ほんの少し強い『個人』になって『社会』に向かう生き方

転換点


最近、インターネットビジネス関連、特にソーシャルビジネスの周辺では『曲がり角』というか『転換点』を感じさせるトラブルが相次いでいる。昨年末の、食べログステルスマーケティング問題を皮切りに、Facebookのプライバシー問題、コンプガチャソーシャルゲームの問題、クラウドファンディングのstudygiftの炎上と続き、いまだに火種は残り、問題はまだ終息するようには見えない。この気配を受けて、上場間もないFacebookの株価はとうとう30ドルの大台を割り込み(上場初日の高値は42.5ドル。時価総額換算では350億ドルが消えた勘定になる)、日本のソーシャル各社の株価も年初来の安値を更新し続けている。

グリー、DeNAなど株価下落が止まらず ソーシャル各社、そろって年初来安値 - ITmedia ニュース


いわゆる『ソーシャル』ブームで、ごく短期間に驚くべき急成長を遂げた各社が、市場の過剰とも言える期待感もあって株価も膨れ上がったものの、内在していた急成長の歪みがここに来て噴出しているということもあろう。各社ともビジネスモデルが似ており、どこかで起きた問題に起因する不安感は他にも波及しやすい。それは株価に限らない。急成長している間は少々の欠点も大目に見られていたのが、一旦市場に疑念が広がると、今度は過剰に欠点が目立ってしまう。



強まる『正義の裁き』


だが、ある意味避けることのできない各社の『産みの苦しみ』とは別に、昨今の市場の雰囲気にはどうしても気になるところがある。強い批判や糾弾の声がやけに多いのだ。こういうと『悪いものを悪いと言って何が悪い』と言われてしまいそうだし、それ自体は(あまりの誹謗中傷はいかがなものかと思うが)、各自の意見の自然な表出である限りは、特に否定されるべきものではない。それがきっかけとなって、誤りが是正されるような建設的な批判はむしろ社会にとっても有益だ。だが、どうもそれとも違う。過ちを問いただし、改善を促すというより、悪を裁き感情的に糾弾すること自体が目的になっているような発言が増えているように思えてならない。


これは、匿名制が主である日本のインターネットのネガの部分として長く批判されてきた一局面ではあるのだが(2ちゃんねるはてなブックマークの誹謗中傷問題等)、これまでより批判の対象が広がり、構造的になり、独特の同調圧力を持って、様々な対象を次々と連続的に見つけて感情的に糾弾する。しかも、自らの正しさや正義に信念があって決して妥協しない。従来の、自らもどこか後ろめたさを持つ愉快犯的な誹謗中傷ではなく、なまじ信念の裏付けがあるから根が深い。



寛容から不寛容へ?


インターネットはネガの部分も深く大きいとはいえ、ネガと共にポジを両方包含する『懐の深さ』、『多様性』が良さだったはずなのに、妥協を許さない裁きと裁きに伴うマイナス感情を共有する塊が膨れ上がりつつあるのなら実に残念なことだ。それはインターネットの良さを支える『寛容』を『不寛容』で置き換えようとしているようにさえ見える。そういう意味でも、インターネット・ソーシャルは第二幕を迎えているのではないか。そう思うのは私だけだろうか。自らの思いを適切な言葉に表現しきれない苛立を感じつつ、一度きちんと整理しておかねばと考えていた。



『空気』と『世間』


この関連で、日本社会を説明するにあたって避けて通ることができない、『空気』と『世間』の問題を最近再び考えていたのだが、その過程で、私の問題意識を非常に上手く説明してくれる良書を見つけた。そのタイトルもズバリ、『「空気」と「世間」』*1という。作者は作家・演出家として活躍する、鴻上尚史氏だ。アカデミックな研究書ではないが、その分作家的な直観や表現力が豊で、ストーリーが非常にわかりやすい。それでいて、『空気』は評論家の山本七平氏、『世間』は元一橋大学の学長をつとめた歴史学者の阿部謹也氏というそれぞれの碩学を引用していて、理論的な裏付けもしっかりしている。今回はその本を参照しながら、自らの思いを語ってみようと思う。


ちょうどWikipediaに『「空気」と「世間」』を引用して、『空気』と『世間』のそれぞれの定義がまとめられているので、まずその一部を抜粋する。


▪ 参考文献 鴻上尚史 「”世間”と”空気”」


世間とは、自分と利害関係がある相手、もしくは将来的に利害関係が発生する可能性がある相手を指す。


1.贈与・互酬の関係
2.長幼の序
3.共通の時間意識
4.差別的で排他的
5.神秘性


1〜5の条件を全て満たしている場合、それを世間と称し、人に価値と規範を強制する安定した空間となる。1つでも条件を外していれば、それを空気と呼び、人に価値と規範を強制するのには、不安定である。
社会は、socialの訳語であり、1878年前後に考案された。個人は、individualの訳語であり、1888年前後に考案された。西洋流の法治国家を樹立するために、必要な訳語であった。それ以前の日本には、社会個人はなく、あるのは世間と人であった。
社会・個人という概念は、キリスト教の世界観に立脚している。西洋で神と向かい合うのは、個人であり、個人に価値と規範を強制するのは、神であった。日本で人に価値と規範を強制するのは、世間であった。価値と規範を受け入れた人には、世間は保護を与えた。

世間 - Wikipedia

世間と社会の違い


日本の『個人』は『世間』の中に生きる『個人』であり、西洋的な『個人』は日本には存在せず、独立した『個人』が構成する『社会』など日本にはない、というのが阿部謹也氏の見解で、これを鴻上氏は電車の中での席の譲り合いを例にあげて非常に分かりやすく説明する。鴻上氏によると、電車で座っていて目の前に老人が立てば、欧米人は8割以上の確率で席を譲るが、日本ではその確率は5割を割り込むという(私自身の実感ともそれほど齟齬がない)。これは、何も日本人が冷淡/マナーが悪いということではなく、普通の日本人にとって見知らぬ老人は『社会』にいる存在で、その人の『世間』にはいないからだ。仮にこの老人が自分の『世間』にいる人なら、100%席を譲るだろう。しかも、興味深いことに、思い切って席を譲っても、ほとんどの日本人はその老人と目を合わせることもなく、立ち去ってしまうはずだと指摘する。

日本人は、席を譲った後、ほとんどの場合、譲った人は、その場から離れようとします。声をかけ、どうぞ座って下さいとお年寄りの方に声をかけた後、立ち上がった人は、その譲った場所から移動しようとするのです。もちろん、満員電車など、移動が難しい場合はそのままですが、その時は、目の前に座った相手と、短い会話の後は無意識に目を合わさないようにします。日本人のあなたなら、この感覚が理解できると思います。軽いバツの悪さというか、恥ずかしさというか、居心地の悪さ。つまり、相手とのその後、どう接していいのか分からない、小さな戸惑いの感覚です。(同掲書 P117)


『世間』でのコミュニケーションの仕方は心得ていても、『社会』でのコミュニケーションの仕方がわからない大半の日本人の特徴を言い当てていて面白い。



おばさんの世間


また、次の例も実にありがちだ。

電車でおばさんたちの団体に遭遇すると、元気なおばさんが車内に飛び込み、座席を数人分確保し、『ほら、ここ!取ったわよ!』と叫ぶ。他の乗客が席の近くに来ても当然のように無視して、仲間を待つ。おばさんにとって自分が取った席は自分たちの仲間の席だと確信している。席のそばに立つ学生も親子連れもおばさんにとっては存在しない。だが、おばさんはけしてマナーが悪いわけではなく、むしろ、仲間思いの親切な人で、困っている仲間がいれば親身になって相談に応じたりしているはずだ。(同掲書P37より、抜粋&要約)


おばさんにとって自分に関係ある世界は『世間』でありその中のルールやマナーは守る。しかしながら、自分に関心のない『社会』は無視する。これも大変わかりやすい『世間』と『社会』の説明になっていると思う。上記のWikipediaの解説にもある通り、『世間』は差別的で排他的ということがよくわかる事例でもある。『長幼の序』に厳しく、『共通の時間意識』を大事にするために、とにかく一緒にいることを重視する。(会社のサービス残業や長い会議の例等)



世間の崩壊


この『世間』を体現する存在である『地域共同体』も『会社共同体』も今、崩壊しつつある。特に若年層など、この拘束性の強い『世間』を拒否する傾向が強い。年功序列も終身雇用も崩れつつある会社共同体は、かつては構成員に与えることができた実利や安心感をもはや保証できなくなってきている。とすれば、窮屈なだけの共同体の掟に誰が好き好んで従うだろう。衰退し、崩壊の淵にあるのも当然だろう。


だが、『世間』から放り出された日本の『個人』はどうすればいいのだろう。先に述べた通り日本には『世間』のように『個人』を包摂し安心を与えてくれる『社会』はない。いや、『社会』はあるが、それは日本の西洋化とともに持ち込まれた抽象概念/たてまえ、としてだけしか存在しない。宗教共同体も(一部にはあるが)一般的ではない。日本人には自分を包摂してくれるセフティネットがない。これは私も何度も語って来たことだ。



神のかわりの世間


だが、『世間』が与えてくれるのは、包摂や安心感だけだろうか。どうやら、それよりもっと深いレベルで日本人を支え、判断基軸を与えて来た存在なのではないか。


1972年10月、飛行機がアンデス山中に不時着して、乗客は極度の飢餓状態となり、先に死んだ乗客の死体を食べて生き延びたという事件があった。

ウルグアイ空軍機571便遭難事故 - Wikipedia

全員キリスト教だった乗客たちは、最終的に、一人一人神に問いかけ、その神との対話の中で納得した人は死体を食べて生き延びた、という。もしこれが日本人だったらどうなったのか。

たぶん、全体ではなんとなく議論して、でも陰でいろいろと根回しをして、一対一だと本音で話して、『空気』を読んで、みんなが納得したようなら、食べるでしょう。一番年上の人が、『長幼の序』で最初の一口を食べるかもしれません。逆に、『長幼の序』で一番若い人間がまず、食べさせられるかもしれません。『神秘性』に頼って、じゃんけんとかくじ引きで、最初に食べる人を決めるかもしれません。誰か一人だけが食べないことは許されないでしょう。日本人が作る『世間』という集団は『無差別で排他的』ですし、誰かが一番に食べるという積極的な『犠牲』を選んだ後は、『贈与・互酬の関係』によって、その犠牲としての贈り物をムダにはできないので、みんな食べるという決定に従うでしょう。全員が食べたのに、一人だけ食べずに餓死した場合、その死体は、食べたのに(ケガなどで)死んでしまった人に比べて、暗黙の了解の中で『差別的で排他的』に扱われるのではないかという想像も働きます。(同掲書 P89)


確かに、20年前の日本人なら、間違いなくこのようなプロセスで事を決めただろう。西洋の神の役割を日本人にとっては『世間』が担っている、ということだ。極限の判断の基準さえ与えてくれるのが世間だ(だった)。日本人にとって、世間という存在がいかに重要である(あった)のかが理解できる非常にわかりやすい説明だと思う。(余談だが、日米開戦も原子力発電所の建設も、おそらくこのような、西洋的価値観から言えば非合理なプロセスで決まったのだろう。『科学的に』とか『理性的に』という掛け声が如何に日本の決定のプロセスの実態を知らないナイーブなものかを思い知らされる。)



世間への愛惜


これでは、世間は崩壊しても、日本人の共通の無意識に残る『世間』への愛惜は簡単にはなくならないだろう。実際、今『世間』が崩壊して、何が起こっているのかと言えば、『世間』という空間が成立する条件が欠けた不安定な状態を『空気』が代わりに支配している。不安定な『空気』の支配が日本を覆っている。安心を与えてくれる世間が崩壊した後には不安定な空気しか残らないわけだが、世間を体現する地域共同体や企業共同体が崩壊しても、『共同体の匂い』に安心と依存を求める人たちの数は減らず、むしろ増えていると考えられる兆しがある。


鴻上氏によれば、不安になればなるほど、自分を支えてくれる『共同体』を日本人の多くは無意識に求めてしまい、そういう人たちは『共同体の匂い』に過剰な期待を寄せ、『共同体の匂い』に実力以上の力があると信じ、場の『空気』を探り、従おうとする、という。西洋の神にも比肩する存在としての世間(あるいはその代替物としての空気)を危機において希求する日本人という説明は、かなり説得力がある。



世間原理主義


だが、グローバル化の進展の中、日本企業の業績は一部を除いて相変わらずさえない。製造業の多くはますます日本脱出をはかっている。日本人の不安は増すばかりだ。だが、不安であればあるほど、『世間』の原理に戻り、強力な『世間』を作り上げようとし、中でも、日本人にとって誰もがわかりやすい、『世間』の一番伝統的で原理的なもの、すなわち、『古き良き日本』という『世間』が選ばれると鴻上氏は主張する。これはまさに右翼そのものに見えるが、かつての右翼のように天皇中心の日本を創りあげようとするのではなく、『世間』の原理に帰り、伝統的で暖かい日本、一つの家族だった日本に戻ろうとしているのであり、鴻上氏はこれを『世間原理主義者』と命名する。人は不安になると洋の東西を問わず、原理原則にもどり、原理主義者は悪いことを悪いと原理的に追求する。そして、この価値観に反する行動をする『敵』を見つけて激しく糾弾する。



原理主義の悲惨


日本の古い伝統を知る中高齢層だけではなく、必ずしもそれを体感していない若年層にもこの原理主義的な傾向が顕著になってきているように見える。これが先に私が述べた、『今回の問題意識』、ということになる。『2ちゃんねる』等で、起きる炎上も、火を焚き付けているのは、この原理主義的な傾向を持った人たちと言えそうだが、彼らは旧来の意味での右翼思想を背景に持つというよりは、まさに、『空気』としての右翼的な気分に『共同体の匂い』を感じ、安心と依存を求めているように見える。そして、悪を暴き、強く糾弾する瞬間だけ、この『幻想の共同体』に包摂されているという安心感を感じているのではないか。


あえて幻想と言わざるをえないのは、ここで言う伝統的な古き良き日本というのが、各自の思いの中にしかなく(何かに書かれているわけではなく)、実体がないからだ。自分が信じる古き良き日本を奉じる行為が、いつ他の原理主義者から、それは古き良き日本に対する冒涜的行為だと糾弾されないとも限らない原理主義が煮詰まって行くと、より純粋と信じた者がそうではない者を糾弾するという方向に向かいがちであることは、古くはフランス革命から、近くは連合赤軍に至るまで史上に例は多い。こうなると安心を求めたはずが、常に不安に苛まされることになりかねない。しかも、そのような濃密な集団を、『世間』の抑圧と強制力をますます敬遠する傾向にある日本人を相手に維持していくことは現実問題として非常な困難が伴うはずだ。



第三の道


ここまでの語りに、非常に陰惨な近未来が見える気がして、気が重くなった人も多いかもしれない。


では、何らかの解決の糸口、第三の道はあるのだろうか。


実は、原理主義と並行して、現実に起きているもう一つの出来事は、共同体の匂い、共同体の気配を持つインターネット環境の中であらたに出来上がった『世間』の中に埋没するというあり方が、若年層の間でも流布してきているということだ。100人とも200人とも言われるインターネット内の『友人』から仲間はずれにならないために、懸命にメールを送り、ソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)に必死に書き込みを続ける若者はまさにインターネットの中の『世間』にいる。だが、これが本質的な救いにならないことは言うまでもない。むしろ、少しでも早く抜ける努力をするべきだろう。鴻上氏もそのような『世間』を去って『社会』に出会い、参加することをすすめている。


『共同体』や『共同体の匂い』に安易に乗りかかることを拒否して、強い『個人』であり続ける、という選択肢は、もちろんあります。日本人が『共同体』と『共同体の匂い』に怯えず、ほんの少し強い『個人』になることは、じつは、楽に生きる手助けになるだろうと僕は思っています。(同掲書P213〜P214)

もし『個人』が強くなれる理由があるとすれば、その方が快適だからです。じっと『空気』に押しつぶされてガマンするより、『王様は裸だ』と叫ぶ方が快適だからそうするのです。個人の自立とか社会変革とかのスローガンではなく。生きるのが楽になるからするのです。『前向きの不安』と『本物の孤独』を手に入れれば、『個人』であることはずいぶん快適になります。(同掲書 P216)


そして、そのほんの少し強い『個人』になってインターネットを通じて『社会』に向かうことを推奨する。

彼は幻の『世間』に向けてではなく、『社会』に向けて文章を書いたのです。だからこそ、『社会』に住む彼女と出会うことが出来たのです。
インターネットには、こんな力もあるのです。人間がどこまで最低になれるのかの実験を続けているのがインターネットですが、同時にまだ見ぬ人と出会う可能性を広げてくれるのもインターネットなのです。(中略)インターネットの一番の肯定面は、自分で『共同体』を選ぶきっかけを見つけられるということです。『世間』の特徴は、『所与性』だと書きました。自分が選ぶのではなく、与えられるものです。けれど、インターネットは、自分の所属する共同体を選び取る可能性を、私たちに与えたのです。(同掲書P225〜P226)


私があえてコメントするまでもない。まったく賛成だし、どうすればこれを推進することができるのか、自分でも考えてみたい。

*1:

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)