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UBSアートコレクション

 森美術館の「UBSアートコレクション展」をみてきた。前々から、森美術館というところは諸刃の剣だと思っていたのだけれど、その思いをあらたにした。
 教育普及やシンポジウムにも非常に力を入れていると聞くし、いつぞやのビル・ヴィオラ展のカタログなども秀逸だった。
 世界の良質なコンテンポラリーアートを、それもかなりの点数で堪能できる、利便性にすぐれた立地でのおおきな展覧会・・のだけれど、なかなかどうして、僕個人にとってそれほど足の向く美術館ではない。
 ひと言でいうと、やはりどこまでも「小泉チック」なのだ。
 めちゃくちゃ多いとはいえないまでも、展評や特集のたぐいは目にするし、犀利で切れ味のいい批評も、毎回出ているだろう。しかし僕には、そもそもそうした展覧会や作品へのクリティーク以前に、憂慮されるべき点への指摘がいくらかあってもいいように思う。

 行くといつも気づくことだけど、観ている人の多くは、地方からと思われる、団体旅行者である。はとバスとか、旅行会社のパックだとかで、決められた時間だけ六本木ヒルズに来ている人たち。おそらく展望台のエリアと美術館の入場チケットが(オプションかもしれないけど)いっしょになっているので、それで展覧会も見にきている。
 これは、森美術館ならではの特徴だと思う。上野の場合、観光ポイントとしてスケジュールに組まれていたとしても、たいていは公園や不忍あたりのぞろ歩きくらいだと思うし、西美や都美のビジターのほとんどを占めるのは、生活水準がやや高い、都下の専業主婦や年金生活者だからだ。

 僕は、草間彌生のキラキラしたインスタレーションルームに入ってすこしオロオロしているおばあさんとか、杉本博司の、高音波を発している滅菌されたようなモダニズム空間で、孫のためにトイレを探してウロウロしているおじいさんとかをみるたび、なぜか「ごめんなさい」と思う。

 いいにくいことだが、その場で感じるリアリティーと、展覧会で企図されている、作品知覚によってもたらされるべきリアリティーとの間に、ものすごい乖離を感じてしまうのだ、そしてその乖離において、その場に居合わせた美術を解するものとして、ひどく白けた気分になるだ。

 たとえばロンドンのテイトモダンとかも、コンテンポラリーアートを主軸としてはいるが、ビジターのほとんどは観光客である。もちろん彼らは世界各国から来ていて、そこは一見「グローバル」な公共空間といえるかもしれない。けど言うまでもなく、この「グローバル」はある不文律によって、成り立っている。

 ロンドンみたく物価の高い大都市を漫遊できたり、モダン・ミュージアムで余暇を過ごそうと思いつく人たちというのは、かなりの確率で、ビジネスクラスの往復価格が1年間の労働賃金とおなじ国の人だったり、銃で小学生が殺されるエリアの生活者ではないだろう。

 僕自身の経験からいうなら、平日きている子供のグループはたいてい品のいい学校の制服を着ているし、ホワイトチャペル・ギャラリーみたく、コンテンポラリーをやりつつ、それと平行して(あまり高級とはいえない)地元エリアの情操教育も手がけているところというのは、ロンドンではかなり稀である。逆にいえば、そうしたイギリス特有の階級社会の名残が強くあるからこそ、テイトモダンの「グローバル」な空気というのは、保たれているわけだ。

 だから、たとえば展示の存在意義として、もしくは作品がそこでメッセージとして「グローバル」という意味を持つというなら、それは見まごうことなく「大ウソ」である。それは、経済的にめぐまれた選民たちの頭ん中にあるglobal=地球規模だから、現実にはグローバルじゃない。ちなみにこれは、僕がドへタな文章にもかかわらず唯一好きな、「ドイツ写真とグローバリズム」という拙文でいいたかったことと、ちょっと関係している。

 ハナシがすっかり飛んだ。ここで僕は、経済レベルと文化的レベルの線引きをしなければいけないのだけど、日本にはなによりイギリス特有の階級の概念も近代史もないワケで、テイトモダンのこの例えバナシは、もちろん森美術館にすっかり当て嵌めて言うことはできない。

 けれど、それでも思ってしまう・・コンテンポラリーアートの「コ」の字さえ御存知でいらっしゃらない旅すがらの人たちが、あれだけ沢山いるスペースなのだから、企画にもっとラジカルな改変があってもよいのでは、と。

 むしろ、もはや欧米の目からみたら「展覧会」と呼べないようなシロモノになってもいとわない、それくらいのガラガラポンで、かみ砕きまくりの、易しい易しい「アート」の見せ方、そこまでいってしまっても、日本(人口:地方>東京)なのだから、いっそオッケーなのではないか。せっかく田舎から東京まできて、限られた時間を家族で過ごしているのだし、彼らに本当に豊かさを感じてもらえるようなサービスがあってしかるべきでは・・地方と都市部の文化的な温度差、その襞の細かさにもう少しだけ感応し、それを反映させてもよいのでは・・

 「六本木クロッシング」という展覧会シリーズで、いろいろなジャンルの日本のアートをやってはいるのだけど、それを受けとめるアートピープルの意見、批評というのは、欧米人が「Art」を受けとめるときの思考回路と、実はなんら変わらない。「アーティストの人選が…」「アートの制度が…」「キュレーターの視点が…」「カウンターカルチャーが…」。すべて欧米の批評でよく使われている、ありきたりな喧伝文句である。

 なので、日本のアートの今・これから、とか、そういうのは、よほど聡明・対策的にやらない限り、実はあいかわらず欧米に支配された価値基準・考え方に終始してしまっているし、本当はこのことにもっと多くのアートピープルが気づき、絶望すべきだと思う。「日本」の現代のアートシーンが、上に挙げたようなおじいさんやおばあさん、その孫たちの「日本」にどこでどうつながっているのか、それもよく見えてこないものなら、なんでわざわざ定期的に日本をテーマにするのかも、普通によく分からない。

 「UBSアートコレクション」展での作品、そして特に今回、オフィスのような空間演出がされていることに対して、おそらくいくつかは批判的な評がでるように思う。けれど僕には、森美術館の地の利とチケットのシステムによって、今回もまた飛んで火に入るナントカで、ワケもわからず引き寄せられている高齢の旅行者たちを見て、ただ「いつもと同じだな・・」とだけ思ったんでした。企画展として評すべきものは、何もなし!


*展覧会のキーワードとしては、一応「ポートレイト」「身体」「都市」「風景」、そしてきわめつけの「心」とかになっているのだけど、それ以前に、他でもない「UBSの企業力」というのが伝えたいメッセージなのだろうし、それならきっと万人に伝わるはずだ。









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