モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

『4次元宇宙の謎』⑦

 対称性の法則

『4次元』研究の先駆者であるイギリスのハワード・ヒントンは、対称性こそ本質的に高次の4次元現象であることに気付いた最初の1人だった。なぜなら、ものを二重に作るためには、まだ我々の知らないもう1つ別の次元で動くことが必要だからだ。他に方法がないために、対称性は『4次元』の存在に有利な一連の証拠の中でも、特に貴重な1つとみなされている。

 このもう1つ別の次元での運動の可能性を暗示する証拠は、沢山ある。事実、その目に見える実例は、自然の中に事欠かない。例えば、途方もなくバラエティに富んだ形になりながら必ず対称形を守る雪の結晶、星、シダなどがある。人間や多くの動物、木、草などでさえ、ちゃんと対称の法則に従って創造されている。物質世界のあちこちに、これだけ沢山の対称性の事物が存在するからには、それを可能にする高次の次元も、やはり存在するにちがいない。
 
 対称運動の原理を理解するために、次のような例を考えてみよう。26個の小さな立方体から成る大きな複合立方体が、拡大したり縮小したりすると想像しよう。この場合、小さな立方体が分子を表わし、それが集まった物質の小片を複合立方体で表わしている。さらに、それぞれの小立方体の中心からは、中央の立方体とそれぞれの立方体に想像上の線が結ばれているとする。この複合立方体が拡大するところを想像すると、26個の小立方体が自由に動くためには、それぞれが中心から離れながら、それぞれの中心と中央立方体の中心を結ぶ線に沿って動かなくてはならない。
 
 この事から、対称運動の第1法則が導かれる。

 1. 拡大や縮小に際し、分子は自分と中心とを結ぶ直線に沿って動く。
 
 さて、我々の複合立方体をもう少し詳しく見ると、26個の小立方体と中心を結んだ直線がみな同じ長さではないことに気付く。角の立方体からの直線は、側面の立方体からの直線より長いのだ。
 もしも拡大によって分子間の空間が2倍になったとすると、26個の小立方体と中心を結ぶ直線もやはり2倍の長さになる。つまり、26個の小立方体(あるいは分子)は同じスピードで動かず、速いものも遅いものもあることになる。中心から離れたもの程速く、中心に近いもの程ゆっくり動く。

 
 そこで、対称運動の第2法則が導かれる。

 2. 物体の拡大や縮小における分子の運動のスピードは、その分子と中心を結んだ直線の長さに比例する。今度は大きな複合立方体の拡大を観察すると、26個全ての小立方体同士の距離は、源の距離に比例して大きくなっているのがわかる。しかし、26個の小立方体と中心とを結ぷ線を全てAとし、小立方体同士を結ぶ線を全てBと呼ぶことにして、拡大や縮小をする複合立方体の内部に幾つかの三角形を作ってみると、直線Bは直線Aの伸び縮みに比例して伸び縮みするのが判る。
 
 
 このことから、対称運動の第3法則が導かれる。

 3、拡大に際し、分子間の距離はその分子と中心との距離の増大に比例して大きくなる。

  言い換えれば、中心から等距離にある点同士は、いつまでも中心から等距離であり続ける。また、第3の点から等距離にある2つの点は、やはりその点から等距離であり続けるのだ。
 さらに、この拡大の過程では、実に面白い現象が見られる。中心以外のどこかの点からこの運動を眺めると、その点を中心に拡大が起きているように見えるのだ。ちょうどこの点そのものは静止していて、他の全ての点がそれまでの互いの位置関係を保ちながら、この点から離れていく、あるいは近付いてくるように見える。同じ事は、他のどの点を選んでも言えるのだ。言い換えれば、中心がどこにでもあるような感じがするのである!
 生物体の構造に見られる対称の法則は、恐らくこの最後の法則に基づいている。尤も、生物体は拡大や縮小だけで作られるのではない。他の重要な要素、例えば『時間』における運動などが加わってくる。成長の過程で各分子は2つの運動が組み合わされた曲線を描く。すなわち『空間』における運動と『時間』における運動とだ。一般的に言えぱ、成長は拡大と同じパターンを辿るので、成長の法則は拡大の法則と同じものになる。実際、成長の法則から導かれる理論は、人間や昆虫その他のさまざまな動物を含む生物が、対称的な構造を持つことの原因を説明してくれるだろう。
 
 以上簡単ながら、生命体の大半から時には無機物に至るまで、自然界に幅広く見られる対称性の原理の特に際立った特徴を挙げてみた。疑いもなく、この対称性の法則は、宇宙全体を通じて全てのものが互いに関連し合い、互いにバランスを保っているという考え方に有利である。最近の反物質の発見も、この仮説をよく裏付けるように思われる。



 
 静止した時間
 
 恐らく相対性理論と『4次元』の概念との最も大きな違いは、『時間』をどのように考えるかだろう。相対性理論では、『時間』はその属する系と観察者によって変わる相対的なものでしかない。すなわち、それぞれの系は独自の『時間』を持ち、その『時間』は観察者の位置によって変わる、しかにこの視点に立てぱ、『時間』−我々が通常使っている意味の−は大変相対的なもので、その性質は変わらない。
 
 しかし、『4次元』では『時間』をまったく違ったふうに見る。『4次元』にとっては『時間』(我々が時計で測るような“流れる”時間)は、我々の『4次元』感覚が完全でないために起きる一時的な幻影に過ぎない、真のより高次の『時間』は過去・現在・未来に分割されず、永遠不変な唯一の『時間』として、同時に存在するのである。無論、これは重大な違いである。しかも時間はどんな方向へも“流れず”(我々にとっては、過去から現在へ、現在から未来へと流れていくように見えるが)、実際には高次の『空間』で永遠不変であり続ける。静止した『時間』の前で動くのは我々の方なのだ。尤もこの運動は高次の『空間』、言い換えれば『4次元』で起こるために、我々はほとんど知覚しない。

 既に見たように、我々は目覚めている間、自ら作り出した非常に狭い『時間』領域内に閉じ込められている。それを我々は“現在時"と呼ぷ。“現在時”は我々にとって唯一の現実を構成する。この現実は過去と未来を排除する。過去も未来も“現在時”の限界外に存在し、従って、我々にとっては存在しないからだ。だが、これは真実からほど遠く、我々が自らを“現在時”の中に“隔離”しているからに過ぎない。実際は、過去も未来も常に存在し、それが我々にとって、或いは何世紀も昔の誰かにとって“現在”になる時にそうである様に、いつも現実であり続けているのだ。予知や過去認知の経験は、その事実を裏付けるものと思われる。
 
 話を分かり易くするために、我々の物質世界における生活を映画と比較してみよう。フィルムは映写機の運動によって、スクリーンを見ている観客に現実らしく見える映像を生み出す。我々は“流れる”『時間』の中の“現在時”によって、現実らしく見える物質世界を生み出している。だが、実は両方とも幻影に過ぎないのだ。




 相対性理諭の『時間』

 ここでアインシュタイン相対性理論について考えてみよう。といっても、アインシュタイン教授がその結論に辿り着く迄の複雑な数学的プロセスを分析しようというのではない。我々に輿味があるのは、彼の理論の要点だけである。それは次のように定義できるだろう。
 
 1. 物質とエネルギー、『空間』、『時間』の相互依存の法則−これはアインシュタインによって数学的に理論化されている。
 2. 特殊相対性理論−これに依れば、光の速度は光源の運動と無関係であり、2つの物理系同士、または互いに相対的に動く物体の間では 運動それ自体は意味を持たない。
 3. 一般相対性理論−同じ法則を引力の法則と天体の運動にまで拡大したもの。

 以上の定義はごく単純化したものだが、ここでの我々の関心は数学的な複雑さにではなく、この理論全体を通じて『時間』がどのように考えられているかにある。一見したところ、相対性理論の中では『時間』『空間』『運動』という用語が多用され、一定不変の光速に対して、互いに遠く離れた系では相対的な意味を持つために、混同されやすい素地が沢山あるのは否めない。しかし『4次元』の考え方とよく似ているのは、見掛けだけであることがやがてお分かりになるだろう。確かに相対性理論でも『4次元』でも、『時間』と『空間』は最も重要な要素である。だが、その見方も、演じる役割も同じではない。相対性理論では、『時間』はただの『時間』に過ぎず、時計やカレンダーで測るのと同じ『時間』である。ある特定の条件下では相対的とはいっても、それが何世代も何世紀も昔から我々の馴染んで来た同じ『時間』であることに変わりはない。しかも、この『時間』はやはり過去と現在と未来とに分割されている。
 
 アインシュタインの『時間』の観念は、次のように定義できるだろう。互いに相対的に動いている2つの系では、それぞれの系に独自の『時間』があり、その系とともに動く観察者によって知覚され、測定される(言う迄もなく時計を使って)。さらに、異なる場所で起きた2つの事件は、ある地点の観察者には同時に見えても、別の地点の別の観察者には異なる『時間』に起きたように見えるかもしれない。それぱかりか、同じ現象がある観察者には先、別の観察者には後で起きたように見えることも有り得るのだ。そのような状況では、『時間』は2つの要因によって大きく左右される。(1)観察される出来事からの距離。(2)その特定現象と関係する観察者の位置である。言い換えれぱ、相対性理論によると、『時間』は相対的である−ただし、A地点の観察者にとって“過去”であることが、B地点にいる第2の観察者にとっては"“現在”、C地点にいる第3の観察者にとっては“未来”であるというような意味で。
 
 実を言うと、この考え方は新しいものではなく、次のような喩え話をすれぱ、分かり易くなるだろう。ポール、ジョン、ディックの3人が同じ列車で旅行している。ただしポールは先頭の車輌、ジョンは中央の車輌、ディックは最後尾の車輌に乗っているとする。さて、今先頭の車輌のポールが線路脇に死んだ男が倒れているのを見たとしよう。この出来事はポールにとっては“現在”だが、ジョンとディックの車輌はまだその地点に達していず、自分の目で見られないので、この2人にとっては“未来”である。しぱらくして、中央の車輌のジョンもその地点に達して、死んだ男を見る。これで、彼にとってそれは“現在”となったが、ポールにとってはもう“過去”であり、最後尾の車輌のディックにとってはまだ“未来”である。ところで、第4の男ハロルドがちょうどこの列車の上空数マイルのところをヘリコプターで飛んでいたとしよう。ハロルドは列車がこれから渡るはずの小さな橋が、いま急に崩れ落ちたのを見る。この知識はヘリコプターのハロルドにとっては“現在”だが、列車に乗っている乗客全員にとっては“未来”である。

 こう考えれぱ簡単で分かりやすい。尤も相対性理論は、ある系のある観察者にとって“未来”であることが、同じ系の同じ観察者にとって“現在”になる可能性を断じて認めない。あるいはすでに“過去”であることが、同じ系の同じ観察者にとってもう1度“現在”になる可能性も認めない。しかし、『4次元』はそういう可能性や、そのほか多くのことを認めるのだ。高次の『4次元時間を別の形に見るからである。