「30代になり、自分の“役割”変えなきゃなと」人気バンドceroの髙城晶平が阿佐ヶ谷のバーで働く理由とは?

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ロート製薬が副業制度を導入するなど、デュアルワークやハイブリッドワークなどの言葉が注目を集めている昨今。しかし、成功したミュージシャンが副業としてバーで接客を行っている、と聞けばきっと驚くはず。

そのミュージシャンの名前は、髙城晶平。2004年に結成され、音楽メディアや音楽ファンのみならずミュージシャンからも高い評価を得るバンド ceroのメンバーだ。彼は人気バンドの主要人物として活躍する一方、阿佐ヶ谷のバー「Roji」では週に1度のペースでスタッフとしてカウンターに立っているのだ。人気番組『SMAP✕SMAP』にも出演するなど高い人気を誇るバンドのボーカルが、なぜバーでスタッフとして働いているのか? その理由をはじめ、音楽との出会い、音楽を仕事にすること、そして自身の思う“役割”について訊いた。

親のレコードを聴いていた幼少期。しかし思春期に「自分の世代の音楽を見つけよう」と思い立つ。

—ceroは非常に音楽的評価の高いバンドですが、髙城さんの音楽との出会いはいつ頃なのでしょうか?

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それが小学校のときはまったくCDを買ったことがなかったんですよ。レンタルで短冊ジャケの8cmシングルを借りていたくらいで。でも中学のときにようやく音楽に興味を持ち、ゆずが好きになったんです。そこで父親のアコースティックギターを借りて楽器を弾き始めました。これなら自分でもできそうだと思って、すぐに作曲を始めたんです。

—音楽に興味を持ち始めていきなり作曲を始めたんですね。

○○っぽいコード進行というものがあることを知って、ゆずっぽいコード進行でそういう曲を書いてました。廣田(※本記事のカメラマン)とハートフルソング・マーケットという恥ずかしい名前のフォークデュオを組んで、一瞬だけ活動したりもしていましたね(笑)

—そこからceroに至るにはかなりの音楽性の広がりがありますよね。いつ色んな音楽を聴くようになったのですか?

もともと両親が音楽好きなので、家にレコードがたくさんあって、それを聴いていたんですよ。でも思春期の頃に「親の好きな音楽を聴いているのは恥ずかしい。自分の世代の音楽を見つけよう」と思って、ゆずを見つけたんです。だから親のレコードを聴いていたというルーツがあったという部分は、今思えば大きいと思います。

それに僕の中学時代は97〜99年なんですけど、くるりとかナンバーガール、中村一義、椎名林檎が出てきた時代でもあったんですね。そういう音楽もゆずと同時並行で聴いていて、彼らがどんな音楽から影響を受けたのかというのを雑誌で熱心に読んだりして音楽が広がっていきました。

—cero結成までは他のバンド活動もしていたのですか?

高校のときにceroのメンバーの橋本くんとコーヒー・フィルターというバンドを組んで、活動していました。アコギ3人、ベース1人、ドラム1人という編成で。基本的にはまだゆずっぽい曲をやっていたんですけど、橋本くんがフリッパーズ・ギター好きということもあり、ネオアコっぽさもありました。高校の廊下で3人揃ってアコギをかき鳴らすと、すごく倍音がキラキラして、ネオアコのあの感じが出てすごく良かったんですよ。

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8,568通り、あなたはどのタイプ?

25歳までに成功できなかった焦燥感。亡き父がつないだ未来。

—その後ceroを結成するわけですが、高城さんは音楽を仕事にしようと思っていましたか?

僕は音楽で食べていきたい思っていましたね。バンドメンバーは特にそんな意識は持たずのんびりしてましたけど(笑)でも、僕はけっこう焦燥感があって「ヤバい、ヤバい」と思っていました。ceroがファースト・アルバムを出したのが27歳の頃なんですけど「大学を卒業して25歳くらいまでに結果を出したい」というある種のボーダーをもう過ぎていたので。手がかりは掴んでいるけど結果は出せていないと焦っていました。

—そこでチャンスを掴むためにとった行動などありましたか?

父親に相談しました。かなりのレコードコレクターだったし、音楽的な影響もすごく受けてきましたから。「デモテープを寄越せ」というので言われた通り渡しました。父はかたっぱしからそれを知り合いに送りつけたんです。それが回り回ってムーンライダーズの鈴木慶一さんの耳に届いて、気に入ってくださったんですね。慶一さんが「ためしにレコーディングしてみよう」と言ってくれて。今思えばプロデュース、という堅苦しい感じではなく、僕たちに遊び場を提供してくれたような、それをニコニコ見守ってくれているような感じでした。そこで作った音源がその後に続く大きなきっかけになったので、発端となった父には本当に感謝しています。

—まさに世代がつながっていく感じですね。でもそれができたのはceroの音楽性に歴史観があるからこそだと思います。

言われてみればそうかもしれませんね。当時からceroのライブにはかなり上の世代の人も多かったので(笑)

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8,568通り、あなたはどのタイプ?

ミュージシャンとして成功した今もバーで働き続ける理由

—髙城さんはミュージシャンであると同時に阿佐ヶ谷のバーRojiのスタッフでもあるわけですが、Rojiで働きはじめたのは何故なのでしょうか?

Rojiは僕が大学2〜3年のときに母親と父親が始めたお店なんです。母は昔に三鷹でたこ焼き屋をやっていたこともあるんですけど、その後は仕事をコロコロ変えていて。でも「自分の店を持ちたい」というビジョンは常に持ち続けていたんです。そこで偶然良い物件を見つけて、見切り発車でRojiをオープンさせ、手伝ってくれと言われたので僕がバイトをするようになりました。その後は就職せずバンドをやりながらRojiでバイトを続けました。

—その後、音楽を仕事にできるようになったわけですが、Rojiをやめようとは思わなかったのでしょうか?

まず、自分の収入源のメインがゆっくりと音楽のほうに移行していったので、やめ時が無かったというのもあります(笑)でも、一昨年に母親が病気で亡くなったときに色々考えたんです。

Rojiをオープンさせるにあたり、母はきっと若い子たちが来てワイワイやってる光景を想像していたと思うんです。そして、僕の友だちや、さらに若い人たちが来て音楽や色んな話をしているっていう、まさに想像通りの場所が出来上がったんですね。そんな場所を、母が亡くなったからといって無くしてしまうのはあまりにもふがいない。これは残さなくちゃいけない遺産の一つだと思ったんです。それにラッキーなことに、僕はある方面には顔が知られていて、看板にもなりうる力を持てています。だから週に一度でも出て力になることができれば。それが今もお店に立つ一番大きな理由ですね。

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—そんな理由があったんですね…。

でも、お店に立っていると息抜きができるというのも大きいですけどね。子どもが生まれてから、なかなか友だちと遊ぶ時間が取れなくなったんですけど、週に一度ここにいれば、自然と友だちが来てくれるので(笑)

—ceroにはお店のことを歌った「Roji」という曲もありますよね。

そうなんですよ。でもRojiについての曲を書いたのは僕だけじゃなく、王舟くんというミュージシャンも常連で、彼もアルバムの1曲目に「Roji」という曲を入れていているんです。お客さん側から見たRojiと、カウンターの中から見たRojiという2曲があって、おもしろいんですよ。

—音楽とお店、それぞれがフィードバックし合っているんですね。

すごい口角泡を飛ばして音楽談義をしてるわけでもなくて、くだらない話をしてるだけなんですけど、その雰囲気自体が与えている影響はあるだろうなと思いますね。

—Rojiに立っているときとceroでの活動について、仕事としての心構えの違いはありますか?

お店に立っているときは心構えも何もなくて自然体ですね。オーダーとか忘れますし、本当に使えないバイトって感じだと思います(笑)「ライブでMCをしているときと変わらないですね」とお客さんにも言われます。僕は自分のことをオーラのないミュージシャンだと思うんですけど、でもそういう人って今までそんなにいなかっただろうし、こうした自然なスタンスでお店に立ちながら、バンドでは大きめの会場でやったりしてたら、それってバランス感覚として面白いと思うんです。だからこのやり方はこのままキープしていきたいですね。

—仕事論としてもうひとつ。音楽が実際に仕事になったことで、音楽に対する向き合い方など変わったことはありますか?

ラッキーなことに「もっとこうしよう」と外部から言われたり、何かしらの制約を課せられたりしたことがほぼ無いんです。好きなようにやらせてもらっているので、仕事になったことで何かが変わってしまったなと思ったことは全然ないですね。

ceroとRojiを両立させることで実現できる「理想」

—ceroの一員としてもRojiのスタッフとしても、今後こうしていきたいという展望はありますか?

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音楽の方面ではもっと攻めて行きたいですね。それと8月にcero主宰の「Traffic」というイベントを開くのですが、ここではベテランかつ人気バンドであるクレイジーケンバンドを呼びつつ、一方で若手として注目されるOMSBやランタンパレードが出演するような、そんなバランス感覚をみんなにプレゼンしたいです。メジャー/インディーといった関係を取っ払って、ひとつ一貫したものをやっている人たちがいるっていうことを、ceroを軸として聴いてもらえたらいいなと。

—お父さんが未来をつなげてくれたように、高城さんもつなげたいという明確な思いがあるんですね。

僕らも30代になり、ceroは中堅バンド枠の最初に入りかかったところだと思うんです。下の世代のバンドも充実してきているし、先輩のバンドとも前より少し距離が近づいてきていて、両者をつなげるような位置づけにいるので、そういうコミュニケーションができればと考えています。

そして、その一方で僕がRojiに立ち続けることで、クレイジーケンバンドが好きな人、OMSBが好きな人、ランタンパレードが好きな人たちがここに一同に介し、情報交換をするようなことが起きるかもしれない。そういうことをできる立場の人は少ないので、それができたら良いなと。僕も「そんな場所があったらいいな」と若い頃に考えていたのですが、ceroとRojiを続けることでそういう場所が作れるんじゃないかと、そう思っています。

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髙城晶平

2004年に結成されたceroのボーカル/ギター/フルート担当。これまでceroとして3枚のアルバムをリリースし、いずれの作品も高評価を獲得。8/11(木・祝)には新木場STUDIO COASTで主催イベント「Traffic」を開催予定。ソロ活動ほか、FM802「MUSIC FREAKS」のレギュラーDJ、雑誌『POPEYE』での連載など、その活動は多岐にわたる。

<WRITING>照沼健太 <PHOTO>廣田達也

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