『人種とスポーツ』〜黒人は本当に「速く」「強い」のか〜(川島浩平著/中公新書)
身体能力は人種によって違うのか――。五輪などの歴史を辿りつつ、最新の科学的知見を交え、身体能力と先天性の問題を明らかにする。

写真拡大

世界一速い男は、やっぱりウサイン・ボルト。9秒63のオリンピックレコードで、圧巻の2大会連続の金メダルを成し遂げた。
自身の持つ9秒58の世界記録には及ばなかったものの、圧倒的なスピードで人類の「最高到達点」を見事に表現してくれたボルト。誰もなし得ない「人類の高みの記録」と捉えれば、「より速く、より高く、より強く」というオリンピックモットーをこれほど端的に示してくれる競技もなく、まさに陸上男子100Mは五輪の華である、ということを再認識させてくれた。

ロンドン五輪はいよいよ後半戦に入り、注目競技も競泳から陸上へと舞台が移ってきた。競泳ではなかなか活躍シーンが見られないのに、陸上競技になると一転、黒人選手の活躍が目立ってくる。陸上100M決勝だけでなく、同日行われた女子マラソンでも、エチオピアのティキ・ゲラナ選手、ケニアのプリスカ・ジェプトゥー選手のデットヒートが最期まで注目を集めた。前日に行われた女子100M決勝では男子同様ジャマイカのシェリーアン・フレーザープライス選手が北京に次ぐ連覇を果たし、男子100M決勝に出場した8人は全て黒人選手である。それどころか、ここ30年の男子100M決勝でスタートラインに立った選手64人、すべてが黒人なのだ。
「黒人選手とスポーツ能力」……五輪や世界レベルの大会のたびに話題にのぼるテーマだ。時に驚嘆すべき事実として、時に日本人選手が勝てない免罪符として語られるこの話題について、古今東西の様々な文献・研究論文を元に解説・検証した本が話題を集めている。オリンピックの今こそ読んでおいきたい書籍として、川島浩平著『人種とスポーツ 〜黒人は本当に「速く」「強い」のか〜』をオススメしたい。

「黒人選手とスポーツ能力」は、スポーツ文化論としても社会学としても古くから議論されてきた研究テーマであり、実は現在に至るまで考察本も多い。だが、それらの本のほとんどは「黒人=脚が速い、スポーツ万能」という単純な図式を大前提のものとして描かれている場合が多く、それぞれの著者の想像の範疇から抜け出ていないことがまま見られる。それは「人種」というセンシティブなテーマを扱う上で、決して褒められた方法ではないだろう。本書が警鐘を鳴らすのも、スポーツにおいてこの「黒人優位説」という概念がステレオタイプの考えになりすぎている点だ。また、黒人選手が実際に突出した記録や結果を出しているとしても、その「黒人」とはどういう存在なのかについても細かく分類し、普段のスポーツの見方、実況アナウンサーやスポーツ紙で語られる「黒人」という単語がいかに乱雑であるかも本書を読むことでわかってくるだろう。私自身、冒頭で100Mとマラソンの結果を例に「黒人」選手の活躍について触れてみたが、ここから既にステレオタイプな物言いであると見ることもできるのだ。

これらの言説について本書の中で簡潔にまとめられているのが、第VI章「水泳、陸上競技と黒人選手」における陸上競技・世界記録保持者についての考察だ。ほとんどの種目において黒人選手が記録を独占しているのだが、細かくその「出自」にまでさかのぼって行くと、極めて特徴的な傾向が見えてくる。それは、短距離5種目(100M、110Mハードル、200M、400M、400Mハードル)ではいずれも「西アフリカ」を出自とする選手が世界記録を成し遂げ、中距離5種目(800M〜3000M)では東・北アフリカ出自、そして、長距離3種目(5000M、10000M、フルマラソン)では東アフリカを出自とする選手である、という点だ。短絡的な思考であれば、この事実を元に「やっぱり黒人選手は速い! 先天的なものだ」となってしまうかもしれないが、一口に「黒人」といっても、そして「アフリカ」をルーツとする考えを持ち出してみても、その「地域性」で得意な分野が変わってくるのだ。
例えば、「地域性」についてさらに掘りさげて行くと、今回の女子マラソンを制したエチオピア(東アフリカ)の中でも「アルシ」と呼ばれる地域が、2位のケニア(東アフリカ)であれば「ナンディ」という地域に特に有力選手が集中していることがわかってくる。そこからは、単に「黒人だから」ということではなく、その地域・集団によって形成される精神的特徴、生活習慣、経済行動に起因してくる、という考察が導きだされてくる。
同様に、ボルトをはじめ数多くのスプリンターを輩出する短距離王国ジャマイカについても考察されている。同じ西アフリカを出自とし、ジャマイカからわずか600キロ(東京・青森間)に位置する野球大国・ドミニカ共和国を例に、類似した人種・民族的な出自を持ちながら、国籍や文化が異なれば得意とする種目も変わってくる、という事実を突きつけてくれる。

<長距離種目と同様、短距離種目の場合も環境的な要因が、歴史的、文化的に優れた短距離走者を育ててきた点を見落とすことはできない>というこの項のまとめは、世界大会でなかなか結果を出すことができない日本人選手や競技に対して、「生まれつき体格が違う」「運動能力のベースに差がある」といった安直なエクスキューズで議論を終えてしまうことへの見事な反証と言えるだろう。

本書はこのように、「黒人の身体能力は生まれつき優れている」という従来からある主張を次の2つの立場から再検討していく。
第一に、ステレオタイプや生得説は“歴史的”に形成されてきたものであるということ。第二に、「黒人」と見なされる人びとを運動競技種目で優位に立たせる環境的な要因にも目を向けなければならない、ということ。実際、歴史的に「黒人」とスポーツの中でどのような境遇に置かれ、どんな活躍を示してきたのかを、前半ではアメリカを例に、古くは南北戦争時代から、そして現代におけるベースボール、アメリカン・フットボール、バスケットボールの3大スポーツの中で「黒人」がどのように参画し、存在を無視されつづけ、結果を残し、今日に至ったのかを丹念な調査に基づき明らかにされていく。
例えば、「黒人優位説」のステレオタイプは1930年代の近代オリンピック以降に生まれたものである、という第三章の記述では、黒人のスポーツ界への流出がその後の公民権運動にも繋がっていくとして、以下のような一節がある。
<民主化への流れのなかで、白人と黒人が対等な条件の下に競技場で勝負し、雌雄を決する機会が設けられた。白人は勝つこともあれば、負けることもあった。敗北を喫した白人たちは、以前から彼らの心理に潜在していた差別的な意識や志向によって、黒人の勝因を先天的な資質や才能にあるとした。それは、敗北の屈辱や決まり悪さを紛らわす格好の口実となった(中略)。傷つけられた白人の自尊心を癒す口実は、黒人の自尊心を高めるものでもあった。それがさらなる運動競技熱を煽り、増幅させ、黒人アスリートは増加していく>

「黒人とスポーツ」というテーマについての考察はもちろん、スポーツ文化史として、アメリカの歴史的・文化的考察の書としても大いに勉強になるだろう。

本書には次のような記述もある。
<「黒人には身体能力がある」と語るとき、スポーツで有利な能力が黒人には先天的に備わっているとの前提に立っている場合が多い。しかし現実は違う。スポーツでの有利不利とは、競技が誕生してから今日までの歴史的な過程のなかにある。それは、第一に競技の特徴や規則、第二に競技者個人の素質、才能、精神力および運、第三に指導者と競技者、そしてプレイを観戦し、視聴する一般の人びとによって培われた競技に対する見方、期待、価値観、こうしたものが相互的、総合的に作用するなかで決定されるものである。また、このなかでつくり出されるものが、スポーツの歴史であり、文化といえるのではないだろうか>

競技者自身だけでなく、「観戦者の見方、期待、価値観」までもが結果としてその競技レベルや環境に影響を及ぼす、という考えは、これからオリンピックをはじめ様々な競技を観戦する上でも重要な視点になってくるだろう。寝不足を我慢しながらオリンピックを見て、驚異的な記録を目の前にして感動・感嘆するのも4年に一度の醍醐味だ。だが、数多の人種が集う「人類の祭典」であるからこそ、その背景には何があるのか、文化的・歴史的側面から考察してみるのも一興ではないだろうか。 
(オグマナオト)