされた毛利軍不戦の密約書

重要文化財≪井伊直政・本多忠勝連署起請文≫毛利博物館蔵 【展示期間: 福岡展】

関ヶ原合戦前に家康が長政の活躍を期待して贈った兜

≪黒塗南蛮鉢歯朶前立兜≫福岡市博物館蔵 【展示期間: 東京展・福岡展】

徳川家康の所蔵の名品

重要文化財≪銀箔押一の谷形兜・黒糸威五枚胴具足≫ 福岡市博物館蔵 【展示期間: 福岡展】


関ヶ原とは

プロローグ ~描かれた戦場~

 慶長5年(1600年)9月15日、朝もやが晴れると美濃国関ヶ原に銃声が響きわたった。天下分け目の合戦の始まりである。
 そこで繰り広げられた「もののふ達」の戦いは、やがて、その子孫たちに伝説として語り継がれ、数多くの屏風や絵巻物などの作品に描き残された。画面一杯に描かれたその情景には、さまざまな物語が描き込められている。多くの作品の中心には、徳川家康が、金扇馬印と旌旗に囲まれて、華々しく描かれている。関ヶ原の戦いは、そこで勝利を収めた徳川家をはじめとする大名家の、後世、御家繁栄の起点であった。

<関ヶ原戦陣図屏風右隻>福岡市博物館蔵

≪関ヶ原戦陣図屏風右隻≫福岡市博物館蔵 【展示期間: 福岡展】

1 再乱の予感

 慶長3年(1598年)8月18日、太閤秀吉がこの世を去った。盤石に見えた豊臣政権は、これを境に大きく動き始める。水面下にあった様々な対立関係が、やがて大きなうねりとなり、日本全国に広がっていった。
 次の時代を見据え、着々と足場を固める徳川家康。幼き後継者、豊臣秀頼を前面に押し出し、政権の中枢を狙う石田三成。この二人が、豊臣政権を「関ヶ原」へと、導いていくことになる。

<石田三成画像>龍潭寺蔵

≪石田三成画像≫龍潭寺蔵 【展示期間: 東京展 4月21日~5月17日まで・京都展・福岡展】

2 合戦の前夜

 慶長5年(1600年)6月16日、上杉に謀反の疑い有りと、徳川家康は軍勢を率い、会津に出陣した。この動きを待っていたかのように、石田三成は盟友、大谷吉継等とともに挙兵。日本中に激震が走る。「内府ちがひの条々」(徳川家康に対する告発文)を錦の御旗に、各地の大名達へ檄を飛ばし、反徳川勢力を結成して、手始めに伏見城を攻略する。徳川家康は、この事態を受け、石田三成勢と雌雄を決すべく、黒田、福島、細川等の諸将と共に西へ反転を開始。この動きに呼応して、戦の火の手は、瞬く間に全国に飛び火した。家康が去った東北では、上杉景勝(西)と伊達政宗(東)が激突。北陸では、前田利長(東)が丹羽長重(西)を攻め、九州においては黒田如水や加藤清正(東)が大友吉統(西)はじめとする西軍方諸将と干戈を交えるという、まさに全国的規模で関ヶ原の前哨戦が始まった。

<内府ちがひの条々> 福岡市博物館蔵

≪内府ちがひの条々≫ 福岡市博物館蔵 【展示期間: 東京展・福岡展】

<石田三成書状> 真田宝物館蔵

≪石田三成書状≫ 真田宝物館蔵 【展示期間: 東京展・京都展・福岡展】

3 決戦・関ヶ原

 慶長5年(1600年)9月15日早朝、決戦の火ぶたが切られた。明治時代に、当時の帝国陸軍軍事顧問であったドイツ陸軍のメッケル参謀は、関ヶ原の両軍布陣図を見て、西軍勝利を断言したという。有利な布陣と、東軍に劣らぬ大軍を擁した西軍は、何故敗北したのか。
 福島(東)対 宇喜多(西)この両軍の激突で始まった戦は(一説には、先鋒の福島隊より先に、井伊、松平の小隊が仕掛けたとも言われる)各所で激戦が展開されていく。 大谷吉継(西)の孤軍奮闘、黒田、細川(東)と石田三成隊の死闘など、後世に語り継がれた名勝負が続く中、一方で数々の諜報、謀略という裏側での駆け引きも密かに進んでいた。 関ヶ原には参加はするが動かない勢力。寝返りを思慮する者達。多くの武将が、疑心暗鬼の不安を抱える中、西軍の大勢力である小早川秀秋が動いた。徳川方からの調略の結果か、石田三成への私怨(三成の報告により、大幅な減封を受けた)か、味方であるはずの大谷隊に軍勢を向けたのだ。多勢に無勢の大谷隊は玉砕。圧倒的有利と言われた西軍は、これを境に大混乱に陥り、敗退した。 こうして戦国でもっとも長い一日が終焉をむかえた。

<金扇馬標>久能山東照宮蔵

≪金扇馬標≫ 久能山東照宮蔵
【展示期間: 東京展・京都展・福岡展】

<黒塗南蛮鉢歯朶前立兜徳川家康より黒田長政拝領>福岡市博物館蔵

≪黒塗南蛮鉢歯朶前立兜 徳川家康より黒田長政拝領≫ 福岡市博物館蔵 【展示期間: 東京展・福岡展】

重要文化財<徳川家康所用伊予札黒糸威胴丸具足>久能山東照宮蔵

重要文化財 ≪徳川家康所用 伊予札黒糸威胴丸具足≫ 久能山東照宮蔵 【展示期間: 東京展 4月25日~5月17日まで】

<伝真田昌幸所用昇梯子二枚胴具足>真田宝物館蔵

≪皺革包昇梯子文仏二枚胴具足≫真田宝物館蔵 【展示期間: 東京展】

<伊予札縹糸下散紅糸威胴丸具足>龍野神社奉賛会蔵

≪伊予札縹糸下散紅糸威胴丸具足≫ 龍野神社奉賛会蔵 【展示期間: 福岡展】


4 戦後の世界~天下人への道のり

<徳川秀忠書状>福岡市博物館蔵

≪徳川秀忠書状≫ 福岡市博物館蔵 【展示期間: 福岡展】

 関ヶ原合戦の本戦はわずか1日で決したものの、堅城をほこる大坂城には豊臣秀頼を擁する毛利輝元が在城していた。また、全国各地で東西両軍の合戦は継続していた。本戦に勝利した家康には、戦場から逃亡した西軍武将の捕縛とともに大きな課題が残されていた。
 家康は寝返った小早川秀秋らの軍勢に石田三成の佐和山城を攻めおとさせるとともに、黒田長政・福島正則を介して、輝元を大坂城から退去させ無血開城を実現した。
 10月1日、京都六条河原で石田三成・小西行長・安国寺恵瓊等は、合戦の首謀者として処刑された。戦後の論功行賞により、家康は全国総石高の3割を超える600万石余の所領を西軍に組した武将から没収し、東軍の諸将に分配した。家康の直轄領も400万石に倍増する。 他方、毛利輝元は防長2か国への減封、上杉景勝は米沢へ移転減封、佐竹義宣は秋田への移転減封。敗者の常ではあるが、西軍の中心的な武将は表舞台から消え去った。  家康は敵対勢力を一掃し、関ヶ原合戦の勝利により天下人の地位を大きく引き寄せた。 しかし、この時点では家康は豊臣家の大老という立場は変わらず、関ヶ原の合戦の結果(豊臣政権の内部抗争の集結)を豊臣秀頼に謁見、報告を行っている。
 家康が名実ともに天下人になるためには、豊臣家の権威を克服しなければならなかった。家康は、慶長8年(1603年)2月12日に征夷大将軍に任じられた。将軍となった家康と、関白秀吉の遺児豊臣秀頼という二つの権威を核とする政治体制が現出した。しかし、秀頼の成長と徳川家康の老境という関係は、否応なく次第に摩擦を生じるようになっていく。かつて豊臣家を支えた秀吉恩顧の武将たちもこの世を去り、時代は徐々に徳川家へと流れて行った。
 慶長20年(1615年)5月8日、燃え盛る大阪城の山里曲輪で豊臣秀頼とその母淀は自害した。豊臣家滅亡の瞬間である。大阪冬の陣・夏の陣は一つの時代に最終符を打つための最後の戦いとなった。

5 徳川家康の素顔

 天文11年(1542年)12月26日、三河国岡崎城主松平広忠の嫡男として、家康は誕生した。幼名は竹千代そして松平元康と名乗った。幼少の頃は駿河国に人質として過ごし、永禄3年(1560年)の桶狭間の合戦において今川義元が打ち取られる。以後、岡崎に帰城し、織田信長と同盟を結び、信長そして豊臣秀吉に仕え、天下統一の一翼をになうことになる。
 戦国時代に生まれ、安土桃山時代を生きぬき、江戸時代を築いた徳川家康。その人物像は、ゆかりの品々からもしのばれる。武勇を語る武器武具、知識を語る書籍、海外への視野をうかがわせる舶来品の数々。それらは今も、子息達への分与品、「駿府御分物」として、また、久能山東照宮等の御宝物として、受け継がれている。

重要文化財<洋時計>久能山東照宮蔵

重要文化財 ≪洋時計≫ 久能山東照宮蔵 【展示期間: 東京展 4月25日~5月17日まで】

重要文化財<目器>久能山東照宮蔵

重要文化財 ≪目器≫ 久能山東照宮蔵 【展示期間: 東京展 4月25日~5月17日まで】

エピローグ

 大阪夏の陣で豊臣家が滅んだ直後の慶長20年(1615年)7月13日、年号が元和に改元された。武器をおさめ、戦乱が終わり平和になったとの区切りを示す改元であった。同月、家康は「武家諸法度」を制定・公布した。ここに、徳川家は名実ともに、武家の統領家となり、世界にも類を見ない、二百数十年にも及ぶ、安寧の歴史が刻まれていくことになる。
元和2年(1616)4月17日、時代の移り変わりを見届けた徳川家康はこの世を去った。

※会期中展示替えがあります(調整中)。詳細はお問い合わせください。

布陣図

布陣図をクリックすると拡大画像がご覧になれます。

武将一覧

徳川家康(とくがわいえやす)
江戸幕府初代将軍。天文十一年(一五四二)、三河国に生まれた。天正十八年(一五九〇)より江戸城を本拠とし、豊臣政権の一翼を担った。しかし石田三成らと対立し、その矛盾が関ヶ原の合戦に至った。戦後、慶長八年(一六〇三)に征夷大将軍に補任される。豊臣秀頼との協調を図るが、最終的には大坂の陣で豊臣家を滅ぼした。
徳川家康(とくがわいえやす)

徳川秀忠(とくがわひでただ)
江戸幕府第二代将軍。家康の三男。元服に際して、秀吉から一字を与えられ、秀忠と名乗った。関ヶ原の合戦の直前、上杉景勝攻撃には先鋒として会津に向かったが、石田三成挙兵によって、西上した。父家康と二手に別れ、戦場を目指した。途中、信濃国上田城で真田昌幸に阻まれ、関ヶ原の合戦には間に合わなかった。
徳川秀忠(とくがわひでただ)

松平忠吉(まつだいらただよし)
徳川家康の第四子。東条松平家忠の養子となり、天正九年(一五八一)に幼少にして家督を継いだ。関ヶ原の合戦においては、岳父井伊直政と本多忠勝を付せられて徳川勢の主力として東海道を攻め上り、戦場で勇戦した。戦後にはその功を賞せられ、尾張国清洲城を与えられた。
松平忠吉(まつだいらただよし)

本多忠勝(ほんだただかつ)
徳川家康の四天王と呼ばれ、幼少より家康に仕えた武功派の重臣。数珠と鹿の角兜の具足姿が印象的な武将である。関ヶ原の合戦の折には、下野国小山より福島正則ら豊臣諸大名に加わって西上し、井伊直政とともに後発の徳川家康との調整にあたった。戦後、桑名城を与えられたが、家康の駿府隠退後は政治の一線から退いた。
本多忠勝(ほんだただかつ)

井伊直政(いいなおまさ)
徳川家康の重臣。関ヶ原の合戦に際しては本多忠勝とともに東海道を上る徳川勢の先鋒として出陣。戦場では松平忠吉を補佐しつつ奮戦し、戦後は石田三成の本拠佐和山城の攻略や、毛利家・島津家の降伏の斡旋などに奔走した。この合戦での功が賞され、佐和山城十八万石を与えられた。しかし慶長七年(一六〇二)、関ヶ原の合戦での傷がもとで没した。
井伊直政(いいなおまさ)

榊原康政(さかきばらやすまさ)
徳川家康の四天王と呼ばれた重臣の一人。徳川家内では武功派の中心的存在として知られていた。天正十八年(一五九〇)、上野国館林城(現・群馬県館林市)に入り、十万石を与えられた。関ヶ原の合戦の折には、徳川秀忠を支えて西上する。しかし、信濃国上田城で真田昌幸に阻まれ、関ヶ原の合戦に遅参してしまった。
榊原康政(さかきばらやすまさ)

鳥居元忠(とりいもとただ)
徳川家康が今川氏の人質となったとき駿府に随従し、後の三河統一、遠江経略に従った古くからの重臣。天正十八年(一五九〇)、下総国矢作に四万石の所領を与えられた。関ヶ原の合戦に際して、会津攻めに下る家康は伏見城の総大将として元忠を上方に残した。そのため、伏見城は西軍の攻撃を受けて落城し、元忠は戦死してしまう。
鳥居元忠(とりいもとただ)

福島正則(ふくしままさのり)
幼少より秀吉に仕えた武将。天正十一年(一五八三)、近江国賤ヶ岳においての奮戦は、七本槍に数えられた。豊臣政権下では石田三成と対立し、三成襲撃にも参加した。それ故、関ヶ原の合戦では池田輝政と先陣を争うなど、家康の勝利に多大な貢献している。しかし、豊臣恩顧の大名であるため、家康さらには西軍からも寝返りの可能性が考えられていた。
福島正則(ふくしままさのり)

藤堂高虎(とうどうたかとら)
伊予国板島(宇和島)城主。近江国犬神郡藤堂村の出身で、羽柴秀長・秀保らに仕え、秀保死後、豊臣秀吉の直臣となった。慶長四年(一五九九)、弟正高を人質として江戸に送り、家康の上杉攻めに従軍し、関ヶ原合戦では、東軍左翼に布陣し、大谷吉継の軍勢と対峙した。戦功により十二万石加増され、伊予国今治城で二十万石を領した。
藤堂高虎(とうどうたかとら)

黒田長政(くろだながまさ)
豊前国中津城主。黒田如水の嫡男。慶長四年(一五九九)閏三月三日、前田利家死没直後に加藤清正らと石田三成を襲撃。家康の上杉攻めに従軍し、関ヶ原合戦では、西軍の主力石田三成の軍勢と対峙し奮戦。事前工作にも力を発揮し、小早川秀秋の寝返り、毛利軍の不参戦を実現し、東軍の勝利に貢献した。その功績により筑前国ほぼ一国を与えられた。
黒田長政(くろだながまさ)

細川忠興(ほそかわただおき)
丹後国宮津城主。慶長四年(一五九九)閏三月、石田三成を襲撃した武将の一人。家康の上杉攻めに従った。三成が挙兵した際、七月十七日、妻ガラシャは人質となることを拒み自害した。関ヶ原合戦では、黒田長政とともに西軍の主力三成軍と戦った。飛び地の豊後国木付城では、西軍に属した大友吉統の攻撃を受けたが、留守居の松井康之・有吉立行らが黒田如水の救援により撃退。戦功により豊前一国と豊後国国東・速見郡を与えられ、豊前国中津城に入った。
細川忠興(ほそかわただおき)

池田輝政(いけだてるまさ)
三河国吉田城主。文禄三年(一五九四)、秀吉の仲介によって、徳川家康の娘督姫を娶る。家康の上杉攻めに従軍。関ヶ原合戦の前哨戦として、八月二十三日、西軍に属した織田秀信の岐阜城を攻略した。本戦では桃配山に陣した家康の後方に陣取り、南宮山に拠った毛利軍に備えた。戦後、播磨国姫路城に加増転封となった。
池田輝政(いけだてるまさ)

山内一豊(やまうちかずとよ)
遠江国掛川城主。慶長五年(一六〇〇)、家康の会津攻めに従軍し、石田三成挙兵後の西上に際しては、家康のために居城の掛川城を提供した。関ヶ原合戦では有馬豊氏とともに桃配山に陣した家康の背後を守り、南宮山に陣取った毛利軍に備えた。戦後、土佐一国を与えられた。
山内一豊(やまうちかずとよ)

織田有楽斎(おだうらくさい)
織田信長の弟、豊臣秀頼の生母淀の叔父。俗名は長益。剃髪後、有楽斎如庵と号した。慶長五年(一六〇〇)、家康の会津攻めに従軍し、関ヶ原合戦では東軍右翼に陣し、石田三成の軍勢と戦った。戦功により本領の摂津国味舌に加え、大和国山辺郡内で加増を受け、都合三万石を領した。大名茶人としても著名。
織田有楽斎(おだうらくさい)

細川幽斎(ほそかわゆうさい)
丹後国宮津城主細川忠興の父。忠興が家康の上杉攻めに従軍しているさなか石田三成が挙兵すると、慶長五年(一六〇〇)七月十八日、隠居していた丹後国田辺城に籠城。当代を代表する文化人であった幽斎の討死により、古今伝授が断絶することを憂慮した八条宮智仁親王より開城を勧められ、九月十三日、後陽成天皇の勅命により開城した。
細川幽斎(ほそかわゆうさい)

田中吉政(たなかよしまさ)
三河国岡崎城主。近江出身で、宮部継潤の与力、後に豊臣秀次の傅役となる。秀次処刑後は加増され十万石を領した。家康の上杉攻めに従軍し、関ヶ原合戦では、東軍中央に布陣し、小西行長・宇喜多秀家の軍勢と奮戦した。戦後、逃亡した石田三成を捕縛し、戦功により筑後一国を与えられ、柳川城に入った。
田中吉政(たなかよしまさ)

京極高次(きょうごくたかつぐ)
近江国大津城主。豊臣秀吉没後、高次は徳川家康と通じ、慶長五年(一六〇〇)六月、会津に向かう途上の家康と大津城で面会、密談している。石田三成挙兵後、高次はいったん西軍に与し北陸方面に出陣したが、九月三日に大津城へ戻って籠城。西軍の毛利元康・立花宗茂と戦い、同十五日に開城したが、結果、彼らを足止めし関ヶ原での戦いに参加させなかった。
京極高次(きょうごくたかつぐ)

小早川秀秋(こばやかわひであき)
筑前国名島城主。北政所の甥で幼少期に豊臣秀吉の養子となる。文禄二年(一五九三)、小早川隆景の養嗣子となり、同四年に領国を移譲された。石田三成挙兵時、秀秋は西軍に与し伏見城攻撃に参加する。その一方で黒田長政・浅野幸長の説得を受けるなど、徳川方とも通じ、関ヶ原では戦いの半ばで西軍から離反し、合戦の行方を決定づけた。
小早川秀秋(こばやかわひであき)

脇坂安治(わきさかやすはる)
淡路国洲本城主。豊臣秀吉に仕え、天正十一年(一五八三)の賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人として活躍。同十八年の小田原城攻めや文禄・慶長の役では水軍を率いて活躍した。関ヶ原合戦では西軍に与する一方、密かに徳川方に通じ、朽木元綱・小川祐忠・赤座直保とともに東軍に寝返り大谷吉継を攻めた。
脇坂安治(わきさかやすはる)

黒田如水(くろだじょすい)
豊前国中津城主・黒田長政の父。実名は孝高、通称は官兵衛・勘解由が知られる。如水は剃髪後の号。石田三成挙兵時、中津城にいた如水は大勢の浪人を召し抱え、徳川家康の承認を得て軍事行動に移った。毛利輝元の援助を受け旧領回復を目指した大友吉統に豊後国石垣原で勝利すると、以降、加藤清正らとともに九州の西軍諸将の居城を次々と接収した。
黒田如水(くろだじょすい)

石田三成(いしだみつなり)
近江国佐和山城主。年少期より豊臣秀吉に仕え、奉行として豊臣政権の内政面を支えた。秀吉没後、徳川家康や彼に与する諸将と対立を深め、慶長五年(一六〇〇)七月、大谷吉継や安国寺恵瓊らと図り毛利輝元を総大将として挙兵した。関ヶ原合戦では東軍に対して数的に優位な状況にあったが、毛利家の不参戦や小早川秀秋らの離反などにより敗れた。
石田三成(いしだみつなり)

安国寺恵瓊(あんこくじえけい)
毛利家の使僧。安芸国安国寺、東福寺などの住持を勤めた。石田三成の挙兵にあたっては、当主・毛利輝元を総大将として味方し、関ヶ原では毛利秀元、吉川広家とともに南宮山に布陣した。しかし、前方にいた広家が徳川方と密約を交わして動かなかったため参戦できずに敗れ、合戦後に捕らえられた。
安国寺恵瓊(あんこくじえけい)

小西行長(こにしゆきなが)
肥後国宇土城主。豊臣秀吉に仕え水軍の長として活躍、文禄・慶長の役では日本軍の先鋒を務め、和平交渉にも尽力した。徳川家康の会津下向を契機に慶長五年(一六〇〇)七月、石田三成とともに挙兵。関ヶ原では天満山北側に布陣し東軍の寺沢広高隊と戦ったが、西軍が総崩れとなると伊吹山へ逃れ、合戦の四日後に竹中重門に捕らえられた。
小西行長(こにしゆきなが)

宇喜多秀家(うきたひでいえ)
備前国岡山城主。豊臣秀吉の猶子で五大老の一人。慶長四年(一五九九)、宇喜多詮家(坂崎直盛)ら重臣と対立、徳川家康の裁定で重臣は蟄居などに処せられた。宇喜多家を離れた詮家らは東軍として関ヶ原合戦に参戦した。関ヶ原での敗戦後、秀家は薩摩国に逃れ、島津氏の庇護を受けた。慶長八年、死罪は免れ駿河国久能山に幽閉され、同十一年四月、八丈島に流された。
宇喜多秀家(うきたひでいえ)

毛利輝元(もうりてるもと)
安芸国広島城主。豊臣秀吉没後、石田三成ら奉行衆と通じ、慶長五年(一六〇〇)七月、三成らが挙兵すると上坂要請に応じ、西軍の総大将として大坂城に入った。関ヶ原合戦では自身は大坂城に留まり、毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊が参陣。合戦後、所領安堵の確約を得たため大坂城を退去したが、結局は周防・長門二ヶ国に減封された。
毛利輝元(もうりてるもと)

毛利秀元(もうりひでもと)
毛利輝元の従弟で養嗣子であったが、輝元に実子秀就が生まれたため分家した。石田三成らが挙兵し輝元が大坂城に入ると、秀元は瀬田に陣を置いた後、伊勢方面へ出陣、東軍に与した富田信高の籠る安濃津城を吉川広家らと攻めた。関ヶ原では南宮山に布陣したが、広家と福原広俊が東軍に通じて動かなかったため、戦いに参加できずに敗れた。
毛利秀元(もうりひでもと)

吉川広家(きっかわひろいえ)
出雲国富田城主。慶長五年(一六〇〇)七月、石田三成らが挙兵すると、主家の毛利輝元はこれに与したが、広家は黒田長政を介して徳川家康に内通。関ヶ原合戦の前日である九月十四日に毛利家の合戦不参加と引き換えに所領安堵の密約を交わし、合戦当日は毛利秀元らの前方に布陣し、戦いへの参加を阻止した。合戦後も毛利家の所領安堵のために奔走した。
吉川広家(きっかわひろいえ)

長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)
土佐国の大名。長宗我部元親の四男で、関ヶ原合戦の前年に父の死去を受けて家督を継ぐ。合戦では石田方に属し、徳川家康方の背後をうかがう南宮山の東山麓に、およそ六千の兵を率いて陣取るが、その前方に陣を構えた吉川広家らが動かなかったこともあり、結局参戦する機会を逃したまま退却する。戦後は領地を没収され浪人となる。
長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)

大谷吉継(おおたによしつぐ)
越前国敦賀城主。病のため一線を退くが、石田三成が打倒徳川家康の兵を挙げた際には行動を共にする。関ヶ原合戦では、戦いの始まる十日以上前に山中村付近に布陣していた。本戦では、裏切った小早川秀秋の攻撃を側面から受けるも、これを一時撃退する。しかし藤堂高虎らにも攻め込まれしだいに劣勢となり、最後は自刃する。
大谷吉継(おおたによしつぐ)

島左近(しまさこん)
実名は清興。石田三成の家臣。三成が家禄の半分をもって召し抱えたと伝えられるほどの名将で、三成の居城佐和山城とともに「三成に過ぎたるもの」と讃えられた。関ヶ原の前哨戦となった九月十四日の杭瀬川の戦いでは、巧みな用兵で石田方を勝利に導いた。本戦では三成の本陣を支えて奮戦するが、味方が総崩れとなるなかで討死したという。
島左近(しまさこん)

平塚為広(ひらつかためひろ)
美濃国垂井の領主。関ヶ原合戦では石田方として大谷吉継とともに出陣し、病身であった吉継に代わって軍勢を指揮したと伝えられる。小早川秀秋の裏切りによって味方が総崩れとなるなかを奮戦するが、最後は持ちこたえられずに討死する。辞世の句は「君がため捨つる命は惜しからじ つひにとまらぬ浮世と思へば」。
平塚為広(ひらつかためひろ)

島津義弘(しまづよしひろ)
島津家当主島津義久の弟。石田三成が挙兵した時、当初義弘は徳川家康に合力するべく伏見城に入城しようとしたが、城を守る家康の家臣鳥居元忠に拒否され、やむなく石田方に属して伏見城攻撃に加わる。関ヶ原の本戦では最後まで動かず、勝敗がほぼ決した後、前進してきた敵方を正面から力戦突破して薩摩へと帰っていった。
島津義弘(しまづよしひろ)

立花宗茂(たちばなむねしげ)
筑後国柳川城主。奉行衆の檄に応じ、西軍に属し、家康の留守居が守る伏見城を攻め落とし、関ヶ原合戦が行なわれた九月十五日には、京極高次が籠る近江国大津城を陥落させたが、本戦への参加は間に合わなかった。西軍の敗北により帰国し、筑後国三潴郡八院にて鍋島直茂・勝茂の軍勢と戦うが、黒田如水・加藤清正の勧告を受け入れ降伏。いったん改易となるが、陸奥棚倉を経て、元和六年(一六二〇)十一月、無嗣断絶となった田中氏に代わり、柳川城に復帰した。
立花宗茂(たちばなむねしげ)

織田秀信(おだひでのぶ)
織田信長の嫡孫。幼名は三法師。かつて清須会議において羽柴秀吉が織田家の後継者として担ぎ上げた人物。関ヶ原合戦時には岐阜十三万石余の城主で、その官職から岐阜中納言と呼ばれた。石田方として居城岐阜城を守るが、徳川方の福島正則や池田輝政らによって攻められ降伏。その身柄は高野山に送られて、織田本家の命脈は途絶える。
織田秀信(おだひでのぶ)

真田昌幸(さなだまさゆき)
信濃国上田城主。関ヶ原合戦では徳川家康と戦う姿勢をとり、居城上田城に立て籠る。徳川家本隊を率いて進軍してきた徳川秀忠は、上田城を落とすべく攻撃を仕掛けるが、昌幸はこれを翻弄する。結局秀忠は上田攻略を断念して関ヶ原へと向かうが、上田での足止めが仇となり本戦に間に合わないという大失態を演じる。
真田昌幸(さなだまさゆき)

真田信繁(さなだのぶしげ)
真田昌幸の次男。幸村の名で知られる。信繁は父昌幸に従い居城上田城に立て籠ったが、兄の真田信之は徳川方に立ち、関ヶ原合戦では親子兄弟が敵味方に別れる事態となった。信繁は、父とともに徳川秀忠の猛攻を退け、徳川本隊を関ヶ原合戦に遅参させるという武功を上げるが、戦い自体は石田方の敗北に終わり、真田父子は紀州九度山に流される。
真田信繁(さなだのぶしげ)

上杉景勝(うえすぎかげかつ)
五大老の一人として豊臣政権の重責を担う。関ヶ原合戦は、徳川家康が上杉討伐の軍を起こしたことを契機とする。下野の小山で石田三成挙兵の報に接した家康は、評定を開き反転して三成を討つことに決する。家康との決戦を逃した上杉軍は、伊達や最上ら徳川方の諸将へその矛先を変えるが、三成敗北後は情勢が一変し、上杉軍は壮絶な撤退戦を展開する。
上杉景勝(うえすぎかげかつ)

豊臣秀頼(とよとみひでより)
豊臣秀吉の遺児で豊臣家の後継者。五大老の一人上杉景勝に謀反の疑いがかかり、家康が討伐の軍を起こした際には、大坂城西の丸の家康を激励し、金二万両等を下賜する。その後、大坂城には毛利輝元が石田方の総大将として入城し、秀頼はその庇護下に置かれる。関ヶ原合戦後、豊臣家と徳川家は天下の趨勢をめぐって相克を繰り返すこととなる。
豊臣秀頼(とよとみひでより)

開催概要

開催期間終了しました ありがとうございました
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アクセス

開館時間
午前9時30分~午後5時30分(土曜日は午後7時30分まで)
休 館 日
毎週月曜日、年末年始
※ただし、両国国技館で大相撲本場所開催期間中は開館。
お問合せ
TEL. 03-3626-9974(代表)
URL
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp
交 通
JR総武線両国駅西口徒歩3分
都営地下鉄大江戸線両国駅A4出口徒歩1分
都営バス錦27・両28・門33系統「都営両国駅前」下車徒歩3分

※団体バスおよび身障者用優先駐車場があります。空いているときは一般車も利用することができます(有料)。

開館時間
午前10時00分~午後6時00分(毎週金曜日は午後7時30分まで延長(入場は30分前まで)
休 館 日
月曜休館(祝日の場合は開館、翌日休館)、年末年始
お問合せ
TEL.075‐222-0888
URL
http://www.bunpaku.or.jp
交 通
地下鉄「烏丸御池駅」下車【5】番出口から三条通りを東へ徒歩3分
阪急「烏丸駅」下車【16】番出口から高倉通りを北へ徒歩7分
京阪「三条駅」下車【6】番出口から三条通りを西へ徒歩15分
JR・近鉄「京都駅」から地下鉄へ
市バス「堺町御池」下車、徒歩2分

※駐車場は入口の姉小路通(東生き一方通行)に面しています。
 利用時間/9時~20時
 約30台
 料金:普通自動車 最初の1時間400円 以後30分毎200円
 機械式立体駐車場になります、係員の指示に従ってください
 全長:5.30メートルまで 全幅:1.95メートルまで 全高:1.57メートルまで 重量:2トン以下

開館時間
午前9時30分~午後5時30分 ※8月は日曜日を除き19時30分まで(入場は閉館30分前まで)
休 館 日
毎週月曜日(月曜日が祝・休日の場合はその翌平日)
お問合せ
TEL.092-845-5011
URL
http://museum.city.fukuoka.jp
交 通
市営地下鉄…博多駅〔K11〕から約13分、天神駅〔K08〕から約7分。西新駅〔K04〕(1番出口)下車徒歩約15分
西鉄バス…博多駅前A、博多バスターミナル1番5・6のりばから約25分。天神バスセンター前1Aのりばから約20分 博物館北口、福岡タワー南口、博物館南口下車

※無料駐車場 大型バス10台、普通車240台。(満車の場合は入場制限を行います)

オフィシャルサポーター

スペシャルサポーター 杏

歴史好きの祖父の影響で、小さいころから歴史が大好き。関ヶ原の合戦に参加した武将で気になるのは、島津義弘。敵中突破を果たした勇気がすごい!『大関ヶ原展』では、武将達の遺品や手紙をじっくりと見たいです。


グッズ&音声ガイド

グッズ

図録:2,800円(税込)

オリジナルトートバッグとセットで、3,000円(税込)


音声ガイド

貸出料金:550円(税込)  所用時間:約35分

武将たちの足跡や言葉がよみがえる・・・
徳川家康と石田三成、東西の大将が語る
天下分け目の舞台裏!

大 関ケ原展スペシャルサポーターの杏さんが音声ガイドのナビゲーターを担当。武将役として「戦国無双」シリーズで徳川家康役の中田譲治氏、石田三成役の竹本英史氏が特別参加!豪華声優による、時にユーモアあふれる家康と三成の掛け合い。ナビゲーター・杏さんのイチオシ武将とは、いったい誰?

東西両軍の大将が、400年の時を越えて語り合う・・・
関ヶ原の合戦へと至る武将たちの足跡や心の動きを、ドラマティックに解説。臨場感溢れる音声ガイドで、大 関ヶ原展をより深くお楽しみください。

【音声ガイドサービスに関するお問い合わせ】

(株)アコースティガイド・ジャパン

info@acoustiguide.co.jp

TEL:03-5771-4083(月~金、9:30~18:00)


3会場すべてを見よう!スタンプラリー開催!


特製チケットフォルダー

特製ミニトートバック

国宝・重要文化財などは出陳期間が制限されるため、一つの会場の、ある時期にしかみられない貴重な出陳品も多くあります。東京展・京都展・福岡展(前期・後期)をお見逃しなく!
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虎屋タイアップ商品

小形羊羹6本入(「大関ヶ原展」限定カード入) 1,556円(本体価格1,440円)



熟練した職人がじっくりと煉りあげた伝統の味をそのままに、携帯にも便利なサイズの小形羊羹。「関ヶ原合戦図屏風(部分)」をお楽しみいただける、大関ヶ原展限定のカード入りでご用意しました。
定番の小倉羊羹「夜の梅」、京都限定の「白味噌」「黒豆黄粉」、3種類を2本ずつ詰合せました。
室町時代後期に京都で創業した「とらや」。
関ヶ原合戦の際、西軍の武将、尾張犬山城主の石河備前守光吉(いしこびぜんのかみみつよし)をかくまったとの記録が残されています。なお、関ヶ原合戦当時、羊羹といえば「蒸羊羹」でした。現在のような寒天を使った煉羊羹が作られるのは江戸時代後期のこととされます。

内容:
「夜の梅」(小倉羊羹)×2本
「白味噌」×2本
「黒豆黄粉」×2本
※小形羊羹「白味噌」「黒豆黄粉」には「大豆」使用
販売場所:
京都文化博物館
とらや(京都一条店、京都四条店、京都髙島屋、大丸京都展、ジェイアール京都伊勢丹)

書籍『決戦!関ヶ原』『家康の遺言』と割引券タイアップ


『決戦!関ヶ原』
8刷累計27000部!「決戦!」シリーズ第一弾。当代の人気歴史作家7人がひとつの戦場を描く、前代未聞の「競作長編」。

『家康の遺言』
家康の懐刀である忠臣たちや孫・千姫から、 人間・家康のさまざまな貌を描き出す短編集。

「大 関ヶ原展」では、現在、好評発売中の書籍『決戦!関ヶ原』(講談社)、『家康の遺言』(講談社)との割引券タイアップを行っています。各書籍の帯についている割引券をご持参いただくと、100円引きで当日一般券の鑑賞券をお求めいただけます!

是非、この機会をお見逃しなく!