愛国について語るのはもうやめませんか

2007-06-20 mercredi

教育関連三法が今日参院を通過する予定だそうである。
安倍首相は昨日の参院文教科学委員会の総括質疑でこう答えた。

「地域を愛する心、国を愛する心を子どもたちに教えていかなければ、日本はいつか滅びてしまうのではないか。今こそ教育の再生が必須だ。」

私は子どもが郷土や国家にたいして愛着を持つことは国民国家にとって死活的に重要であるということについて首相に異存はない。
しかし、「愛国心」というのはできるだけ公的な場面で口にすべきことではない言葉のように思う。
法律文言に記すというようなことはもっともしてはならぬことである。
それは左派の諸氏がいうように、愛国教育が軍国主義の再来を呼び寄せるからではない。
愛国心教育は構造的に人々の愛国心を毀損するからである。
私は愛国者であり、たぶん安倍首相と同じくらいに(あるいはそれ以上に)この国の未来とこの国の人々について憂慮している。
日本人はもっと日本の国土を愛し、日本のシステムを愛し、日本人同士もっと愛し合わねばならない。
私はそう思っている。
しかし、もしこの願いをすこしでも現実的なものにしようと思ったら、「愛国心」という言葉の使用はできるだけ回避した方がよろしいであろう。
私はそう思う。
なぜなら、「愛国心」という言葉はそれを口にした人間に必ずや祖国のシステムとある種の同国人に対する憎悪の感情を備給せずにはおかないからである。
私自身の愛国心理解はたいへんシンプルである。
それはことあるごとに「日本の伝統とか風土って、最高だよね」といい、「日本のシステムって悪くないと思うぜ」と他人にも自分にも説ききかせ、異郷で同国人に会うと、その人の人間的な出来不出来や思想信教イデオロギーにかかわらず、とりあえず愛してしまうというかたちをとる。
「Where did you come from?」
「Japan」
「え?あんた、日本人なの。ほんと? わお。今日は飲み明かそうぜ」
というのが私的な愛国心のもっともシンプルな発現形態である。
よく考えると理不尽である。
どうして、地理上、法制上の擬制であるところの「区切り」の内側にたまたま居合わせた人間同士はそうでない人間よりも優先的に愛し合わねばならないのか。
私にもよくわからない。
けれども、これを「愛国心の発露」であるというふうには思っていない。
思わないようにしている。
じゃあ、どういう感情のありようなのだと訊かれたら、「なんか、よくわかんないけど、あるじゃん、そういうのって・・・(もごもご)」と言葉尻を濁らすことにしている。
というのは、もし「同国人を優先的に身びいきする態度」のことを「愛国心」というふうに言ってしまうと、そうではない愛国心のありようとフリクションが起きるからである。
というのは、ほとんどの「愛国者」の方々の発言の大部分は「同国人に対するいわれなき身びいき」ではなく、「同国人でありながら、彼または彼女と思想信教イデオロギーを共有しない人間に対する罵倒」によって構成されているからである。
さきの安倍首相のご発言にしても、文教科学委員会の野党席からは「何いってんだバカヤロー」というような口汚いヤジが飛んだであろうし、それをハッタとにらみ返した首相も、機会が許せば彼らを火刑台に送る許可状にサインしたいものだと思っていたことであろう。
いや、隠さなくてもよろしい。
そういうものなのだ。
人は「愛国心」という言葉を口にした瞬間に、自分と「愛国」の定義を異にする同国人に対する激しい憎しみにとらえられる。
私はそのことの危険性についてなぜ人々がこれほど無警戒なのか、そのことを怪しみ、恐れるのである。
歴史が教えるように、愛国心がもっとも高揚する時期は「非国民」に対する不寛容が絶頂に達する時期と重なる。
それは愛国イデオロギーが「私たちの国はその本質的卓越性において世界に冠絶している」という(無根拠な)思い込みから出発するからである。
ところが、ほとんどの場合、私たちの国は「世界に冠絶」どころか、隣国に侮られ、強国に頤使され、同盟国に裏切られ、ぜんぜんぱっとしない。
「本態的卓越性」という仮説と「ぱっとしない現状」という反証事例のあいだを架橋するために、愛国者はただ一つのソリューションしか持たない。
それは「国民の一部(あるいは多く、あるいはほとんど全部)が、祖国の卓越性を理解し、愛するという国民の義務を怠っているからである」という解釈を当てはめることである。
そこから彼らが導かれる結論はたいへんシンプルなものである。
それは「強制的手段を用いても、全国民に祖国の卓越性を理解させ、国を愛する行為を行わせる。それに同意しないものには罰を加え、非国民として排除する」という政治的解決である。
その結果、「愛国」の度合いが進むにつれて、愛国者は同国人に対する憎しみを亢進させ、やがてその発言のほとんどが同国人に対する罵倒で構成されるようになり、その政治的情熱のほとんどすべてを同国人を処罰し、排除することに傾注するようになる。
歴史が教えてくれるのは、「愛国者が増えすぎると国が滅びる」という逆説である。
「ドイツは世界に冠絶する国家」であるという自己幻想と「あまりぱっとしない現状」のあいだをどう架橋すべきか困ったナチスは「ドイツが『真にドイツ的』たりえないのは非ドイツ的ユダヤ人が国民の中に紛れ込んでいるせいである」という解を得た。
そして600万のユダヤ人を殺した。
ナチスの仮説が正しければ、ドイツ支配地域のユダヤ人がほぼ全滅した時点で、「真にドイツ的なドイツ」が顕現して、ドイツはその絶頂期を迎えるはずだったのだが、どういうわけかどんどん戦況は悪化した。
この反証事例の説明に窮したナチスは「スターリンもルーズベルトもチャーチルも、すべてユダヤ人の手先なのである」という説明を採用して、破綻を糊塗した。
さらに戦況が悪化して、ベルリン陥落直前になったときに、困り果てた宣伝相ゲーリングはこのアポリアをすべて説明できる最終的解決を思いついた。
それは「ヒトラー自身がドイツを滅ぼすためにひそかに送り込まれたユダヤ人の手先だった」という解釈である。
これならすべてが説明できる。
これを思いついてゲーリングはかなりほっとして死んだことであろう。
愚かしいと笑う人がいるかもしれないが、愛国心というのは本質的にこういうグロテスクな自己破壊といつだって背中合わせなのである。
あなたの身近にいる「自称愛国者」の相貌を思い出して欲しい。
彼らのもっともきわだった感情表現はおそらく「怒り」と「憎悪」であり、それはしばしば彼ともっとも親しい人々、彼がまさにその人々との連帯に基づいて日本国全体の統合を図らなければならない当の人々に対して向けられている。
私はそのような性向をもつ人々がいずれ国民的統合を果たし、国民全体にひろびろとゆきわたるような暖かい共生感をもたらすであろうという予見には与しない。
憎悪から出発する愛などというものは存在しない。
排除を経由しなければ達成できない統合などというものは存在しない。
自分に同意しない同国人を無限に排除することを許す社会理論に「愛国」という形容詞はなじまない。
それはむしろ「分国」とか「解国」とか「廃国」というべき趨向性に駆動されている。
そういうお前は愛国者なのか、と訊かれるかもしれないから、もう一度お答えしておく。
そういう話を人前でするのは止めましょう。
現に、愛国心をテーマに書き始めたら、私もまた「愛国心」のありようを私とは異にする同国人たちに対する罵倒の言葉を増殖させ始めている。
愛国心についてぺらぺら語ることは結果的に同国人を愛する動機を損なう。
真の愛国者は決して「愛国心」などということばを口にしない。
ことばじゃなくて、態度で示す(同国人に対するいわれなき身びいきとかで)、ということでいかがでしょうか。
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