ところが。
一部の関係者の人が、ビンを海に投げるのはゴミの不法投棄と同じで環境汚染になるから反対だと言い始められましてですね。まあ、原理的にはそうでしょう。自然にはないものを海に投げ込むんですからね。しかし、ガラスのビンは別に有害物質ではないし、世界中で海に流れ出しているゴミが毎年何百万トンあるのか知りませんが、それに比べたら目にも見えないレベル。海の向こうの誰かが拾ってくれたらうれしいな、という子どもたちの無垢な夢を挫く理由にはなるはずもないと思っていたら、反対派の人たちは意外に強硬で、林間学校の主催者側の人に「少量でもゴミになる可能性のある物を海に投げるのはいけない。環境汚染を認めるのか?」と難詰を続けられまして、ついに主催者側の人は手紙の入ったビンを流すイベントを中止すると言わされてしまいました。
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ゼロリスクを求めていては何も出来ない、ゼロか、そうじゃないかの二元論じゃどうしようもないという話を書いたんですが(「絶対に」安全、なんてないのさ。)、こういう「絶対」を求める人って、量の感覚、数量の理解のバランスが悪いようにも思うのです。
普通の大人なら、100円と100万円の違いは実感として理解できる。たぶん、1000万円、1億円くらいまでなら感覚として分かる。ところが10億円となるとだんだんその大きさが抽象的になってきませんか?会社経営とかしている人なら実感のある数字でしょうけど、10億円くらいになるとニュースで見る数字であって、日常に接することは少なくなる。そしてこれが1000億円とか、10兆円とかになると、そりゃ数字としてはどういう量なのかは知っているけれど、実感を伴わないものになってくる。
でもそれは、やはり1000億円であり、10兆円であって、巨額で重大な数字ではあるんです。日常生活の実感からは遠くなるけど、重大な数字なのです。だから、真剣に考えなくちゃいけない。
なんだか最近、こういう数量の意味を忘れてしまったかのような、日常生活の感覚だけの感情的な議論が多いように思うのです。いや、最近じゃなくて、昔からあったのに、ネットが普及してそういう議論が可視化されただけなのかもしれませんが。
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国会議員の数が多すぎるとか、議員歳費をもらい過ぎだと攻撃する人たちがいる。そりゃね、税金で賄っているんだから節約するに越したことはない。でも、何を以て「多い」のか。議員の仕事にお金がかかるのは当然だし、有能な人に議員を目指してもらうためにはそれなりの待遇があるべきだと思うの。議員の数にしても、多数代表制でも比例代表制でもいいけど、国民の声を正当に代表させて安定した政権運営をするのはどういう選挙制度でどのくらいの議席が必要なのか、というところから議論すべきで、「まずは自身の身を切る努力から」などという場当たり的で感情的な対策が成熟した議会政治に資するとも思えないんですよね。
国会議員を一人減らせばたぶん1億円くらい節約になるのかもしれない。しかし、国家予算は100兆円くらいの話をしていて、そこには10の6乗の差がある。100人減らすとしてもまだ1万倍。税金を原資としているのだから節約せねばならない、というテーゼには反論のしようがないですけど、数字を見れば議員歳費の問題とか現実的には重箱を隅をつつく議論と言ってよさそう。節約はしてほしいけど、その議員歳費削減の議論に多大なエネルギーを費やすことが、全体にとって生産的なことかというと疑問です。ちゃんと議員さんにお金を払って、社会保障でも外交防衛でも、落ち着いた議論をしてほしいもの。
東電の社員が給与をもらい過ぎだと攻撃する人たちもいる。これも、大きな問題を起こして電気代の値上げをお願いしている会社なのだから、人件費の圧縮は当たり前の話であって、それに反論のしようはない。しかし、度を越した攻撃というか、いじめに近い発言を気持ちよさそうにネット上で発している人も少なくないんですよね。
たとえば東電の人件費は年に4000億円ぐらいだそうで、これの2割減、3割減なんていう話になっているとかで、まあ、1000億円ぐらいの人件費圧縮になる。他方で、原発を停めたことで日本から流れ出している燃料代は年に4兆円、電力不安のGDPへの影響はマイナス1%くらいではという話で、だとするとこれも5兆円くらいの話になる。これからのエネルギー政策とか電力の安定供給とか、1年で数兆円規模になる話をしている時に1000億円にあとどれだけ積み増しできるかという議論にすごいエネルギーを割いて、現場の人たちを萎縮させてしまうのは、正直どうなんだろうかと思うんですよ。金額にして100倍くらい差がある話なのに。東電が憎かろうとなんだろうと、あるいは国有化されようと破綻処理されようと、電力供給の現場の人にはそれなりにがんばってもらわなくちゃならないわけだし。
生活保護の不正受給に対する攻撃も同じにおいがする。生活保護の不正受給は悪い。それに反論はできない。でも、総支給額3兆7千億円とか言ってて、不正受給率はその0.4%だそう。かくれ不正受給があるとしても、「生活保護受給者が増えている」という問題の本質から見れば、不正受給の問題はせいぜい100分の1の大きさの議論なわけです。
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「国会議員の税金の無駄使いを弁護するのか?」
「東電社員の破格の待遇を擁護するのか?」
「生活保護の不正受給を看過するのか?」
そういう風に問われれば、「いいえ」という答えしかない。しかし、私たちは完璧な世界に住んでいるわけではないし、人が集まれば不正や不都合も起きる。不正、不都合は少ない程よいには違いないけど、ゼロにはならない。どこまでを社会的コストとして認めるかは議論があると思うけど、話の本質に比べて100分の1、1000分の1の大きさの問題に拘泥し、消耗してしまうのはどうしても生産的とは思えないのです。100万円の稼ぎ方や使い方の話をしなきゃいけないときに、1万円の話でぎゃんぎゃん騒ぎ、疲れ切っちゃうような感じじゃないですか。
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だから、子どもたちの手紙を入れたビンは、海に流してもいいと思うんです、私はね。
1 comment:
余裕を持って物事を考えていく。昔は無知出会ったがゆえに、全体の集積がどういうことになっていくか知らずに、多くの無駄をやってきた。しかし、知った今は、単にその無駄を切るというやり方では、社会全体に余裕がなくなるだけのお話ですね。
ガラス瓶を流すか流さないかのお話でも、東電でも、国会でも、生活保護問題でも、結局、どこに余裕をもたせるか、という議論ではないかという気もします。その余裕が、多くの人の「きちんとした社会を作ろう」という考えに資するものであるようにするにはどうするか、ということ。
そこからは、生きているというだけで、一体の生活保障をする、本来の意味のベーシック・インカムの必要性も見えて来るような気がしました。
とても、面白いお話でした。ありがとうございます。
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