有森裕子。『[劇場版]ライバル伝説〜光と影』
 6月16日より公開された『[劇場版]ライバル伝説〜光と影』。本作は、TBSテレビで放映されたドキュメンタリー番組「ライバル伝説〜光と影」の中から反響の大きかった2組の対談を、40分以上の未公開シーンとともに再構成、再編集したもの。TBSテレビ「ZONE」「バース・デイ」「プロ野球戦力外通告 クビを通告された男達」など、数々のスポーツドキュメントを手がけてきた、同局プロデューサー菊野浩樹が総監督を務め、俳優・堤真一が語り手を担当する。

 実現した対談は、江川卓と西本聖。彼らは「いつも、おまえが憎かった」……と、禁断の巨人エース争いについて語った。もう1組は、1992年のバルセロナ五輪以降、一度も言葉を交わすことのなかった有森裕子と松野明美。二人は当時、女子マラソンの日本代表の座を争った。松野が「私を選んでください」と異例の会見を行い、二人の代表争いは、スポーツ史に残る出来事になった。それから20年、本作でトークを交わし、心の中に去来するものや、それぞれの積年の思いなどが映像に収められた。そこで今回、有森裕子に、当時の心境や本作に出演したきっかけなどの話を聞いた。

――選考会の騒動。有森さんを支えた「心のより所」をお教えください

有森裕子(以下、有森):「心のより所」は多分、逆に無かったんだと思います。というか、持たなかったのかも……。基本、私は追い込み型なので、それが出来ること、必死になれること、真剣になれること。そんなことが、私のより所だったような気がします。

何かやることがあったり、出来ることがあれば、それでOKでした。なので、そういう意味では「決まっちゃえば、やるしかない」と思えたし、やれることが決まれば、後はどうにでも出来ちゃうんです。それを全部パワーに変えました。

――それでは、世間の声は気にならなかったですか?

有森:気にならなかったことも無いのですが、それ以上にやらなければならないこと、クリアしなければならないことがありました。それに、気にならない程度に、周りがケアしてくれてましたね。監督もそうだし、両親もそうですし。かなり楯になってもらったというか……、そういうことがたくさんあったと思います。だから、そういう人たちには恵まれましたね。

――やらなければいけないこととは、メダルを獲ることですか?

有森:いいえ、練習ですね、監督の出す練習です。私自身も「行ってみせますバルセロナ、咲かせてみせます金の花」とか書いたぐらいなので、その願いは多少はあったと思いますが、じゃあ本当に金を獲るために具体的に何か描いていたかと言われれば、実際にはそこまでは思っていませんでした。ただ、獲れれば良かったけれど……。

だけど獲れればとも思わなかったですね。なにしろ監督に「獲れるよ」って言われたことが無いんですよ。面白いもので、3人の中で、高橋(尚子)、鈴木(博美)。この2人は「絶対、金メダルが獲れる」「獲るために、こうやろう」って言われているんです。でも、私だけ言われてないんですよ。一人だけ……。

それでそのときは、本当に金メダルを獲れるとは思わなかったし、監督もメダルを獲れるとは思ってなかったと思います。代表選手の中で、私の持ちタイムは10番目くらいだったし……(結果、銀メダルを獲得)。

監督はだいたい当てる人なんですけど、だからこそ予想。想像を良い意味で裏切ったのは私だけで、そういう意味では、メダルは後からついてきたって感じですかね。

――メダルを獲りたい人はたくさんいますもんね。

有森:そうですね。ただ面白いことに、金は狙わなければ獲れないんですよ。だって銀を狙う人っていないですよね、銅を狙う人もいないですよね。この銀と銅だけは「あ〜っ、金が獲れなかった」と言う人か、「あ〜っ、メダルが獲れちゃった」と言う人なんです。この2種類しかいないんですよ。だけど金だけは、どうしてもやっぱり「狙う」って言う人の方が圧倒的に獲れる人が多いんですよ。だから私も監督に、「あーこれもしかしたら金を獲れるよ」と言われていたらどうだったかなぁと思って……。でも、ちょっと言われてみたかったですね。

――過去に戻れるとしたら、どこに?

有森:監督に「金メダル獲れるよ」と言ってもらった後、どうなったのか見たいですね。

――では、レース自体に悔いが残って、やり直したかったことは?

有森:たらればで言うと、もし戻れたら、逆に無いんですよ。シーンでひとつ言うとアレも、目いっぱいだったしなぁ……。ウーン……。

――そうですね、常に全力を出されてましたよね?

有森:全力、全身手の抜きようが無いぐらい抜いていないんです。要は不器用なんですよ。とにかくやれと言われれば最初から最後まで全力で行くし、このぐらいから入って、こうして、ああして、って言うような事が、不器用なので出来ないんです。やれと言われれば「わー」ってやるし、だから良い時は良いけれど、出来ない時は出来ないんでしょうね。

――選考会の騒動以降、松野さんとはお会いしましたか?

有森:オリンピック(バルセロナ)の選考が終わってから本当に会うきっかけが持てなかったし、無かったし……。と、同時に世間では、この2人を番組に出そうと、オファーは来たわけですよ。色々と似たような企画で、例えば、まさに「あの時の2人」とか、「あれから2人は」みたいなものが、だけどこれって正直笑い話にならないんですよ。全然……って言うぐらい、何にもならないんですよ。本当に自分たちだけじゃないんです。

それはうちの両親や家族、当然向こうの家族も含めて関わった人、全ての人たちが本当に大変だったんです。だから当時は、申し訳ないけれど、やっぱり語りつくせないし、どう作りようにも……もう想像出来なかったですね。

あの騒動についても、私たち以外のところで何があったかなんて分からないし、私たちの知り得ていることで「そうだったんだ、だからこうだったんだ」ってならないんですよ。だから会って解消できるもので無いし、私としては想像出来なかったので、そういう形で会って公にはしたくなかったという思いはずっとありました。それに松野さんは一時、芸能界に入られ、テレビにも頻繁に出られていましたし、結構“話したい、会いたい”って言うことは聞いていましたが、最後は私のスケジュールが合わなかったことも幾つかはあって、最終的には私がその手のものには「申し訳ないけど、そういうのって……」っとお断りしていました。

――今回、松野さんとの対談を決意させたものは?

有森:そうですね、何回かオリンピックが来るたびに選考問題って出てくるわけですよ。その度に私は「何で出てくるのか!」「何でこうなるの!」って思うわけですよ。だからこのことを少しでもちゃんと考えてれば良かったという後悔があるんです、ずっと……。

しかし、私はバルセロナの選考会では、良く(選出された)された方なんですが、結果オーライじゃなくて、何故このような問題が起きたのか? ってことを考えて欲しかった。だけどそれをしなかったゆえに同じようなことが毎回繰り返されるわけです。

その度に、何でこうなるのかを懇々と考えて欲しい、と言う思いが私の中にずっとありました。アトランタの選考の時でもそうですし、それ以降もそうでした。それでもアトランタの時が決定的でしたね。だからアトランタの時に、TBSの取材で私は選考問題について、ものすごく語ってしまった訳なんです。

それから随分時間は掛かっていますが、松野さんとの関係も「どっかで止めなきゃ」「ちゃんと考えなきゃ」と、気にもなってはいたんです。そしてお手紙を頂いたんですよ、TBSの方から、長々と……。その手紙には「ちゃんと作りたい」という思いが書いてありました。そうすると、そこまでの思いも気になるし……ということもあり、結局、松野さんも非常に会いたがっているって言われた時に、これをまた「イヤイヤ」って言う事の方が不自然に思えるし、もうそろそろね、そこまで相手が嫌味なく、とにかく会ってっていう思いをずっとお持ちならば、会った方が良いのかな、と思いました。

私も自分の中で、いい加減だった。来るたび(選考会)にカッカ、カッカするのでは無く、ちゃんと、ちゃんとって……。会ったほうが、イイのかなって思って、きちんとインタビューを取って頂けて、きちんと出来るのであれば「ハイ」っって言うことで、お受けしたんです。