ニートが職に就き、過酷な労働に追われる映画「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺(おれ)は限界かもしれない」(公開中)。インターネット掲示板「2ちゃんねる」に書き込まれた話を原作に、佐藤祐市監督が風刺の効いたエンターテインメントに仕立てた。佐藤監督は「つらい時代の今、一歩を踏み出し、変わろうという勇気を伝えたかった」と語る。
高校を中退し、引きこもっていた「マ男(おとこ)」(小池徹平)は、母の死をきっかけに情報技術(IT)のプログラム会社に就職した。しかし、納期に追われ、上司に無理難題や怒鳴り声を浴びせられる理不尽の連続。勤務時間が長いのに給料は安く、労働条件が劣悪な「ブラック会社」だった。
それなりに話題になっている映画みたいです。元になった話はこの辺で読めますが、途中まではなかなか読ませる話だと思います。ブラック会社と言っても中傷ならこれくらいは普通だろうとか、ラストはちょっと作り事めいていて何だかなぁ、と感じましたがその辺は人それぞれでしょうか。で、書籍化された挙句に映画化までされたということで監督のインタビューが取り上げられています。
小林多喜二の小説「蟹工船」を連想させる筋書き。映画化の提案を受けた佐藤監督は「暗く、つらい話をそのまま描いても今の若い人には伝わらない。愉快に、そして真剣に描きたかった」と話す。
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工工エエェェ(´Д`)ェェエエ工工 原作は蟹工船とは似ても似つかない話なんですけれど。ご存じの通り「蟹工船」は劣悪な労働環境の中で労働者が反旗を翻す話ですが、こちらの「ブラック会社~」は、劣悪な労働環境に順応してゆく話だったはずです。まさか主人公の「マ男」が先輩社員と労組を結成して会社と対決するとか、驚愕のオリジナル展開でも盛り込まれているのでしょうか。
脚本をつくる過程でスタッフと「ブラックな会社とは?」と繰り返し議論したという。「劣悪できつい仕事は、どの時代にもある。仕事とはやりがいであり、仲間がいることなんだと行き着いた」と佐藤監督。不況やワーキングプア、雇用不安と先が見えない時代だけに、くたびれた人への応援歌をとの思いを込めた。
追い詰められた元ニートが勇気を振り絞って行動を起こし、職場の空気が変化していく。「ニートの過去と一歩踏み出した今を主役の小池が好演し、期待に応えてくれた」と佐藤監督は語る。
劣悪できつい仕事がどの時代にもあるのは事実なのでしょうけれど、それを「やりがい」「仲間」で誤魔化そうというのは、どちらかと言えば人を雇う側の発想に見えます。そもそも「職場の空気が変化していく」と記事にはありますが、少なくとも原作ではブラック会社がブラック会社でなくなった(労働環境が改善された)わけではありません。劣悪な労働環境はそのままに、「やりがい」「仲間」を見出すことで主人公がブラック会社に馴染んでいっただけの話です。自分が変われば、その分だけ回りも変わってみるのかも知れませんが……
蟹工船に言及したのが記者なのか監督なのか、この記事からは判断しかねるのですが、根本的な方向性の違いは明らかでしょう。どちらも劣悪な労働環境が舞台になっている一方で、「蟹工船」は労働環境の方を変えようとする話であり、「ブラック会社~」は自分の方を変えていく話なのですから。例えば靴のサイズが合わないにしても、足のサイズに合わせて靴を取り替えるのと、靴のサイズに足を合わせようとするのでは全く別の話のはずですよね。
「くたびれた人への応援歌」などと紹介されていますが、いったい何故「くたびれ」てしまうのか考えてみるべきです。劣悪な労働環境に自分を合わせているからこそ「くたびれ」るのではないでしょうか。そして労働環境を変えるのではなく、労働者の方を変えていくことで環境に適応させる――こうした姿を肯定的に描き出すとしたら、それはたぶん「くたびれた人への応援歌」ではなく、「労働者を酷使する側への援護射撃」ぐらいにしかならないはずです。労働環境を変えようとする人のドラマでは決してなく、あくまで労働環境を受け入れようとする人のドラマなのですから、どう見ても雇う側にこそ都合の良い世界のはずです。
映画「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」(産経新聞)
掲示板サイト「2ちゃんねる」に書き込まれた実話が原作。「限界」を口にしながらも仕事を続けるマ男を演じた小池は「過酷な環境の中にあったとしても、だれしも人生の中で頑張る時期ってあると思うんです。この作品が後押しになればいいな」と語る。
こちらは我らが産経新聞に掲載された分ですが、どう見ても蟹工船とは頑張る方向が違うわけです。そして労働環境を改善するために頑張るのではなく、あくまで社畜になるために頑張る、これを映画が後押しするとしたら、やっぱり雇用者サイドに都合の良いメッセージを垂れ流すことにも繋がるのではないでしょうか。限界を口にしながらも会社のために仕事を続けるのではなく、限界に達して会社に反旗を翻すくらいでないと、と思うわけですが、しかるにそうした方向性は雇用者サイドだけではなく大半が「雇われる側」である映画の視聴者層にもウケが悪いのかも知れません。これが単なる娯楽として受け入れられるようであればいいのですが、映画を見てすっかりその気になる、すなわちブラック会社でも文句を言わずに頑張って働こうなどという気分になる人が出てくるとしたら、それこそ「雇う側」のための応援歌に見えます。蟹工船の著者は権力によって虐殺されましたが、この映画の監督は?
参考、
最低最悪!『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』 - 俺の邪悪なメモこの映画は社会批判はおろか、ブラック企業への批判すらなく、最終的には、ブラック企業の理不尽な待遇に耐えて働くことが、主人公のポジティブな成長の証しとして、感動的に描かれるのだ。
ある意味で日本社会はプロ意識に乏しいのかも知れません。つまりそれが「仕事」であることを忘れ「人生」であるかのごとく語りたがる、だから「やりがい」「仲間」が強調され、職場も「仕事をするための場所」ではなく、「修行の場」みたいな扱いになるのではないかと思います。仕事に対する考え方が、何か根本的に間違っているんですよねぇ……
だから~~!お茶を吹き出しそうに、、、、。
私の職場でも、根は真面目なのでしょうが、理想が社畜みたいな若手がいます。
何か勘違いしてるんだよなぁ。
労働環境の改善なんて主張したら市議会でもとんでもない事になる空気ですから、彼等にとっては自然なのかもしれませんが。
リストラって確かリストラクチャなんとかで再構築って意味なのに、いつの間にか問答無用の首切りの意味になっちゃって、まだレイオフの方が正直なのに、”我が”産経なんかが、聞こえの良い言い回しに変えるのに大活躍でしたね。
労働者の権利が言える日はいつになったら来るのだろうか。
劣悪な労働環境を考え方で誤魔化すのは、日本社会全体がそんな感じですよね。
公務員叩きの中で「楽な公務員と違って民間は厳しい」なんてことがよく言われいてますが、
どんな理由で「民間は厳しい」として公務員を批判しているのかと見ると、
・民間はもっと残業ばかりだ!!
・民間ならとっくに給料半減&リストラの荒らしだ!
・民間ならこんな軽い処分はあり得ない!すぐクビだ!
前々からこの手の公務員叩きには疑問を思っていまして、これって「厳しい民間」ではなくて雇用主に扱使われてるだけなのでは・・・?
残業が多くて簡単に給料・人員削減されるのは自慢でも何でもないと思うのですが、どうもこれを「厳しい民間で頑張っている」として勘違いしている人が多いようで。
実際は雇用主に劣悪な労働環境で酷使されているだけなのに・・
派遣切り&派遣村撲滅運動映画なんだよ?きっとさ
ともあれ、思うのはなんとも都合の良い話だなぁ、というところでしょうか。この、「ブラック会社に~」も人物設定とか、行動とか、あまりにも無責任キャラが多いのが、異常といえば異常であり、それがブラック会社だから、と言われれば信じてしまいそうな所でもあるんですが、やはりあまりの無気力・現状容認・進んで家畜になることの強調・それでいて改善する努力からは皆が逃げる選択肢を選ぶ、という話の展開が、質の悪い物語めいていて、脚本がグダグダのドラマを見ているような既視感を覚える所なんですよね。
蟹工船と比較されたら、小林多喜二が草葉の陰で泣くしかありませんね。
既存権力や既存権益に飼いならされて終わりでしょうね。こんなのに1800円払って2時間という時間を潰すくらいなら迷わず「カムイ外伝」を選びます。
だから怒りの矛先を公務員ではなくて企業主に向けるべきだと思うのですが、
なぜか「公務員も残業しろ!!」と定時に帰る公務員に対して怒ってる人が多いんですよ。
民間労働者の敵は公的機関の労働者ではないと思うんですけどね。
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