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'''竹中 重治'''('''たけなか しげはる'''、[[天文 (元号)|天文]]13年([[1544年]]) - [[天正]]7年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]([[1579年]][[7月6日]]))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]・[[安土桃山時代]]の武将。通称半兵衛。
'''竹中 重治'''('''たけなか しげはる'''、[[天文 (元号)|天文]]13年[[9月11日 (旧暦)|9月11日]]([[1544年]][[9月27日]]) - [[天正]]7年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]([[1579年]][[7月6日]]))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]・[[安土桃山時代]]の武将。通称半兵衛。


[[美濃国]]池田郡垂井にて竹中重元の次男として生まれる。元服後、斎藤家に仕える美濃三人衆の一人、[[安藤守就]]の娘と結婚した。<br>
[[美濃国]]池田郡垂井にて[[竹中重元]]の次男として生まれる。元服後、斎藤家に仕える[[美濃三人衆]]の一人、[[安藤守就]]の娘と結婚した。<br>
その後、斎藤家の当主の[[斎藤龍興]]に仕えたものの、冷遇された中、[[永禄]]7年([[1564年]])、龍興の居城の稲葉山城をわずか16人(17人という説も)の部下とともにわずか一日で乗っ取った。この乗っ取りには龍興にことごとく馬鹿にされた鬱憤という説や、岳父の安藤守就が失脚される説があるがいずれも断定はできない。美濃の侵攻を考えていた[[織田信長]]は[[稲葉山城]]を明け渡すように要求したが、半兵衛は断り、自ら稲葉山城を龍興に返し、何事もなかったかのように隠棲した。
その後、斎藤家の当主の[[斎藤龍興]]に仕えたものの、冷遇された中、[[永禄]]7年([[1564年]])、龍興の居城の稲葉山城をわずか16人(17人という説も)の部下とともにわずか一日で乗っ取った。この乗っ取りには龍興にことごとく馬鹿にされた鬱憤という説や、岳父の安藤守就が失脚される説があるがいずれも断定はできない。美濃の侵攻を考えていた[[織田信長]]は[[稲葉山城]]を明け渡すように要求したが、半兵衛は断り、自ら稲葉山城を龍興に返し、何事もなかったかのように隠棲した。



2004年11月19日 (金) 14:52時点における版

竹中 重治たけなか しげはる天文13年9月11日1544年9月27日) - 天正7年6月13日1579年7月6日))は戦国時代安土桃山時代の武将。通称半兵衛。

美濃国池田郡垂井にて竹中重元の次男として生まれる。元服後、斎藤家に仕える美濃三人衆の一人、安藤守就の娘と結婚した。
その後、斎藤家の当主の斎藤龍興に仕えたものの、冷遇された中、永禄7年(1564年)、龍興の居城の稲葉山城をわずか16人(17人という説も)の部下とともにわずか一日で乗っ取った。この乗っ取りには龍興にことごとく馬鹿にされた鬱憤という説や、岳父の安藤守就が失脚される説があるがいずれも断定はできない。美濃の侵攻を考えていた織田信長稲葉山城を明け渡すように要求したが、半兵衛は断り、自ら稲葉山城を龍興に返し、何事もなかったかのように隠棲した。

その後、信長の家臣の羽柴秀吉が半兵衛に三顧の礼を以て招聘し、信長ではなく、秀吉の下についた。以降秀吉の片腕となり、さまざまな権謀術数を駆使し、信長の中国遠征にも参加をした。
しかし、天正7年(1579年)、播磨三木城の包囲中に病気を患う。秀吉は京で養生するようにいさめたが、半兵衛は「陣中で死ぬこそ武士の本望」と断り、そのまま病死した。享年36。肺の病気(肺炎か肺結核)が元でなくなったという。墓は陣地のあった兵庫県三木市平井山観光ぶどう園の園内にある。

「名軍師半兵衛」の虚像と実像

以上が巷間に伝わり、現在の歴史ドラマでも取り入れられている竹中半兵衛の輪郭であるが、実像はやや異なるらしい。半兵衛の活躍は江戸時代の軍記物などによって誇張された部分が多く、実際はさほどの活躍もせずに死亡したようだ。