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Man hat mir schon oft gesagt, "Es wird schon werden." Nun jetzt- 3 Jahre nach meiner Rueckkehr, bin ich sicher: All meine Hoffnungen wurden in diesem kunstarmen Land von denjenigen total zunichte gemacht, die sich gern als Kunstkenner nennen moechten, die aber in der Tat nichts davon wissen. All meine Muehe war vergebens. Sobald ich hier lebe, muss ich frueher od. spaeter meine Errungenschaften in Kunst aufgeben. 10 Jahre lang habe ich zeitgenoessischer Kunst mein Leben gewidmet. Die gibt's aber hierzulande gar nicht. Die Zeit ist reif: ich sage was ich will, bevor ich verlasse.

村上隆さん(以下敬称略)のMOCA(ロサンゼルス現代美術館)での回顧展というのは、あー、11月だったですよね、確か。また一部メディアではお祭り騒ぎなんでしょうか、「世界のムラカミ」に。でもよく考えれば、一つのミュージアムで年間4、5本は個展ってやりますよね普通。で、そのうち幾つかは大規模なレトロスペクティヴだったりなんかもするはずで、そう考えると村上さん(やっぱり怖いので、敬称・非略)がデカい個展をアメリカでやるっていうのも、大きく見ると、他のアーティストよりなんかすごいことを果たしちゃったってわけでもないと思うんですよ、特別。別のいい方すると、もうそれくらいのキャリアはある人だろうし、大騒ぎする方がかえって過小評価なんじゃないかとも思うわけです。

僕自身、村上さんの作品は好きでも嫌いでもないですが、あえて好きなのをいうと「シーブリーズ」!あれは確か金沢(二十一世紀現代美術館)の所蔵なんですが、MOCAの分館の体育館みたいなスペースでみたら、すごく良かったのを覚えています。

大体、僕の記憶している限りだと、村上さんの作品を手放しで、ほぼ批判もなく評価しているのは、日本では著名な某批評家の方、1人くらいじゃないんですか。あとは、やっぱり彼のコントロバーシャルな面を持ちだしてくると、文章も引き立つから、どこか批判しているようなものが多いのではないんでしょうかね。とはいっても、そんなに「村上評」「村上隆論」を読んでいるわけじゃないけれど。そういえば昔UCLAの学生で、村上さんで修論書こうっていう人がいましたけど、本当に書いたのかな…でも、何について書くんでしょうかね。

とにかくまあ、一般的な認知度という点では、多分アメリカでも他のファインアートの作家とは比べられないくらいの存在にはなったのでしょう。それを決定的なものにしたのは、この前出た、村上さんの絵の、カニエ・ウエストのアルバムのジャケットですよね。あれ、タワレコとかでジャケ買いしちゃうヒト、いっぱいいるんじゃないんでしょうか。というかアヴリル・ラヴィーンでさえ、Mステで新曲歌うために来日しちゃうくらい、アメリカの音楽産業ってご当地でのセールスが厳しくなっていますから。村上さんにアートディレクションを任すというのは、日本でのCDの売り上げをねらった「人選」だったというのも、まあほぼ確かなわけで。

全然関係ないんですけど、そろそろチャートから落ちるから見るチャンスもなくなってしまうと思うんですが、あのカニエ・ウエストの新曲(ダフトパンクがフューチャーされているやつ)のPVって、見てるとこっちが恥ずかしくなってきちゃいますね。「ガソバレ」とか、お約束の間違った日本語が出てきたり、「攻殻機動隊」へのオマージュみたいな、近未来日本のイメージのCGとか。

それかあと、「ロスト・イン・トランスレーション」のワンシーンみたいな、渋谷駅前の交差点と、歌舞伎町のネオンのアップをカメラに収めちゃいたいという、「欧米」のツーリスト目線ですよね。コレコレ。村上さんを好きな向こうの方々をみると、こういう「お上りさんのみたニッポン」のイメージを突きつけられているような、一瞬なんか複雑な気分になったりするのも、事実だったりするわけで。

常日ごろ思っていることなのですが、日本人ほど国民性の色がないのに、「外からみられた自分たち」を気にする人たちって、そんなにいないですよ。「クール・ジャパン」を筆頭に、ほとんど毎月のように「アメリカから見た日本」のような雑誌の特集が組まれてたり。ニュースでも、「海外では日本がどんな風に報道されていたか」を、よくCNNの画像なんかで流したりしていますよね。思うに、多分岡倉天心の「The Book of Tee」くらいから、日本はその文化的閉塞の「ガス抜き」として、外側からの目をずっと必要としていたんじゃないんですか。「日本人はどこから来たのか/日本語のルーツはどの言語圏か」とかね。アイデンティティーの固まっていない人たちなので、「外濠」でそれをごまかしてきたわけです。小島信夫の小説なんかは、戦後そんなに経っていないのに、おそろしいくらいのアクチュアリティーでこの「アメリカからみた日本」の虚像性を描きとっています。

そういう状況に、さらに輪をかけるようにして、2000年以降アメリカが「本当に」、日本のカルチャーに目を向けはじめた、ということもあるでしょう。洋楽つながりでいうと、一昨年くらいに出たグウェン・ステファニのアルバム(タイトル忘れました)ですね。アルバム全体が、日本のサブカルチャー(笑)をコンセプトに作られていて、楽曲に日本語のセリフが入っていたり、これ以降自らのパフォーマンスで、「ハラジュク・ガールズ」なるダンサーをつかっていたり。特にアルバムの中折りが、イラストのシークエンスになっているんですが、日本の女の子たちが桜の木の下でグウェンとたわむれているようなドリーミーなイメージで、そのユルい描き方が、見事に「カイカイキキ」のアーティストみたいなタッチだったりする。これ確か、村上さんのチェリーのヴィトンのモノグラムと同じ年だったと思うのですが、そういう文化面でのシンクロナイズの波が、この頃どんどん大きくなっていった気がします。

「アメリカから見た日本」を夢みる僕ら日本人のファンタジーと、「日本人からみられた私たち」のイメージを、カルチャーのなかで楽しみはじめたアメリカ人のファンタジー。この2つが絡みあって、ツインターボでムラカミブランドを動かしてゆく。

あくまで推測なんですけれど、村上さんは、この二つのタイプのファンタジーのあり方を理解されて、これを分裂的に使いわけて、互いに共振させるという風なことをかなり意識的・戦略的にやってきたんではないか。これくらいのことは、まあ多分、どなたかが既にいわれていると思われます。でもです。僕はさらに「推測」するんですが、共振というと、ふつう力は等しく相乗されていくわけですが、多分村上さんは、両方のファンタジーに振り分けられたアイデンティティーを、「ピタッ」とあわせることに眼目を置いていなかったと思います(まあ、ヒトリゴトなので許してやってください)。そうではなく、あるポイントで、どっちかのファンタジーを手放してしまい、片方だけに自分の集中するポイントをおく。このとき、振り子のように共振してきたおかげで、残ったほうの力はまったく、元の倍どころではないくらいしっかり強まっているわけです。別のいい方をすると、手元に残したパワーを得るために、共振を発生させ、結果としてみたら手放したほうのファンタジーを、そのために「利用」したとも考えられる。

ここで僕のいう「手放されたほうのファンタジー」とは、アメリカ人の持っているほうのファンタジーではないですよ。日本人が持っている、アメリカ(欧米)からみられた自分たち、というイメージ(ファンタジー)です。 もう少し詳しくいうと、まず「ファインアート」というのは、欧米の価値観を礎にしてできている、というのは多くの人たちに理解されている。なのにその礎に日本のアキハバラなイメージが乗っかって、しかもこれがあちらで受けているらしいとなると、日本人の自尊心を快く刺激してくれるわけです。

で、また、ここからが巧いところなのですが、こうした欧米目線のイメージというのは、ただ「はいこれね」と差し出してやるだけでは、アウトなのです。なぜかというと、たいていの場合、このように直に自分たちの自尊心=「エゴ」の転写されたものを見せつけられると、それというのは「外人から、こう見られたいと思っているかもしれない自分」なわけです。ですから、逆に不快に感じられます。「こんなの、自分じゃないよ」、と。ウエストのPVやら、ソフィア・コッポラの映画にうつったHIROMIXなんかをみて、なんか居心地が悪くなる、というのと同じですね。また、しこたま外貨を稼いで、両脇をWASPで固めて、向こうに帰化しちゃいました、というようなイメージのみが流れてしまうと、中田英寿のように、ブランドバリューは脆弱化してしまう。とすると、目線をまったく日本に内在化させる必要が生じてくる。海外へ向けられたファンタジーを、ファンタジーとして自認させてはダメなわけです。つまりは、オタクならオタクという現象を、「この国の」問題としてアカデミックなフィールドで差し出してくれる。そういう「論客」を巻き込むことで、「日本の価値観」に接続する、自己のイメージ戦略。コレです。

今僕は、ややセンシティヴな部分に触れようとしていますので、あまりこの件はつっこんで、これ以上いわないことにしますね。ですが、これはあーまったーく、愚考なんですが、村上さんは本当に、例えば東浩紀さんとオタクについて、現代日本のカルチャーについて、語り合うことからなにかアーティスティックな滋養をもとめていたんでしょうか?

それとも、例えばですよ。例えば、そうやって色んな出版社のつくったチャンスで、村上さんは日本のサブカルについていろんな方々と対談や鼎談をされてきていたわけですが、単にそれが輸出するためのアイデア集め、欧米言語に翻訳するための念入りな「ニッポン」リサーチだったとしたら、僕たちは以下のような浅田彰さんの言葉を、どう受け止めれば良いんでしょう。

いや、僕は村上隆のような人はある意味で尊敬しているわけです。日本の美術はアメリカを中心とする世界の美術にずっと制圧されてきた。あいつらを見返してやるにはどうしたらいいか。日本は、「リトル・ボーイ」という名の一発の原子爆弾を落とされ…(中略)オタク文化の粋を集めた「リトル・ボーイ」展でアメリカに、さらには世界に攻勢をかけて、一点一億円で売ってやる。ざまあみやがれ、と。これはある意味で徹底して絶望的で不毛な戦略ではあるものの、村上隆がそれをよくがんばって実践しているとは思いますよ。(「表象」01、2007年4月)

さて、浅田氏のいうように、事実は本当にこの通りだと思いますか?村上さんは本当に「ざまあみやがれ」と思って、アメリカで一点一億のアート作品を売っているんでしょうか。いやいや、そんなわけないと思います。欧米のアートの世界でサバイブしてきた人たちは、そんな不遜さを裏に隠しもったパーソナリティーを見抜けないほど馬鹿ではありません。あ、それと「世界に攻勢をかけて」っていうのも…日本のメディアがつくりあげたムラカミ像のプロトタイプという気がします、正直。ドイツの「Capital」誌で40年つづいている「アーティスト・ベスト100」(作品価格、ギャラリーとコレクションとなっている美術館の規模から判断)の今年版では、村上さん100位内にも入っていませんよ。怒られるかもしれませんが、事実です。

もちろん誰にもできないような努力を、「よくがんばって」されてきたには、違いありません。でも、「がんばり」というのはそれじたいで評価されるべきものではないというのも、また言えることです。アメリカの一部の動きだけを見て、「世界の〜」とか、アンディ・ウォーホルの再来みたいにいうのは、意識のレベルではグローバリズム以前です。あるいは、お菓子のオマケを開発します、とか、ヴィトンやイッセイミヤケとのコラボによって、ハイアートとロウアート、アート・システムと日常との垣根を越えるのです、みたいなことだったら、このような内輪的な格付けチャートでは、タカシ・ムラカミの真価をはかれない、というのも一理あるかもしれません。けれど、もしもそうなら、なぜ「一点一億」を、いまだガゴシアンのような最高にエスタブリッシュされたコマーシャルギャラリーで売っているんでしょう…すくなくとも、「制度破壊」と同義としての「価値破壊」は、何もしていないんじゃないですか。

ちなみにこのカニエ・ウエストというヒップホップのアーティストは、MTVのインタビューで、村上さんを起用した理由を「彼は、偉大なポップアーティストだからね」といっています。また、戦略という点ではかなり違うのですが、商品と広告分野にもアクティヴィテイーを広げるというメソッドは、氏が敬愛してやまない(らしい)アンディ・ウォーホルとだいたいは同じです。

「ポップアーティスト」という、このウエストの言葉にも明らかなように、ムラカミブランドを語る際、多くの人がそこに重ね合わせるのは、曽我蕭白でも伊藤若冲でもなく、やはり「アメリカの」ウォーホルなのだと思います。ということは、欧米権威なファインアートを「価値破壊」し、このためにあちらで作品が注目を受けて評価された、ということでは(おそらく)ありません。ウエストの口から「ポップアーティスト」という言葉がでてくるということは、彼は少なくとも、例えば村上さんの「リトルボーイ」のコンセプトに評価をおいているというわけではないはずです(なぜなら、このグループ展のために村上さんによって建設されたステートメントでは、「ポップ」は文化史的に屈折した局面をもっていて、端的にそれとはいうことができないような概念だったからです)。そしてそのウエストが、今回アルバムジャケットという形で、ムラカミブランドの株を大きく上げるような、「ポップ」なアートディレクションを発注している。こうしてみれば、事態はむしろ、浅田氏のいうのとは真逆であるとさえいっていいでしょう。そこにあるのは、既存のコンテンポラリーアートのシステムに同化しようとしている、NY指向のアーティストの姿ではないでしょうか?

まあ、別にどっちでもいいんですけど…批判しているわけではないんです。ただ、村上さんの欧米/ニッポンのあいだを架橋する壮大なストラテジーというのは、二項対立の構図がときに曖昧というか、どこか人を煙にまくようなところがある。茫漠としたアートゲームの台風の目に引き込まれたような、ポジションのつかみどころのなさを、いつも感じさせられます。特にご本人がこんなことをおっしゃっているのを見つけた時とか。

現状の恐竜体質だと、もうアートは絶滅するんですよ。美術館はデカすぎる、壁も高い、天井も高い。白い空間があり過ぎて、そこを一発で埋めるアイデアもなくなってきた。だから単純に、美術館とかこれまでの美術シーンは絶滅ですね。(「広告批評」2004年4月号)

浸透膜のように、ステートメントの点でもロウアート(広告)とハイアートのあいだに視点を張りめぐらせ、その時々に「アート」という概念を根底から使い分けている。そういう印象を、少なくとも僕は受けます。スパイが、味方なのか敵なのかどっちか分かんなくなってきちゃうというのと同じですね。でもそう考えると、村上さんの作品というより、むしろムラカミブランドをめぐる「お祭り騒ぎ」の方が、よっぽどアートなのかもしれません。「シーブリーズ」っていうあの作品も、そもそも村上さんをとりまくグルーピーが熱狂するための「ハコ」として成り立っていた作品であって、そういう意味では領域・公式化不可能という、アートの神妙なパワーが集約していますしね。

繰り返しになっちゃいますが、メインストリームとしての「アメリカ」=「世界」に潜入して、それを内部崩壊(undermine)に導く。もしくは広告、アニメ、商品とハイアート、日本と欧米の垣根をぶっ壊す。こういうのが、氏のやりたいことだと思っていたんですが、なんか結局そういうのって、ずっと不透明ですよね。何がされたいんでしょう?

絶滅寸前の「恐竜体質」の美術館(MOCA)での、レトロスペクティヴ!楽しみにしておきます、とりあえず。一緒に絶滅してしまわないことを祈りつつ。







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