コラム:日本経済を蝕む「モルヒネ中毒」=河野龍太郎氏

コラム:日本経済を蝕む「モルヒネ中毒」=河野龍太郎氏
12月14日、BNPパリバ証券の河野龍太郎・経済調査本部長は、マネタイゼーションはいったん始まれば、歯止めがきかなくなると警鐘を鳴らした。提供写真(2012年 ロイター)
河野龍太郎 BNPパリバ証券 経済調査本部長
[東京 14日 ロイター] わずかな例外を除き、日本では過去20年にわたって、財政政策も金融政策も緩和方向に偏った極端な政策運営が続けられている。軽微な景気減速の際にも追加財政や金融緩和が発動され、さらに最近では日本銀行による財政赤字のファイナンス(マネタイゼーション)を可能とすべく、財政制度や中央銀行制度を変更すべきだとの前代未聞の提案まで聞かれるようになった。残念ながら、日本経済が患う「モルヒネ中毒」は悪化するばかりである。
筆者が常々指摘していることだが、財政政策や金融政策など裁量的なマクロ安定化政策そのものに、新たな付加価値を生み出す力はない。マクロ安定化政策が企図するところは経済変動の平準化であり、消費水準のボラティリティを抑えることで家計部門の効用を高めることである。消費水準そのものを高めることが企図されているわけではない。マクロ安定化政策だけで潜在成長率を引き上げ、消費水準を恒常的に高めることは不可能である。もしも、そうした政策だけで潜在成長率を高めることが可能だとすれば、古今東西、あらゆる国がすでに豊かになっていたはずである。
マクロ安定化政策が一見して経済成長率を高めるように映るのは、財政政策を通じて「将来の所得の先食い」が、金融政策を通じて「将来の需要の前倒し」が可能になるからだ。無から有は生み出せない。上がった分だけ、将来、所得や支出は落ち込み、時間を通して見れば、効果はゼロになる。それどころか財政・金融政策が資源と所得の配分の歪みを作り出すことを考えると、真の効果はマイナスとなる可能性もある。これは、財政政策だけでなく、金融政策についても当てはまる。
しかし、議論はいつの間にかすり替わり、「低成長は裁量的な財政・金融政策が足りないからであって、まずは追加財政と金融緩和で成長率を高めることが先決」となってしまう。マクロ安定化政策は、財政・社会保障改革を先送りするための言い訳として体よく使われるのである。
その際、財政政策については、有用な公共事業を選べば、弊害は小さく、効果は大きいという「ワイズ・スペンディング」論が幅をきかすことが多い。確かに、財政の役割は、所得再配分とともに市場の失敗によって民間では対応できない公共サービスを提供することで、資源配分の効率性を高めることにある。だが実際には、経済対策を短期間でまとめようとすると、費用対効果が十分に検討されない事業ばかりが盛り込まれる。近年の経済対策を見ても、予算策定の際に却下された事業の復活が目立つ。ワイズ・スペンディング論は、机上の空論だ。
ちなみに、日本では1960年代以降、社会インフラの整備が急速に進んだため、今後はそれらの更新時期が徐々に訪れる。維持管理費や更新費用を賄うと、新設に振り向ける資金をねん出することは早晩難しくなる。20年後には、維持管理費・更新費を全てねん出することはできなくなるため、どの資本ストックを残すのかという選択を迫られる。社会インフラを新たに作ると、毎年の予算の中で維持管理費が大きな負担となるだけでなく、将来、莫大な更新費が必要となることは十分理解されているだろうか。大型の公共事業など拡張的な政策を支持する政治家たちは、誰がその費用負担を強いられるのか、十分に考え抜いて発言しているのだろうか。
もちろん、近視眼的な財政・金融政策の大盤振る舞いが政治家によって志向されること自体は、何ら驚きではない。潜在成長率の低下を認めず、必要な改革を先送りし、裁量的政策を駆使することで目の前の経済状況の見栄えを良くするという政治手法は、欧米諸国でも長く用いられてきた。将来世代に負担を先送りする選択がなされやすいことは、洋の東西を問わず、代議制民主主義を採用していることのコストだと言えよう。
政治家は、落選すれば「ただの人」になる。低成長を前提とした制度改革は、増税や社会保障給付のカットを通じた歳出削減など有権者に新たな負担を強いるだけなので、回避へのインセンティブが強く働く。だからこそ、先進国はいずこも将来世代への負担押しつけの結果として公的債務の山をこしらえてしまうことになるのだ。
しかし、こうした姿勢が行き過ぎれば、財政危機を招く。特に心配なのが、日本の一部でマネタイゼーションへの安易な期待が広がっていることだ。
中央銀行はマネーという特殊な負債を発行することができるため、マネタイゼーションによって極限まで財政ファイナンスを行うことができる。だが、臨界点に達すれば、財政危機、金融危機、経済危機を招き、われわれの経済・社会制度に壊滅的な打撃を与えることは、歴史が証明している。そして、そうした歴史的教訓から得た知恵として、政治から相当程度独立した中央銀行制度を構築し維持してきた。中央銀行の独立性の目的は、広い意味では「インフレ・バイアスの遮断」だが、より本質的には「マネタイゼーションの誘惑の遮断」であることを今一度思い起こすべきだ。
<歴史の知恵を軽視してはいけない>
もしかしたら、マネタイゼーションを支持する人々は、筆者の理解を超えた経済政策を見出しているのだろうか。たとえば、正しい政策の目的と手段を兼ね備えた為政者が、その目的を実現するために、今はあえて中央銀行の独立性に制限を加え、マネタイゼーションを推進しようとしているのだろうか。しかし、百歩譲って、そのとおりだとしても、そうした行為は厳に慎むべきだと考えている。
まず、いったん変更を加えて、マネタイゼーションが可能になれば、制度を元に戻すのは容易ではない。代議制民主主義の下で選ばれる次代の為政者たちが、健全な財政・金融政策に復するとは限らない。現にわれわれは戦前にこの失敗を経験している。どのような為政者が選ばれても、彼らがマクロ経済や社会に対して致命的な失敗を犯すことを避けるために、われわれは中央銀行に政府からの独立性を付与し、同時にマネタイゼーションを厳しく禁じてきた経緯がある。歴史の知恵が生み出した社会制度の根幹に変更を加える際には、最大限慎重であらねばならない。
また、資産市場を通じて政策効果が広く波及することを考えれば、マネタイゼーションは新たなバブルを生み出す恐れがある。確かに、中央銀行のファイナンスによって、政府が支出を大規模に増やし始めた段階では、新たな所得や支出が湧き出てくるから、消費や投資は増え景気は活気を取り戻す。成長率も高まるだろう。しかし、繰り返すが、それは先食いにすぎない。効果が一巡すれば、増加していた支出は減少し、成長率も大きく落ち込む。後に残るのは、さらに膨らんだ公的債務と収益性の低い政府主導の過剰ストックである。要はバブル現象と変わらない。
そして、成長率の低下を避けるために、再び中央銀行のファイナンスによって、財政支出を増やすというプロセスが継続される。あたかもモルヒネ中毒のように、マネタイゼーションはいったん始まれば、歯止めがきかなくなるのである。
危機に陥る過程を想像してみよう。まず長期金利上昇を抑えるために、中央銀行は市場での国債買い支えを迫られるようになる。だが、次第に効かなくなり、政策そのものが事態を悪化させる。国債を買い支えるために供給するマネタリーベースの価値の裏付けが、中央銀行が保有する国債だからだ。国債が紙くずとなれば、マネーの価値が失われる。長期国債の市場での発行は困難となり、最終的には短期国債ですら買い手はいなくなり、中央銀行がほとんどを引き受けるようになる。
国内総生産(GDP)の2倍以上の公的債務を抱えている日本経済は、危うい均衡の上に立っている。低金利が続いているから財政破綻が避けられているとも考えられ、長期金利が急騰すれば、その途端に財政危機・金融危機が始まる可能性がある。そのような中で、資産価格に相当な影響を及ぼす極端な拡張的政策に打って出ることは、一か八かの賭けとなるのではないだろうか。
政策を決定する際には、少なくとも社会やマクロ経済に取り返しのつかない悪影響を与えないという、慎重な姿勢が必要である。マクロ経済の仕組みに関する限り、われわれが理解していないことのほうが、まだまだ多い。裁量的なマクロ経済政策が万能と考えることの危険性、あるいは進歩主義的な介入主義への過度な信頼に対する反省が、2000年代の世界的な金融危機から得られた教訓ではなかったか。
*河野龍太郎氏は、BNPパリバ証券の経済調査本部長・チーフエコノミスト。横浜国立大学経済学部卒業後、住友銀行(現三井住友銀行)に入行し、大和投資顧問(現大和住銀投信投資顧問)や第一生命経済研究所を経て、2000年より現職。
*本稿は、ロイター日本語ニュースサイトの外国為替フォーラムに掲載されたものです。(here
*本稿は、筆者の個人的見解に基づいています。
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