ある秋の午後のことだった。机に覆いかぶさるようにして原稿を読んでいた私の後ろを、ケモノのようなものが通り過ぎる気配がした。と、同時に、不思議な声も聞こえてきた。

「メ、ドカ、モク、トカ……」

低い、呪文のような声だった。「キック、キック、トントン」? 一瞬、雪原をゆく雪ぐつが頭をよぎったが、振り向いたそこには、ヒールぐつの先輩がいた。私の気配を察知したか、先輩はくるりと振り返り、「あ、いや」とバツが悪そうに言った。

「首相がなんて言ったのか、分からなくなってしもて」

2016年9月26日。首相の所信表明演説が国会で行われた。演説はテレビで生中継されていたが、そのさなかの午後2時19分ごろ、鹿児島で震度5弱の地震が発生した。中継は、地震の速報を伝えるニュースに切り替わった。当然である。

先輩はそのとき、首相の所信表明演説の全文を校閲していたのである。事前に用意された原稿を手に、テレビの中の首相のある言葉に全神経を集中させていた。それは、原稿の中に「目途」とあった言葉だ。

「新たなガイドラインを年内を目途に策定します」とある。なんと読むのだろうか。

「めど」あるいは「もくと」である。辞書を引くと、「もくと」の項にはこうある。 

もく-と【目途】〔名〕めあて。目的。めど

「めど」の項にはこう。

めど【目処】〔名〕①目ざすところ。だいたいの見当。めあて。目標

他の辞書には「めど」に「目途」の字を当てているものもあるし、「目途」の字を「めど」と読ませるものもちょくちょく目にはするが、本来は当て字のようである。本来が当て字であるので、毎日新聞用語集では「めど」はひらがなで表記することを定めている。毎日新聞の紙面では「めど」とひらがなで登場する言葉なのである。

では「もくと」はといえば、目は「もく」、途は「と」と読める漢字であるので、「目途」と漢字で表記される。つまり、毎日新聞で「目途」と表記されているものは、「もくと」という言葉なのだ。ただし、「めど」「もくと」の両者は前述したように、ほぼ同じ意味の語であり、首相が「年内を目途に」と言うとき、「めど」でも「もくと」でも、年内を目標に、という意味で使っていることに違いはない。

ところが、我々には大きな問題なのである。ひらがな表記の「めど」なのか、漢字表記の「目途」なのか。To be, or not to be……それが問題だ。

先輩がブツブツとつぶやいていた呪文はこれだった。

「メドカモクトカ……」

事前に原稿に「目途」と書かれていた単語を、首相がなんと発音するか、先輩は原稿を握りしめてテレビ画面の前で耳をそば立てていたのである。政治家はしばしば「もくと」を使うが、一般的に分かりやすいように「めど」と言っているのかもしれない、果たして……とそこで速報ニュースにより演説は中断、肝心の部分を聞き逃し、彼女はがっくりと肩を落として歩いてきたのだった。

同じことをしている同僚を、よく見かける。パソコンの音声を出すと周囲に迷惑をかけると、イヤホンをしてインターネットの動画サイトの国会中継に見入りながら、右手に持ったボールペンを走らせている人がいる。リオデジャネイロ五輪期間中、原稿に書かれた新体操のフープ・クラブの数が合わないのではないかと、動画を指さしながら懸命に数を数えていた新入社員もいた。

私にも、経験がある。大相撲の原稿に、行司の呼び上げについてこうあった。「行司は『こなた○○、○○ かたや○○、○○』と……」。念のため、とネットで大相撲の動画を聞いてみた。行司は、「かたや○○、○○ こなた○○、○○」と言っていた。他の取組でも、やはり行司は「かたや……こなた……」の順で呼び上げている。運動部のデスクに問うと、こなたとかたやをひっくり返してくれ、との返事。自分の耳で聞いてみてよかったと思った。

先輩はその後、放送が再開された所信表明演説をしっかりと聞き取り、首相が「もくと」と言ったのを確認した。「もくとやった! もくとやった!」と小躍りする先輩はとても可愛らしく、抱きしめたくなった。

(写真はイメージです)【湯浅悠紀】

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