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カテゴリ:西暦535年の大噴火
また間が空いてしましました(汗)。今回から西ヨーロッパのお話しです。まずはイギリスです。 現在のイギリス、グレートブリテン島が歴史上に登場したのは、紀元前1世紀のことです。 ローマのガイウス・ユリウス・カエサルがガリア(現在のフランス)へ遠征した際、ブリテン島にも軍を送ったのがはじまりでした。 ただしこの時は、ローマ領化はされていません。カエサルの目的は、ブリトン人(ケルト系民族。当時のグレートブリテン島やアイルランド、フランスのブルターニュ半島などに住んでいました)たちが、同族のガリア人たちを助けて、軍事支援をすることを阻止することにありました。 ブリテン島がローマ領ブリンタニア(「ブリタニア」という言い方もあります)になったのは、カエサルの遠征から約100年後、クラウディウス帝(在位西暦10~54年)の時のことです。 当初ブリトン人たちは、フランスでのガリア人たちと同様ローマに激しく抵抗しましたが、時代を経るごとにローマの支配は安定化し、両者は平和共存していくようになりました。 しかし4世紀になり、ローマ帝国が東西に別れ弱体化していくと、その平和は破られました。サクソン人(ゲルマン系民族のひとつ、現在のデンマーク・ドイツ北部にいました)たちの侵攻が繰り返されるようになったからです。 そして407年、ローマ人がブリンタニアを放棄して撤退すると、サクソン人たちはグレートブリテン島の南東部、北東部を占領し、ブリトン人とサクソン人の長い戦争が繰り広げられることになります。 有名なアーサー王(生没年不明。5世紀終わりから6世紀半ばぐらいまでの人と言われています)は、ブリトン人たちの王で、彼が戦った相手はサクソン人たちでした。 なので、イギリス史に詳しい人は、イングランド人(サクソン人たちの子孫)が、「アーサー王は英国の英雄だ」と言っているのを聞くと、その言葉には同意しつつ苦笑してしまいます。 しかしウェールズ人(ブリトン人たちの子孫)たちは、このイングランド人たちの発言は今も面白くないようで、「お前たちの王じゃない。俺たちの王だ」と思うそうです。 6世紀頃、両者の戦争は一段落していました。しかしそれは長い戦争の中の一時的な休戦であって、和解からはほど遠いものでした。その証拠は、当時に遺跡を見るとよく分かります。 ブリトン人たちの遺跡から、サクソン人たちの遺物が出てくることはなく、その逆もありません。両者の距離がほんの数キロしか離れていなくても、全く交流がなかったのです。その傾向は570年代ぐらいまで続いています。 ブリトン人とサクソン人たちの対立は、両者の性格がかなり異なっていたことが原因でした。 かつてはローマに激しく抵抗していたブリトン人ですが、その後はローマの慣習になじみ、キリスト教を受け入れ、ローマ人が作った街や道路、法律や商業システムを利用して、大陸とも交易していました。 ブリトン人たちの遺跡からは、ギリシアやトルコで作られたアンフォラ(ワインやオリーブ油を入れる陶器)や、ローマや北アフリカの遺物が多く出土しています。 しかし一方のサクソン人たちの社会は閉鎖的でした。彼らはローマの法律にもキリスト教にも興味を示さず、交易をしようとはしませんでした。そもそもブリテン島に来たのも生存圏を広げるためであり、それ以外のことに関心はなかったのです。 当時、ブリトン人の聖職者だったギルダスという人物は、サクソン人を、「恐ろしい爪を持ったならず者」「凶暴で人間と神から憎まれている連中」と書き残しています。 ブリトン人からみると、文明的な付き合いに関心がないサクソン人たちは、異様で野蛮な部族だったのでしょう。この見解は恐らく彼だけでなく、多くのブリトン人たちの共通認識だったと思われます。 6世紀頃、ブリトン人とサクソン人はしばし戦争を繰り返しましたが、双方の間には深い森が緩衝地帯の役割を果たしており、また勢力も拮抗している上に、両者とも部族を統合した強力な王がいなかったこともあり、戦争は膠着化、小競り合いに専念していました。その均衡を崩したのが、西暦535年の大災害でした。 「ガリア(現在のフランス)に彗星が現れたが、非常に巨大だったので、空全体が燃えているように見えた。同年、雲から本物の血が落ちてきた。そしてその後、恐ろしいことが次々と起こるようになった」 とは、イギリス歴史家ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー(生年不明~1236年没) が著書の中で書いた一節です。彼は現在には現存していない6世紀の資料を基に書いたようです。 ロジャーは恐るべき災害が起きた年を541年としていますが、暦の修正(当時のヨーロッパは太陽暦ですがユリウス暦なので、現在のグレゴリオ暦とは誤差があります)で、この記述の出来事は、535年か536年ではないかと考えられています。 また、ロジャーより約400年前の、イギリスの歴史家ベーダ(生没年不明)は、その著書『アングル人の教会史』の中で、538年と540年の2回、「暗い太陽」という奇妙な皆既日食が起きたことを記録しています。 530~540年代、イギリスでは13回の皆既日食が見られたはずなのに、『アングル人の教会史』に記録されている皆既日食はこの2回だけです。ベーダがこの2回だけをわざわざ載せたのは、通常の日食とは違う異様なものだったからでしょう。 ロジャーとベーダの記録した異常気象がなんだったのか、正確には分かりません。 しかし西暦535年の災害が、火山の破局噴火であったと仮定すると、多くのことを説明することが出来ます。 巨大噴火により放出された大量の火山灰、硫酸などの大気エアロゾル粒子が、成層圏にまで達してオゾン層を破壊し、硫酸エアロゾル層を形成します。 それらは太陽光を遮断して地表の温度を下げ、「火山の冬」と呼ばれる現象を引き起こしますが、他にもエアロゾル粒子や塵埃によって太陽が暗く見えたり、逆に真っ赤な太陽を作り出したりします。 事実1991(平成3)年のフィリピン・ピナトゥボ山(1486メートルの成層火山)噴火の際、日本でも太陽が一段明るく、真っ赤に見える現象が目撃されています。これと同じ事が6世紀のイギリスでも起きたとすれば、「空全体が燃えているように見えた」のも、「暗い太陽」のように見えたことはあり得る話かと思います。 あと、「雲から本物の血が落ちてきた」という所は、雨に大量の火山堆積物が混ざった場合(特に鉄などの金属が大量に含まれた場合)、血のように赤く見えることがあるようですので、それが理由かも知れません。 そしてイギリスでの災厄は1年で終わりませんでした。箇条書きにすると、 「トゥイード川(スコットランドから、イングランドに向かって流れている川)で何度も発生し、大勢の死者が出た(536年)」 「ロンドンが暴風雨に襲われて250名が犠牲になり、多くの家屋が倒壊した(548年)」 「スコットランドで鶏卵ほどの大きさの霰が降った(550年)」 「スコットランドで5ヶ月間にわたって大雨が降った(552年)」 「冬は霜と雪だらけで、凍りつくように寒い。鳥や野獣はおとなしく、人の手で捕まえる事が出来るほどだった(554年)」 「ブリテン島全域を激しい雷雨が襲った(555年)」 という感じで、535~555年ぐらいの間に、多くの異常気象に関する記述が出てきます。 ブリテン島は大寒波と大雨に見舞われ、ブリトン人もサクソン人たちも、共に苦しんでいたようです。 しかし次にやってきた災厄は、ブリトン人たちを中心に降りかかりました。ここまでご覧くださった方はすぐお分かりいただけると思いますが、それはペストでした。 次回は、ペストがブリテン島にどのような影響を及ぼしたかを見ていきたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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